「育てる」と「育つ」の違いは明確、生命体は生まれてからその必要があるかないかにはっきりと分かれている。
哺乳類は一人立ちするまでは親が育て、鳥類も同じ。
爬虫類や魚類や昆虫などの類は親の助けを借りなくても自力で生きる。
口の中に入れて面倒を見るワニや魚もいるがほんの一部で、お乳や餌を与えるわけではない。
植物に至っては親の顔も知らず生まれる場所も選べない。
種が落ちた場所で自力で生きて行くしか道はないが環境が悪ければ育たない。
だからこそ大量の種子を広範囲に残そうとする。
種の数からすれば動物とは比べ物にならないくらい多い。
植物は動物に住処と食を与え、また動物と共に繁栄して来た。
食材の採取から栽培の時代になり創意工夫が成され、人は豊かな食の文化を築き上げた。
霜降りのブランドの肉や桃やサクランボなどの立派な果物は高価だが本当に美味く、たまに食べたいと思っている。
うなぎは今はどのような味も脂の乗り具合も餌次第で自在に出来るまで養殖技術が進んだ。
天然と比べてもそれなりに旨い。
養殖のカンパチも天然物に比べて遜色がない。
野菜も数十年前に比べて色も形も見事なものになり、周年出回るようになってきた。
しかしながら、飽食の時代で栄養バランスが取りやすいはずなのに健康問題が浮き彫りにされている。
美味しくて何でも自由に食べられて健康になれば言うことはないのだがそうは行かないようだ。
健康か嗜好か・・比べるまでもなく両方大切だ。
食は人の心を豊かにする。
食生活から健康というものを見直すなら、カロリーや添加物やバランスも大事だが、本来の生命力のある食品を食べることが一番大切なことではないだろうか。
海藻や健康な魚、毎日食べる野菜などがそれに当たる。
人が餌を与えて育てたものは必ずしも安全、健康とは言い切れない。
霜降り肉を毎日食べればそれなりに影響は出るだろう。
魚や野菜や果物も同じことが言える。
嫌でも加工食品の恩恵に預からざるを得ない今日、少しでも自然本来の活力ある食べものを口にするしか健康は維持出来ないのではなかろうか。
肉はともかく魚は放っておいても自力で育つが回収が困難だから仕方ない。
では野菜はどうか? 泳いで逃げるわけではなくそれなりに育つ。自然界の植物がそうであるように。
化学肥料や有機肥料を与えれば猛烈に育つ、魔法の薬のように・・・果たしてそれが必要なのだろうか。
元々、餌がいらないのにたっぷりと餌を与えることが・・その場から身動きできない野菜は嫌でも食べざるを得ない。
立派に育って果たして喜んでいるのだろうか?聞いたわけではないからわからないが、虫や病気の害が絶えないことから、少なくとも迷惑しているように見えるのだが・・植物の本質は、どんな環境においても自力で養分を土中から吸収し、自力で育つ環境を作り上げる、土着微生物や動物と協力して・・森羅万象はそのように仕組まれている。
育ちにくい環境でも小さいなりに花を咲かせ、種を残そうとする姿にたくましさすら感じる。
人は、花を咲かす前に出来るだけ立派に膨らませ収穫する。
有機肥料で美味しい野菜も作ることが出来る。
美味しさが必ずしも健康と結びつくはずもない。
健康な本来の「野菜」とは、その味が甘くてもほろ苦くても、自分が生まれた土壌から全力で吸い上げた養分で育った「植物」ではないだろうか。
食べやすく品種改良が成された野菜も植物であることに変わりなく、その本質は変わらない。
同じ畑の中でも条件が違えば味が違うのは当たり前、鮎でも川の水質でその味は変わる。
それが自然と共に生きる本来の農業の姿。
これでもかと人が色んなものを畑に持ち込む必要などないはず。
残飯や糞尿や高価な微生物などは元々そこにはないもの。
人がやることは野菜が育ちやすい環境になる為の自然の理にかなった手助けだけで十分だ。
その為には草や木や虫や鳥は不可欠、自然界の循環をそのまま再現した畑はいまだ見たことはない。
また、草や木や虫や鳥に詳しい農家の人には一人も会った事がない。
野菜は育てるものではなく育つもの、せめて毎日口にするものくらいは立派さよりも活力や健康を選びたい。素朴な美味しさは何者にも代え難いものだ。
土壌による味の違い、日照による柔らかさの違いを楽しむのもまた楽しい。
今日は驚くほど糖度が高くて濃厚な味のホウレン草を食べた。
その葉は小さくて分厚く、道端のタンポポのように横に広がっていた。