月白の水平線 伏魔殿5
一人残された部屋で、私は呆然と立ち尽くした。
不安が募っていく。
なぜレオン皇子は、ああも早く私との対面を切り上げたのだろう。
失礼に当たることはしていないはずだ。
だとしたら、やはり私の容姿や声が気に入らなかったのか。
サシャータを被っているとはいえ、女性にしてはかなり低音な私の声に、
百戦錬磨の皇子さまも驚かれたのか。
そうであれば、私にはどうすることもできない。
会いたいと言ってきたのは向こうの方だ。
勝手に会いたいと望んで、勝手に失望して、男とは忙しい生き物だ。
お疲れさまですとしか言いようがない。
レオン皇子によい印象を与えられなかったことは、伯爵に申し訳ないと思うが、
私をレオン皇子に対面させようと決めたのは主だ。
私が皇子と会う腹を括ったのは、
伯爵が皇子に悪印象を持たれないようにするためであって、
私自身が望んだからではない。
以後、このような場を設けてくれないことを切に願うばかりだ。
早速口にしたいほど喉は乾いていたが、
まだお茶を口に運べるほど心に余裕が生まれていなかった。
私はカップに伸ばしかけた手を止めると、窓の外に目をやった。
そういえば、伯爵とレオン皇子がどのような事柄を話し合ったのか、
まるで振り返る余裕がなかった。
舞踏会に出席することが決まり、
すっかり頭が回らなくなってしまったことを許してもらいたい。
よい機会なので、一人静かに経緯をまとめておくとしよう。
わが国の王宮への不信感と、西の海の国々に対する反感は、
レオン皇子と伯爵が共通して抱くものだった。
これらは当然、公に知られてはならない。
彼らの野望が明るみに出れば、レオン皇子はともかく、
伯爵の政治生命は王宮によって絶たれてしまうだろう。
レオン皇子があの厄介な国どもをどうにかしたいと考えているのは、
そのままアステール帝国の方針でもある。
昨今、アステールはその姿勢を鮮明にしつつあった。
「ミデルファラヤの勢力拡大の方針が、
世界に平和をもたらすとは到底考えられない。
支配下に置いた土地の人々の身体や生命を、
紙切れ一つで差し出させようとする国家に、平和な世界が築けるだろうか」
昨日『青虎新報』でとある会見におけるアステール皇帝の声明を読んだ時、
私の脳裏に浮かんだのは、ハックさんの店で見た不快な紙切れだった。
アステール皇帝が示唆したものが、私が見たものと同じであると断定はできない。
だが、もし同じならば、
ミデルファラヤの悪行は私の予想していたより広範囲に知れ渡っていることになるが……
それはさておき、
ともかくアステール帝国はミデルファラヤに対する旗色を鮮明にしている。
ネルドリに関しては、目立った方針は示されていないが、
昨夜レオン皇子が伯爵と話した内容から考えるに、
ミデルファラヤと同じく厄介で許し難い国家だと捉えていると思われる。
しかし、伯爵はレオン皇子のように、
自身の主義主張の赴くまま行動できる訳ではない。
伯爵は領地であるカシルダに関することならともかく、
国家の外交に口出しできる立場ではないからだ。
まして、自らが仕える君主ではなく、他国の皇族と結託して
第三国(ミデルファラヤとネルドリのことだ)の転覆を図るなど、
臣下としてあるまじき行為だった。
伯爵は表向き普段と変わらない健康的善人面を晒しているが、
いかに危ない橋を渡ろうとしているかは自覚しているだろう。
わが国の王宮やミデルファラヤ、そしてネルドリの目を欺きつつ、
自分たちの野望を達成するにはどうすればよいのか。
その第一歩として「伯爵をアステールとわが国の橋渡し役とすること」と、
「アステールの新たな活動拠点をカシルダに設けること」を王宮に認めさせた。
どちらもよく王宮が許可を出したものだと思う。
王宮からしてみれば、アステールは敵に回したくはないものの、
親しくし過ぎてミデルファラヤに目を付けられたくもない存在だ。
伯爵をアステールとの橋渡し役として認めたのは、
自ら手を下せない場所にいてどうするのだ」などどと主張しそうだが、立場による。
琥珀色の水面が揺らぐカップを見つめながら、そこまで考えを巡らせていると、
品のよいノックの音がした。
失礼いたします、という秘書官どのの声に次いで現れたのは、
秘書官どのご本人とわが主である伯爵、そして、
「エリー、お待たせしてすまない」
よく通る声と共に姿を見せたのは、
世界最大国家の皇族に相応しい堂々とした姿のレオン皇子だった。
先刻までの落ち着かないというか、
何かに動揺しているような感情は漂わせていなかった。
「黄金の貴公子」「碧眼の軍神」という
華麗な異名を冠されるだけのことはある美男子だが、
見目がよいだけではないことは、改めて対峙してみて体感した。
内側から出ているものが常人とはまるで違う。
生気と自信と意欲が内側から満ち溢れている。
「いえ、とんでもございません。お気遣い痛み入ります」
私はすぐさま立ち上がると、会釈しつつキラキラ皇子の表情を伺ったが、
私に対しての負の感情も見て取れなかった。
先程の対面で、私によろしくない感想を抱いたかもしれないが、
少なくとも現在は封印してくださっているようだった。
表に出さないでおいてくださっているだけでも感謝しておこう。
おかげでこちらも動揺せずに済む。
私の名前から姫を取って呼んだのも好印象だった。
わが主が入れ知恵してくださったのだろう。
レオン皇子が腰を下ろすよう勧めてくださったので、
私は伯爵と並んで再度ソファに身をうずめることにした。
レオン皇子が元気になったのに反比例して、
伯爵の表情は若干冴えないようにも見えたが、
私の天敵である異母兄と対峙してくださった上に、
レオン皇子と私にも気を配ったせいで疲れているのかもしれない。
「話はピスカーから全て聞いた。
不快な目に遭われたところをお呼びだてして申し訳ないが、
こうしてお会いできて、本当に嬉しく思っている」
レオン皇子の台詞には、権威を傘に欠けたような成分は含まれておらず、
その点では好印象だった。
どうせならあのまま上屋敷に帰らせて欲しかった、とは思うものの、
相手は世界最大国家の皇子さま。この程度のわがままなら許容範囲内だ。
(むしろわがままというか、おかしいのは私の方であるのは自覚している。
そもそも、私が妙齢男性恐怖症でなければ何の問題もないのだ)
「こちらこそ、お目にかかれて光栄です、殿下。
わたくしのような者にまでご配慮くださり、恐れ入ります。
醜態をお耳に入れてしまいましたこと、心よりお詫びいたします」
「何をおっしゃる! 醜態を晒したのはあなたの兄だ……あれは異母兄だな?」
「はい」
「そうだろう、あのような愚か者があなたの実の兄であるはずがない」
レオン皇子はあからさまにあの天敵を悪しざまに罵ったが、
異母兄を擁護する気は全く湧かなかった。伯爵も同様であるようだった。
「あなたもお疲れであるとは思ったのだが、
次こちらに来られるのはまだ先になるから、一目でもお会いしたくてな。
私のわがままを聞き入れてくれて、本当にありがとう」
「いえ、こちらこそ、お会いできてとても嬉しく思っております。
お気遣い感謝いたします」
レオン皇子はこの身分にしては、格段にお優しいと言ってよかった。
普通の王族や貴族で、格下の者にここまで配慮する者はそういない。
いるとすれば、私の隣に座っている健康的善人面くらいだろう。
そういえば、伯爵とこうして横に並んで座ったことは、
今までになかった気がするな……
ふとそんな事が頭をよぎって隣の人に視線を向けると、
ほんの僅かに目をやっただけにも関わらず、すぐに伯爵の身体が視界に入った。
慌ててソファの座面に視線を移したのだが、
なんと私との間に拳一つ分程しか間隔が空いていないではないか。
そこへ私にとって不幸なことに、
先刻手を握られていたことを思い出してしまうと、全身から汗が滲んできた。
動揺の粒が背中を伝っていく感覚が不快でならなかった。
横に並んで座っていることも気がつかなければよかったし、
手を握られたことも思い出さなければよかったが、今更どうしようもない。
ともかく今は、レオン皇子との会話に集中しなくては。
「あの愚か者には、明日にでもまた釘を刺して置くよ。
今日は憂さ晴らしに、ここで少し飲み食いしていかないか?
二人とも腹が減っているだろう?」
その言葉に、私と伯爵は同時におのれの腹部へ目をやった。
レオン皇子のおっしゃるとおり、我々は空腹だった。
舞踏会の会場で用意されていたはずの軽食にたどり着く前に
会場を出てしまったので、当然ながら二人とも空腹だった。
とはいうものの、本当なら私はすぐにでもこの場を辞したいのだが、
伯爵はレオン皇子との会食を楽しみたいだろう……感情的にも肉体的にも。
私も会話は二人に任せられるなら、疲れた身体に栄養を与えてやりたい。
よし、健康的善人面よ、後は任せた!
私の事は忘れて二人楽しく語らうがよい!
この強烈で重大な念を送るため伯爵の方へ顔を向けると、期せず主と目が合った。
私の確固たる意思を読み取ってくれたのか、伯爵は重々しく頷くと、
「お気遣い感謝します、殿下。
王女殿下もお疲れで空腹でいらっしゃるようですし、
お言葉に甘えてもよろしいでしょうか?」
とんでもない事をのたまりやがった。
やはりこやつは海の底深くに封印しなくてはならない。
レオン皇子は高らかに笑うと、
秘書官どのに食事の用意をするよう指示をなさった。そして、
「すぐに用意できるからな。それまでもう少し待ってくれ、暴飲暴食女王陛下」
あまたの女性がうっとりするであろう、
輝かしい笑顔をこちらに向けておっしゃった。
上屋敷に帰る馬車の中で伯爵がどのような目に遭ったかは、
ご想像にお任せしたいと思う。



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