(ひとしずく・終末論に関する諸問題‐170<i>)~どこで花が咲いていても美しい~ | sarah‐mercy

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からの続きです

 

読者からのメール:終末論に関する諸問題-170<ⅰ>

                                                                                            【2026年8月22日掲載】 

                                                                                https://ichthys.com/e-mails.htm からの抜粋翻訳 

                                                                     返信部分は、ロバート・D・ルギンビル博士によります 

 

質問 #11: 

こんにちは、L先生、 

これは先生にも答えられないことかもしれませんし、もしそうならそれで構いません。 

同情してほしくてこんなことを言っているわけではありません。

ただ本当に、たとえば、さまざまな制約を抱えた兵士がいたとして、

その人は何かを引き出そうとしているのではなく、ただ

「では、神が望んでおられることを行うために、これをどう理解すればよいのだろう」

と考えようとしている、そんな感じだと思います。

そして、似たような形で苦労している人たちもいるでしょう。

自慢するつもりはありませんが、私はここまで来るだけでも本当に多くの努力をしてきました。たとえば、普通なら経験しておくべきだったような生活や物事を、

私はあまり経験してきませんでした。

たいていの人には、そういう状態でここまで来ることさえ難しいと思いますし、

ここまで来た今でも、「そうだな、私は本当にまだ基本的なことをたくさん知らない」

と思います。(もう35歳を過ぎているのに!) 

 

二つあります。  一つ目ですが、ヘレン・ケラーはかつて、

耳が聞こえないことは人を人々から隔てる、と言いました。

ですから、これから言うことが変に聞こえなければよいのですが。

聖書が私たちに求めていることの多くは、互いに愛し合うことです。

しかし、それを行うには、聖書の外で身につけなければならない土台があるように思います。

ヨナ書にある、自分の右も左もわきまえないというような状態、

(これは文字どおりの意味でも、比喩的な意味でも言っています)

あるいは、そのほかの基本的なことを知らない状態で、

そこから箱舟(あるいは神殿)を建てるよう命じられるようなものです。 

 

主が奇跡を行って超自然的な知識を与えてくださらない限り、

ほとんどの人と同じように聖書が求めている多くのことを行うのは難しいのです。

一つ一つの命令を読むたびに、

「ああ、なるほど。これは、普通なら物事はこういうふうに働くということを前提にしていて、その普通の反応ではなく、こうしなさいと言っているのだな」と考えることになります。

うまく説明できているでしょうか。(笑)

聖句はしばしば、普通ならどうするものなのかを前提として語っていますが、

私のような人間にはその「普通」が分からないので、

「ああ、そうなのか。それが普通なのか。これは興味深い」と、

そこで初めて学ぶわけです……。 

 

これは、自分一人で学べば済むというほど単純なことではありません。

なぜなら、自分にいったい何が欠けているのかさえ分からないからです。

まして、普通なら成長過程の中でそれを学ぶことのできる環境を、

自分で再現することなどできません。

それに、はっきり言えば、だれも気にかけてくれませんし、助けてもくれません。

そうなると、「では、これは自分にとってどういう意味なのだろう」と考えます。

(中略)

しかし、そうだとすると、自分の役割はもっと普通の役割、

まして何か「大きな」役割というよりも、

主に癒された盲人やラザロのような役割なのかもしれません。

普通の人間関係の境界線がどこにあるのかも、

物事をどう見分ければよいのかも分かりません。

なぜなら、それには自分にはない土台が必要だからです。

そして、自分には情報が、それも基本的な情報が欠けていることを自分で分かっているのに、

それでも状況ごとに判断しなければなりません。(中略)

 

 二つ目は、私にとっては一つ目と重なるのですが、

状況は違っても、ほかの多くの人にも当てはまるかもしれません。 

ICHTHYSの記事を読んでいると、

中には私をとても幸せな気持ちにしてくれるものがありました。

私は本当にうれしくなり、それを書いた人のことも好きになり始めました。

でも、生まれて初めてと言っていいほど、私の中の一部がこう言ったのです。

「でも、分かっているでしょう。その人たちはそんなことを望んでいない。

あなたを求めてはいない」と。

というのも、前にも言ったように、私はいつもほかの信者たちに対して喜んで接し、

心を開き、進んで関わろうとしてきたからです。

でも、なぜなのか分かりませんが、私のこれまでの人生が示しているのは、

彼らはそれを望んでいないということです。

私の家族も、友人と言えるかどうか分からないような人たちもそうで、

そうでなかった人を一人でも思い浮かべるのは難しいほどです。

そして、人には同じように応えてくれる義務がないことも分かっています。

私がその人たちを本当に好きでも、

彼らには私と何の関わりも持ちたくないと思う権利があります。 

 

それで昨日、私は涙を流しながら歩き、祈っていました。

そして、ほかの人たちを責めてはいない、と主に申し上げました。

でも、そうだとしたら、私はどうすればよいのでしょう?

互いに愛し合いなさいという、あれらすべての聖句は、私にとって何を意味するのでしょう? 

私は、本当にすべての一番下にいるような気がします。

相手がそれを、あるいは私との関わりを望んでいないと分かったなら、

しつこく追いかけてはいけないということは学びました。

では、それがほとんどすべての人との間で起こるように思えるなら……

最初は、もしかすると私はある意味で隠遁者のように生きることになるのかな、と思いました。ただ自分の片隅にいて、聖書や聖書研究を読み、主が求めておられる基本的な祈りをし、

ある意味では今の教会の中にあってさえ部外者として生きる、というように。 

 

でもその後、ある聖句が心に浮かびました。

エゼキエル書で、起こっていることを見て嘆き悲しんでいる者すべてに印をつけるよう、

主が命じておられる箇所です。

そして私は気づきました。主はそれを望んでおられるのだと。

ほかのだれも望んでくれないとしても、主は望んでくださるのです。

なぜなら、当時にも一番下に置かれていた人たちがいて、その人たちは、

心が正しいところにあった人々の中に含まれていたはずだからです。

(そして、その土台にあるのは主に心を向けることです)

上にいる人たちの中には、自分には印がつけられず、自分たちが取るに足りないものとして

見下していた者に印がつけられたと知ったなら、

どう反応するだろうと思うような人もいたでしょう。

 

しかし、それは主にとっては大切なのです。

ですから、答えは、主に目を向け続けるよう努めることなのだと思います。

そうすれば私の心も主の御心に沿うようになります

無理に人の中へ入り込もうとするのではなく、多少隠遁者のようになるとしても、

主に目を向けているなら、主が良いとされるものを私も望み、

ほかの人がどう反応するかにかかわらず、主が望まれるように応じるべきなのだと思います。 

私は正しく理解できているでしょうか? 

できる限り率直に、正直に書こうとしました。

より良い道を見いだすには、それしかないと思ったからです。 

 

追伸1:最初の点についてもう一つ。

これは、モーセが口が重かったことなどとは同じではありません。

(もちろん、モーセの困難を軽く見ているわけではありません)

たとえば、「親なら当然、子供が魚を求めているのに蛇を与えたりはしない」

という聖句を読んだ時、私はその時になって初めて、そういうものなのだと知りました

それに対して、聖書は、そんなことはだれでも当然知っているという前提で語っています。

でも、私には、このような小さなことが山ほどあるのです。

(中略)

ただ、祈りながら考えてきた中で分かっているのは、私は人間関係がどのように成り立つのか、その基本的なことのいくつかを理解していないということです。

そして、どれだけ努力しても、その隔たりを完全に埋めることはできませんでした。

(中略)

 

追伸2:それでも私は、ほかの人に良いことがあれば本当にうれしいですし、

その人たちが幸せであるよう願っています。

ですから、その点は自分にもあります。

ほかの人の庭の前を通った時、(今の私には植物が一鉢あるだけですが)

怒ったり、うらやんだりするのではなく、

その人のことを喜ぶことができます。

それに、聖書や聖書研究、そして神が私に与えてくださったほかのものを、

本当に大切に思っていないというわけでもありません。 

 

返信 #11: 

私たちの主が言われたように、

「多く与えられた者からは多く求められ、

 多く任された者からは、さらに多く要求される」

ルカ12章48節のです。

それに対応して、少ししか与えられていない人は、ほかの人が持っている

「多く」によってではなく、自分に与えられている「少し」に基づいて評価されます。 

 

 

 それからイエスは目を上げて、金持たちが献金箱に献金を投げ入れるのをご覧になり、

 ある貧しいやもめがレプタ二つを投げ入れるのをご覧になった。

 そこで言われた、

 「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れたのだ。

 これらの人たちはみな、あり余る中から神への献金を投げ入れたが、

 あの女はその乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである。」

ルカ21章1-4節/NKJV訳) 

 

この箇所が教えていることは、まさにあなたが尋ねていることです。

たとえば、本人にはどうすることもできない事情のために(仕事、家族、健康上の責任など)

一日の自由になる時間が二十分しかない人が、

そのうち十分を祈りに費やしたとします。

一方、別の人には四、五時間の自由な時間がありながら、同じ十分間だけ祈ったとします。

ほかの条件がすべて同じであるなら、

(つまり、「どのように」祈るか、また「何のために」祈るかが同じなら)

最初の人の犠牲のほうが、二番目の人の犠牲よりも「大きい」のです。 

 

 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。

 かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。

 わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいた

 すべての人にも授けて下さるであろう。

第二テモテ4章8節/NKJV訳) 

 

評価ということに関しては、私たちの主が審判者であり、主は義なる方です――

この文脈で言えば、主の裁きは完全であり、あらゆる点で完全に正しいということです。

主はすべてをご存じです――そして、いつでもそうでした。

だれ一人、受けるべき以上の報いを受けることも、

受けるべき報いより少なくされることもないと、私たちは確信してよいのです。

主だけがなし得る、完全な基準を適用されるからです。

良い意味であれ、そうでない意味であれ、

すべての人が「自分の受けるべきもの」を受けることになります。 

 

 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、

 または、わらを用いて建てるならば、

 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。

 すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、

 またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。

 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、

 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。

 しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、

 救われるであろう。

第一コリント3章12-15節/NKJV訳) 

 

ほかの人たちが私たちを認めてくれるか、あるいは私たちとの関係を望んでくれるか

ということについては、信者はそのことで思い悩む必要はありません。

人間は人との個人的な関係を強く求めるものですが、

そうした関係には、程度の差こそあれ、必ず問題が伴います。

特に、どちらか一方、あるいは双方が、まだ十分に霊的に成熟していない場合にはそうです。

ですから、結婚の場合と同じように、「自分が何を願っているのか、よく考えたほうがよい」

ということになります。 

 

 しかし、結婚する人たちは、この世の生活で多くの苦労を負うことになる。

 わたしは、あなたがたをそれから免れさせたいのだ

(第一コリント7章28節後半) 

 

「答えは、主に目を向け続けるよう努めることなのだと思います」について。

アーメン!主の真理に目を向け、その真理をもって人生の困難に立ち向かうことです――

そして、ミニストリーを通して、ほかの人たちも同じようにできるよう助けることです。

もしそのミニストリーが祈りであるなら、私たちは祈ります。

あるいは、それが何であれ、私たちが召され、賜物を与えられていることを行うのです。 

 

 このように、わたしたちは与えられた恵みによって、

 それぞれ異なった賜物を持っているので、もし、それが預言であれば、

 信仰の程度に応じて預言をし、奉仕であれば奉仕をし、

 また教える者であれば教え、勧める者であれば勧め、

 寄附する者は惜しみなく寄附し、指導する者は熱心に指導し、

 慈善をする者は快く慈善をすべきである。

ローマ12章6-8節/NIV訳) 

 

ほかの人たちには、あなたがこれまで何を経験してきたのか、

また、どのような障害に直面しているのかが分からないということは、

私にもよく分かります。 

 

 心は自分自身の苦しみを知っている。

 その喜びにも、ほかの者はあずからない。

箴言14章10節/NIV訳) 

 

しかし、それよりはるかに重要なのは、主は分かってくださっているということです。

完全に、余すところなく分かってくださっています。

そして主は、私たちにできないことに基づいてではなく、

私たちにできることに応じて報いてくださることができ、

また実際にそうしてくださいます。 

 

 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

 正しい者には災が多い。

 しかし、主はすべてその中から彼を助け出される。

詩篇34篇18-19節/NIV訳) 

 

あなたが言及したモーセは、非常によい比較例です。

彼にも長所があった一方で、さまざまな限界もありました――

しかし、彼は主に用いられることをいとわなかったので

主は彼を大いに用いられました。ですから、彼の報いも大きなものとなるでしょう。 

 

 鉄が鈍くなって、その刃をとがなければ、力を多く使わねばならない。

 しかし知恵は人を成功させるのに役立つ。

伝道の書10章10節/NIV訳) 

 

庭について。

以前、ある市会議員が、庭に植えられた花について「これは本当は私のためにあるんだ」

とよく言っていました。

つまり、自分が花を楽しむためだけでなく、

ほかの人たちにもその花を楽しんでもらえるように植えるべきだ、という意味です――

それが正しい考え方です。

ですから、植物が一つしかないことを気にする必要はありません。

どこで花が咲いていても、その花は、それを育てるために手をかけた人にとっても、

そうでない人にとっても、同じように美しいのです。 

 

イエスにあって、 

ボブ・L. 

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170<ii>に続く下差し

 

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右差し「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp

私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

また、ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

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「わたしは、あなたがたに平安を残します。

わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。

わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。

あなたがたは心を騒がしてはなりません。

恐れてはなりません。」

(ヨハネ14:27)

 

感謝します

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まだまだ8月ブルーハーツ

 

 

 

 

朝の日差しを浴びて輝く時間キラキラ

 

 

 

 

歩いていて、綺麗な花に出会うと癒される

誰が育ててるかなんて分からなくても

励まされますイエローハーツ

 

 

 

種が芽を出すかどうか分からないけど

庭に種を蒔いたら、毎年綺麗に咲いてくれる

そして夏の朝は、いつもこの花たちに癒される

通りがかった人が見ても見なくても

幸せな気持ちになれるラブラブ

 

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こんな隅っこで、石を枕にして寝ているサンちゃん

どんな格好で寝ていても可愛いよハート

また来るねバイバイ

今日もありがとう~ラブラブ