茶畑の様相も以前と随分様変わりして来た。
夏も近付く八十・・の歌が出来た頃は手で摘んでいたが、機械化が進み茶園も風情がなくなって来た。
通路は、やっと人が通れるくらいのものから、今は自走式茶摘み機の足が入る程度に狭まり、通るのも困難だ。
見渡す限り芝生のようで、工場のようにも見える。
畑のように耕さないのは良いが、健全な生態系の循環は見られない。
虫の猛攻や病気になるのは当然と言えば当然、農薬は必需品になってしまった。
無農薬栽培の代償は相当な労力と言うことになる。
肥料与えれば肥料効率は良いが、肥料の大半は茶が吸い上げることになり、味もそのようになり、農薬も同じことだ。
茶は本来の味は出せず、肥料や栽培法によって味が左右されるだろう。
化学肥料、有機肥料、共にその成分が茶の味を決めることになる。
これは茶の為ではなく、人間の効率の為にこうなったと言える。
野菜畑、果樹園にも同じことが言えるが、効率第一が常識のようになっている。
これでは工業製品と大差なく、植物の為にはならない。
農産物に愛情を注ぐ人は多く、またそうでなくては誇りを持てない。
しかし生計の為とは言えこれで良いのだろうか。
母親は我が子を育てるのに精一杯の愛情を注ぎ、子の為にならないことはしない。
野菜や他の農産物も同じことが言えるのではないだろうか。
野人こと無茶人は野菜を得る為に野菜の為にならないことはしない。
つまり植物の為にならないこと、仕組みに反することはしたくないのだ。
環境は整えてあげるが余計なことはしないのが彼らに対する愛情だと思っている。
今月造成する2反の茶農園もそれを念頭に入れている。
まずは茶を始めとするすべての植物の理と利、次に人間の利だ。
協生とは共に利があることであり、理は植物にはあっても人間にはない。
自然界の循環に人間の理などあるはずがないし、本来は介入すべきではないものなのだ。
環境を整え最低限の草の管理をすれば後はひたすら有難く頂戴するだけで、出来たものには文句は言わない。
野山がそうであるように植物に人間が与えるものは何もない。
与えれば迷惑、困惑するだけだろう。
唯一、日照りが続いて枯れる寸前になった時だけ出来る範囲で水の手助けはする。


