からの続きです
読者からのメール:終末論に関する諸問題-170<iii>
【2026年8月22日掲載】
https://ichthys.com/e-mails.htm からの抜粋翻訳
返信部分は、ロバート・D・ルギンビル博士によります
質問 #17:
[省略]
私には一つの考えと一つの質問、そして深い懸念があります。
私が深く懸念しているのは、いわゆる牧師/教師と称する人たちの中に、
私なら見世物と呼ぶようなことをしているように見える人たちがいることです。
それを彼らは時に「聖霊の火」と呼び、前に出るように呼ばれた人は皆、
その人が神の働きだと主張するものによって倒されます。
その人が何をしているのか、また人々に触れた時、あるいは近づいただけでも
何が起こるのかを、実際に見なければ分からないでしょう。
人々は笑い始めたり、立ち上がって走り回ったり、座席から倒れたり、床に倒されたりします。その他にもいろいろなことが起こります。
こうしたことをしている人物は、「これは聖霊だ」とか、「聖霊の火だ」などと言っています。
そして、まるで神ではなく、自分自身がこうしたことを起こしているかのように
振る舞っています。
その人の集会には大勢の人々が押し寄せ、その人が誰かの近くを歩くだけで、
その人は大声で笑い始めたり、座席から倒れたり、床に倒されたりします。
会場全体の人々が、このようなことをしているのです。
そこで質問です:
第一コリント13章9-10節には、「完全なものが来た時」という言葉が出てきます。
あなたの教えの一つで、この「完全なもの」はすでに来ている、
というのがあなたの見解だったと記憶しています。
第一コリント12章と14章に記されている賜物は、今でも有効だとお考えですか。
私の理解では、あなたの見解では、それらはもはや有効ではないということだったと思います。では、上で述べたようないわゆる集会で起こっていることは、いったい何なのでしょうか。
第一コリント13章10節の「全きものが来る時」という言葉は、
再臨を指しているとは考えられないでしょうか。
イエスは完全な方だからです。
何と言っても、イエスこそ完全な方であり、さらに神の御言葉でもあられます。
私は、これらの賜物について大いに疑問を感じています――
少なくとも、そこで聖霊の賜物として示されているものについてです。
こうした問題について、また、多くのいわゆる神の奉仕者たちが
「聖霊の働き」として盛んに宣伝している事柄について、どうか私の理解を正してください。
友よ、本当にありがとうございます。
あなたに豊かな祝福がありますように。
あなたの友人たちより
返信 #17:
ラオデキヤ時代も末期にある今日、目に見える教会の中で広く行われている、疑わしい、
さらには常軌を逸した活動は、実に数多く、さまざまです。
あなたがここで触れているもののいくつかも、多くの教派の教会に入り込んでいる
「ニューエイジ」的なものの一部です。
こうした問題の多くを列挙し、簡単に説明している箇所へのリンクを挙げておきます。
へブル書第10章の「地域教会に見られる甚だしく誤った傾向」("EgregiousTrends in Local Churches")です。
その主な推進力を与えているのが悪魔であることは、疑いありません。
この種の活動のほとんどに共通しているのは、未成熟な信者たち――霊的に成長し、
クリスチャンとしての歩みにおいて前進し、その後、主のために実を結ぶという
キリストの命令を果たすことに真剣な関心を持っていない人たち――が、
「楽しい」場所へと群がっていることです。
その「楽しさ」にはさまざまな形がありますが、一方では霊的に有益なものが
まったくないという共通点があり、他方では、しばしば少なからぬ霊的危険まで伴っています。
私たちは、物事を自分の手で勝手に進め、主の方法ではなく
自分たちのやり方で行うことはできません。
そうすることは、すべてを危険にさらすことになるからです。
グノーシス主義者たちもまた、目に見えない霊的な力との関わりや、
あらゆる種類の危険な行為を説いていました。
あなたが述べているようなやり方で羊たちを迷わせている、いわゆる「牧師」たちは、
教師が受ける「より厳しいさばき」について述べているヤコブ3章1節を心に留めるべきです。
しかしパウロが言っているように、
「彼らはキリストの僕なのか。わたしは気が狂ったようになって言う」
(第二コリント11章23節/NIV訳)ということです。
たとえば、抑えきれないほど笑い出したり、倒されたりするようなことを、
聖書のどこで聞いたことがあるでしょうか。
しかし、異教の宗教では、それはよく見られることです。
第一コリント13章10節の「全きもの」は、ギリシヤ語でも「完成したもの」
という意味であり、これは完成した聖書を指しています。
聖書が完成する前、教会時代の初期の信者たちは、
後に新約聖書によって与えられることになる真理を必要としていました。
そのため神は、正典が完成するまでの初期の期間をつなぐために、
特別な霊的賜物を備えてくださいました。
たとえば、パウロがあらゆる場所にいることはできませんでした。
新約聖書がまだなかった時代、使徒がその場にいて教会時代の真理を教えてくれなければ、
信者たちはどうやってそれを学ぶことができたでしょうか。
そこで預言の賜物が必要となり、その他の一時的な霊的賜物も同様でした。
この章でパウロが、聖書が完成すれば直ちに廃されると言っている、
まさにそれらの賜物です。
ですから、パウロの時代には、預言、異言、知識の賜物が御霊によって与えられ、
部分的な情報を提供していました。
「しかし、完全なものが来た時には、部分的なものはすたれる」のです。
私はこの問題についてかなり多く書いてきました。主なリンクをいくつか挙げておきます。
「完全なもの」(Thatwhich is perfect)
「『完全なもの』とは何を意味するのか?」(Whatdoes "the perfect" mean?)
「『完全なもの』と部分的なもの」("Theperfect" vs. the partial)
「一時的な霊的賜物」(BB 5)(TemporarySpiritual Gifts)
「聖書の完全性」(BB 7)(ThePerfection of the Bible)
「こうしたいわゆる集会で起こっていることは何なのでしょうか」について。
良いものは何もありません。神とは何の関係もありません。
悪しき者とは大いに関係があります。
「再臨を指しているとは考えられないでしょうか」について。
これは一般的によく見られる解釈です。
しかし、もしそうであるなら、私たちは今でも一時的な賜物を必要としているはずです……
そして今でもそれらの賜物を持っているはずです。
しかし、私たちには聖書全体が与えられているので、もはやそれらを必要としていません。
そして、聖書は何とすばらしい賜物でしょう!
それなのに、現代のクリスチャンたちは、聖書をどれほど軽く見ているように
思われることでしょう。
あらゆる娯楽や、音楽による気晴らし、奇妙な行動、そして聖書教師ではなく、
いかさま師たちを追い求めていることを見れば、それが分かります――
神の御言葉に真剣に耳を傾けること以外なら、何でもよいかのようです。
分別のある人なら誰でも、異言の賜物も、知識の賜物も、預言の賜物も、
もはや存在していないことが分かります。
もし異言の賜物があるのなら、人は一度も学んだことのない言語を話すことができるはずです。そのようなことは、もはや起こりません。
もし預言の賜物があるのなら、人は将来何が起こるのかを
私たちに告げることができるはずです。
そのようなことも、もはや起こりません。
もし(賜物としての)知識の賜物があるのなら、人は聖書を一度も学んだことがなくても、
教理を深く詳細に知っているはずです。
そのようなことも、もはや起こりません。
誤解してはなりません。
そのようなことが起こっていると主張する人たちは大勢います――
ちょうど、悪霊払いをはじめ、その他あらゆる種類の危険な「霊的戦い」が行われていると
主張する人たちがいるのと同じです。
しかし、実際にはそのようなことは起こっていません。
それは、道理をわきまえたクリスチャンなら誰にでもはっきり分かることです。
友よ、以上のどの点についてでも、どうぞ遠慮なくまた書いてください。
イエスにあって、
ボブ・L.
ーーーー
質問 #18:
[省略]
苦しい時期は波のようにやって来ますが、今はまた、
いわば「馬の鞍に戻って」、前に進んでいます。
このところ、試練と苦難は相変わらず厳しいものが続いています。
けれども、そのように訓練され、練り清められていることを感謝したいと思っています。
私には確かに、もっとそれが必要ですし、永遠において受けることのできる報いに関して、
貧しい者にはなりたくありません。
さまざまな状況の中で、永遠のもの、目に見えないものに目を向けることを
学びつつあることを感謝しています。
私の人生が、次から次へと問題だらけになったとしても、それでもまったく構わないのです。
私は主への信仰において成長しているだろうか?健全な証しをしているだろうか?
御言葉を学んでいるだろうか?
霊的成長のために、もっと自分を律することができるだろうか?
ますますイエスのような者になっているだろうか?
こうした点には改善すべきところがありますし、それは私が死ぬか、
主が戻って来られる時まで続くでしょう。
だからこそ、そこに焦点を置くべきなのです。
もちろん、現在この地上で直面しているあれこれの問題を解決することも、
その一部である場合はあるでしょう。
しかし、人生をチェスの対局のように、一手一手すべてを読みながら生きる必要はありません。私は主を求め、主を愛し、主に従い、主の真理において成長していけばよいのです。
あとのことは、それに従って収まるべきところに収まっていくでしょう……
そして、たとえそうならなくても、主の完全な主権とご計画に信頼することができます。
返信 #18:
友よ、霊的に励まされるメールを本当にありがとうございます!
まさにこれこそ、私たちすべてが持つべき見方です――そして、あなた自身の経験と、
それをこのように語ってくださったことは、確かに私の心にも響きましたし、
ほかの人たちの心にも響くことと思います。
「人生をチェスの対局のように生きる必要はありません」について。アーメン!
私たちはできる限り最善を尽くそうとします。
しかし、たとえ神にかなった仕方で決断している時でさえ、
その時点では何が「最善の一手」なのか分からないことがよくあります。
しかし、「すべてのことを共に働かせて益としてくださる」のは神です。
神はすでに、イエス・キリストの勝利のうちに、私たちにも勝利を与えてくださいました。
私たちが忠実であり続ける限り、何も心配する必要はありません。
何が起ころうとも、最後には必ず救い出していただけるという信仰と確信をもって、
それを受け止めていけばよいのです。
しかし、これらすべての事において、わたしたちは、
わたしたちを愛して下さったかたによって、圧倒的な勝利を得ている。
(ローマ8章37節)
(54) この朽ちる[からだ]が朽ちないものを着、
この死ぬ[からだ]が死なないものを着る時、書かれているこの預言が成就する。
「死は勝利にのまれてしまった」。(イザヤ25章8節)
(55)「死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。(ホセア13章14節)
(56) 死のとげは罪[の性質]であり、(すなわち、それが私たちの罪を生み出します)
罪の力は律法です。(すなわち、それが私たちの罪を明らかにします)
(57) しかし感謝すべきことには、神は、
わたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。
神から生まれた者はみな、[悪魔の]世に勝つからである。
そして、[悪魔の]世に勝った勝利とは、すなわち、
わたしたちの[イエス・キリストに対する]信仰である。
[悪魔の]世に勝つ者はだれか。
イエスを神の子と信じる者ではないか。
イエスにあって、
ボブ・L.
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続く![]()
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「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp
私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、また
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昨夜、お月様とお散歩![]()
ずっと一緒だね![]()
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今日の一日も感謝します![]()
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ねこちゃん、バイクに乗ってお月見してるの![]()
こちらを振り返ってくれたので
声をかけると返事をしてくれたよ
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おぉ~
来てくれた~![]()
そして、近すぎ過ぎてぶれちゃった~![]()
なでなで
ありがとうね![]()
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今日もありがとう~![]()






