子供の頃から山の木の実は好きだったが、野菜や市販の果物はあまり食べていない。
実家は食料品店で周年果物野菜が溢れていたが見向きもしなかった。 嫌いな果物の代表は酸っぱいリンゴ、それに酸っぱいブドウだった。
それらは山に自生するアケビやキイチゴなど木の実の味の足元にも及ばなかったが、貧相に見える木の実が美味しく、立派な果物が何故不味いのか、子供心最大の謎だった。
協生農法を始めてから放任した果物は美味しかったが、むー農園の野菜はあまり食べていない。
農法が社会に必要だからやったのであり、野菜が好きだからではない。 本能が求めないのだからそれに従っただけだな。
好き嫌いは別にして、体が野菜を必要としなくなる理由ははっきりしている。
肉食の犬や猫は体調が悪くなれば草を食べる。
人間は雑食に進化したが、主食はあくまで肉類であり副食は果肉、消化機能だけでなく味覚による判別機能もそうなっている。
人間にとって野菜や草の種である穀物はあくまで「その他の雑食」であり、食性はまったく合わないが、肉がない時に生き延びる為の非常食・備蓄食のようなものだ。
植物の種は動物に消化されないよう進化したもの。
元々それらを消化する能力がないのだから草もキノコもニラもトウモロコシも米も玄米も大半はそのまま排出される。
これでは何の為に食べるのか、必ず疑問が残るはず。
人類史から見ても、それらの成分養分・ビタミン・ミネラルなど最初から人体は必要としていない。
そもそも動物はセルロースを分解する構造にはなっていない。
草食動物も例外ではなく、それが出来る腸内細菌に分解を依存している。
草の分解機能を持たない犬や猫が消化出来ない草を好むはずもない。 ペットフードばかりで完全な肉が摂れなければ不調になり、食性は合わずとも草の完全な「生命制御エネルギー」を求めるからだ。 食べる目的は栄養を摂る為の消化吸収ではない。
人間も同じで、本来の食性で不調がなければ果肉以外の植物は求めるはずもない。
多くの人が常に野菜を求めるのは、不調で本能が「完全な生命」を求めているからであり、求めるのは「それ」が不足したからだ。
その野菜に植物として「本来の生命」がなければ、いくら摂ろうが満たされることはなく、毎日何度も野菜を食べ続け、体に負担をかけ続ければ老化も進む。
本来の体型に戻るダイエットだろうが、健康だろうが目的は果たせない。
ほぼ全員が目的を果たせなければ主食、副食、健康食、そのすべてが間違っている。
間違っていなければこれほど病人は激増しない。
野人は常に絶好調だから野菜をあえて必要としない。
ただし、食べたい時、出された時は少量食べるがそれは本能ではない。
以前、栽培ウリの漬物の旨さに夢中になりどっさり食べた。
不調で放任レタスをバリバリ食べたこともある。
好きで食べる、不調で本能が求める、その仕分けは難しいが、自然界のこの道理を念頭に野菜を食べ続ければやがて理解出来るだろう。
犬猫がそうであるように体を鎮める植物エネルギーの効果は即効性が多い。
江戸時代から既に、耕して有機肥料で育てる野菜にその作用がなかったから野草である七草を食べる習慣が生まれた。
あればその必要などなく、同じ植物である野菜で間に合う。
七草は語呂合わせであり、不味いからカブと大根の野菜2種を加えたのだろうが、味付けのようなものだから問題はない。
人間もペットも本来は必要ない野菜や草を求める理由は、どちらも森から遠ざかり過ぎたからだ。
動物は肉食・草食・雑食関係なく「植物エネルギー」は心身の維持に必要なもの。
誕生以来、食べずとも生命維持に足りていたエネルギーが不足すれば、いやでも「食べるしか摂取方法はない」ということだな。
当然、足りていればそれらは必要がないもの、野生の肉食動物がそうであるように。
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