からの続きです
ペテロシリーズ#33 <vi>
クリスチャン生活についての三つのたとえ (第一ペテロ2章1-10節 )
ロバート・D・ルギンビル博士著からの翻訳
聖書にこう書かれているのはそのためである(第一ペテロ2章6節):
ペテロがこれに続く引用(イザヤ28章16節からの引用)の前に置いているこの言葉は、
イザヤがシオンの岩について述べた箇所が明らかにメシヤについてのものであり、
私たち一人一人の信仰がその上に据えられ、堅く安んじている岩であるキリストを
前もって指し示していたことを示しています。
キリストは、私たち全員がその一部をなしている建物の隅のかしら石です。
キリストは特別に選ばれた土台石であり、この方にあって私たちもまた選ばれた者です。
キリストは試され、尊く、値をつけることのできない石、
御父の目に非常に価値ある石であり、この方を通して
私たちもまた愛おしい者とみなされています。
そして私たちは、教会のすべてのものの土台であるこの方とのこの関係を、
この方への信仰を通して持っています。
この方への信仰によって、私たちは「決して恥を受けることがありません」。
これは、イザヤの箇所では「決して揺るがされることがない」と述べられている言葉を、
聖霊に導かれてペテロが適用したものです。[1]
キリストを信じる人間の立場から見れば、キリストに信頼し、確信を置くことによって、
私たちは自分たちの永遠の将来について何も心配する必要がありません。
一方、建物のたとえという観点から見れば、生ける石である私たちは、
この完全な建物、すなわち教会の中で自分たちに与えられた場所から
決して揺さぶられて外れることはありません。
私たちは、完全な建築家である天の父によってその中に完全に据えられており、
建物全体は唯一の土台である私たちの主イエス・キリストの上に堅く据えられているのです。
このように、イザヤは岩の到来と、私たちがその方と親密に一つにされることを
預言することによって、メシヤの王としての地位と祭司職を含め、
メシヤがどのような方であり、何を持っておられるか、
そのすべてに私たちもあずかることを間接的に予告していたのです――
「聖書に[この言葉が]こう書かれているのはそのためです」。
この栄誉(第一ペテロ2章7節):
私たちが救い主イエス・キリストと一つにされていることによって与えられている、
御父のもとへ直接近づくことのできる特権は、世界の歴史において前例のないものであり、
まことに並外れた栄誉です。
しかし、それは目で見ることも、感じることも、実際に体験することもできないため、
十字架で主が勝ち取られたすべてのものにあずかる者として、
神に仕える王なる祭司とされているという、イエス・キリストにあって
私たちが持つこの高い身分を、私たちが本来そうすべきほど深く認識していないことは、
ある意味では理解できるものの、それでも残念なことです。
信者である私たちは、キリストの花嫁であり、キリストのからだの一員として受けている
数々のすばらしい祝福を、少なくとも時折は思い起こすべきです。
とりわけ、私たちが常に持っているべき主にある喜び――
私たちの真の力の源であるその喜び――を十分に持てていないと感じる時には、なおさらです。(ネヘミヤ8章10節参照)[2]
この世は、この世の目から見ればどれほど低い境遇にあるクリスチャンであっても、
この世で最も選ばれたエリートたちの権力や地位をはるかに上回る身分を
神から与えられているという事実を見ることができず、
ましてそれを価値あるものとは認めません。
この世の悪しき者たちは私たちをあざ笑うかもしれませんが、
神は彼らをあざ笑われます。(詩篇37篇13節)
そして私たちには、この実にすばらしい祭司としての身分と、
それに伴う恵みの御座への直接の接近を喜ぶ十分な理由があります。
なぜなら、私たちは、それが現実のものであり、
言葉では言い表せないほどすばらしいものであることを、信仰によって知っているからです。
[それゆえ私たちは]見えるものに目を留めるのではなく、
見えないものに[目を留めよう]。
見えるものは一時的であるが、見えないものは永遠だからである。
私たちは、見るところによってではなく、信仰によって歩んでいるからである。
(第二コリント5章7節 /NKJV訳)
さらに、[生けるみことばと書かれたみことばに対する]信仰こそ、
私たちが望んでいるものを確かなものとするものである。
[信仰は]見えないものについての確証を与える。
(へブル11章1節)
しかし、不従順な者たちにとっては(第一ペテロ2章7-8節):
私たちの主イエス・キリストの大祭司職にあずかることによって、
父なる神に仕える王なる祭司とされていることは、まことに大きな栄誉です。
そして、キリストにある私たちの立場と、不信者の立場との違いは、
これ以上ないほどはっきりしています。
たとえ、私たちが、金持ちの門前に横たわり、
その金持ちと比べてこの世での境遇があまりにも惨めであった貧しいラザロのように、
この世で患難や火のような試練のただ中に置かれるとしても、
(そしてそれは、キリストを真剣に信じる者にとって珍しいことではありません:
キリストを受け入れることを拒む者たちが享受している祝福は、
一時的なものにすぎないことを私たちはよく知っています。
彼らにとって、キリストはつまずきの石です。
つまり、この人生において問題となるのはイエスをどうするかということであり、
イエスを受け入れることを拒む者は皆、その拒絶が意識的なものであれ、
ただ受け入れようとしないというものであれ、それによって、
自分が神と共に永遠に生きることを望んでいないことを示しているのです。
したがって、この地上での短い人生において、イエス・キリストと、
その方をどう考えるかということこそが、最も重要な問題なのです。
建築者たちは、(すなわち、当時のユダヤ人指導者たち)実際には隅のかしら石であり、
全被造物がその上に建てられている土台である方を退けました――
なぜなら、十字架は初めから常に神のご計画の中心にあったからです。
しかし、来たるべきあの偉大な日には、私たちの主が
アルファでありオメガであられるという事実は、もはや否定することのできないものとなり、
主の御前で「すべてのひざがかがめられ」
(ピリピ2章10節; イザヤ45章23節; ローマ14章11節参照)
すべての者がこの方こそすべてのものの主であると認めることになります。
神のご計画において、彼らはこの運命に「定められていました」が、
それは決して、彼らの側に真の選択がなかったという意味ではありません。
なぜなら、不信者がつまずくのは、
「みことばに[故意に]従わない」(第一ペテロ2章8節)ことによるからです。
すなわち、救いはキリストへの信仰によってのみ得られることを
明らかにする福音に従わないことによって、彼らは自らの責任で、
自ら真理を拒絶することによって、つまずくのです。
父なる神は、その大いなる正義によって、不信者にもこの選択をする権利を与えておられ、
そして、その選択もまた、神のご計画の中にあらかじめ織り込まれているのです。
[1] ペテロがこの引用でおおむね七十人訳に従っているのは、彼の読者たちが、
このよく知られた旧約聖書のギリシア語訳に慣れ親しんでいたためであることは
間違いありません。
ヘブル語の動詞 chush は、一般に人について用いられ、
「急ぐ」という意味ですが、イザヤ書では比喩的に用いられているため、
「揺るがされる」と訳すことも十分に妥当です。
英語で will never be rattled(「決して動揺させられない」)と訳すなら、
この動詞が含意している身体的な揺さぶりと心の動揺の両方を表すことができます。
[2] キリストと一つにされていることによって
すべての信者に与えられる主な恩恵のいくつかについては、
『Bible Basics 4B: 救済論』第III部「救われるとはどういうことか」
<英文>を参照してください。
#33<vii>に続く![]()
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しかし柔和な者は国を継ぎ、
豊かな繁栄をたのしむことができる。
悪しき者は正しい者にむかってはかりごとをめぐらし、
これにむかって歯がみする。
しかし主は悪しき者を笑われる、
彼の日の来るのを見られるからである。
(詩篇37:11~13)
感謝します
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秋雨前線…長いですね☔
道路工事があちこちで通行止め
ちょっと雨が止んだ隙間に歩いてみると…
回り道して、初めて入った路地で…
懐かしい感じがする
ヤマボウシの実も食べられるみたい
昨日、新潟の兄から畑で採れたお野菜と
栗がたくさん届きました🌰
いつもありがとう~![]()
早速、長女さんが🌰栗ご飯を炊いてくれましたよ![]()
美味しかったです![]()
栗の木は、生前父が植えたものです
山の恵みに感謝です✨
「お父さん、今年も秋の恵みいただきましたよ~🌰
」
🌰くり
なんにゃ![]()
コロコロしてあそべそうだにゃ~![]()
今日もありがとう~![]()





