からの続きです
ペテロシリーズ#26<iii>
個人的患難への反応
https://ichthys.com/Pet26.htm
ロバート・D・ルギンビル博士著
2.心がかたくなになる:
信者が苦しみの刺激に対して(それが自業自得であれ、不当なものであれ)
最初に否定的に反応してから、「道」(キリスト)を拒絶するに至るまでの間には、
聖書が「心がかたくなになる」と呼ぶ危険な心理的過程が横たわっています。
・「心がかたくなになる」とは、徐々に進行する霊的盲目の過程であり、
必ず罪の増大とそれに対応する信仰の減少を伴います。
・「心がかたくなる」とは本質的に、神とその御心に対する否定的態度が再び力を
取り戻すことであり、最終的には元の不信仰の状態へと逆戻りすることにつながります。
・「心がかたくなになる」ことは、その初期段階においてすでに霊的生活にとって
恐ろしい障害であり、私たちの救いに対する非常に現実的な脅威となります。
肉体において動脈硬化が血流を妨げ、心臓を危険にさらし、
しばしば肉体的な死に至るように、霊的な心の硬化もその中の「真理の流れ」を妨げ、
キリスト者の霊的生活に同じほど危険な脅威をもたらすのです。
最も深刻な場合には、心の硬化は「背教」という霊的死にまで至ることがあります。
そこでは、真理が完全に「偽り」と取り替えられ、
かつて信者であった人がキリストへの信仰を完全に失い、
一片の信仰すら残さないという状態に陥るのです。
a. 聖書における心(heart)について:
以前の学び(ペテロ・シリーズ#16)で見たように、
聖書において「心」とは人の内なる存在を表しています。
厳密には、霊的な部分と肉体的な部分のどちらにも属さない、
両者とは区別された場所を指します。
具体的に言えば、心とは私たちの肉体と永遠の霊が相互に作用する場です。
(第一コリント14章14節;参照.第一コリント2章12節。
さらにこの相互作用を前提としている箇所として
申命記2章30節;詩篇7篇9節; マタイ18章35節;ピリピ4章7節などを参照)
現在の肉体と、復活の時に朽ちない完全な体をまとうことになる
永遠の霊との「接点」としての心は、善であれ悪であれ、
人間のあらゆる思考と感情の宿る場所です。(箴言23章7節)
心は神をあがめる場であると同時に、「悪い考え、殺人、姦淫、淫らな行い、盗み、偽証、悪口」が出てくる場所でもあります。
キリストを信じる者だけが、心が慣れ親しんでいる世俗的思考の古い型を克服する
真の可能性を持っており(第一コリント2章14–15節)、実際にそのようにすることが
命じられています。(ローマ12章2節)
要するに、「心」とは私たちの真の姿、すなわち内面のすべての人間そのものを表し、
思考、希望や夢、感情、弱さ、性格上の欠点すべてを含んでいます。
私たちがこの罪に傾く肉体にある限り、
霊を誘惑や弱さから完全に隔離することはできません。
(マタイ26章41節; ローマ7章14–25節;罪と告白についてはペテロ・シリーズ#15参照)
しかし、神の御霊と神の御言葉の力によって、私たちの内なる存在、
すなわち心は変えられるのです。
(ローマ12章2節;エペソ4章21–24節;特にペテロ・シリーズ#17参照)
b. 生まれながらの心:
不信者であった時、私たちは神に応答しないことを選び、
その結果、「かたくなで悔い改めない心」が神の怒りを招きました。(ローマ2章5節)
本来は神の光を受け取るように造られていた心は闇に満たされ(マタイ6章22–23節)、
神についての真理を理解するように造られていた心は愚かになってしまったのです。
(ローマ1章21節)
私たちは、『心のむなしい愚かさの中を歩み、理解力を暗くされ、
神のいのちから遠く離れ』、その心はかたくなになっていました。
(エペソ4章18節; ローマ11章7節,11章25節も参照)
そして霊的に盲目となったのです。(マルコ6章52節,8章17–21節)
この不信仰によるかたくなさには程度の差はありましたが、
(出エジプト4章21節,7章13節, 8章15節)多かれ少なかれ私たちすべてが
かたくなな心を持ち、─それが、御霊によってイエス・キリストの福音が
私たちに光をもたらすまでは--神の真理を見ることも、
受け入れることもできませんでした。
御霊が私たちの心の目を開き、救い主としてキリストを見て受け入れることが
できるようにしてくださったのです。
(ヨハネ1章8–9節;第二コリント4章4節;第二テモテ1章10節)
c.心の新しい始まり:
救いの瞬間、すべてが新しくなります。
私たちがキリストを救い主として受け入れたその瞬間、内なる存在のかたくなさも、
闇も、愚かさも取り除かれるのです。
私たちは霊的な人生における新たな出発を、一瞬のうちに得ます。
私たちの心は「信仰によって清められ」(使徒15章9節)、
神の真理を理解できるようになります。
言い換えれば、私たちは「新しい心」を与えられたのです。(エゼキエル11章18–21節)
かつての不信仰の状態は過ぎ去り、キリストにあって私たちは「新しい創造」とされ、
以前のかたくなさや盲目によって妨げられない心を持つようになったのです。
つまり、神に対する否定的な古い態度の力、霊的洞察を束縛していた
すべての鎖は断ち切られ、私たちと私たちの信仰は、
妨げなく神を追い求める自由を得たのです。
永遠のいのちという賜物と共に、私たちはその純粋ないのちにふさわしく思考する機会と
可能性を与えられました。
これは、信者として必要なすべてのことをすでに知っているという意味ではありません──
決してそうではなく、なお霊的に成長していく必要があります。
しかし、少なくともその成長を妨げるものはもはや存在しないということです。
神は私たちに「心のきよい新しい出発」を与えてくださったのです。
だからこそ、私たちは常に警戒していなければなりません。
不信仰の状態にあって私たちを神から遠ざけていた古い悪しき態度が、
再び心に戻ってくることがないように。
d. 心をかたくなにしてはならない:
残念ながら、救いは物語の終わりではありません。
信者となった後も、心が再びかたくなになる危険性は残っているのです。
霊的盲目や神に対する否定的態度、無感覚さが戻ってくる原因は、
すべての場合において「個人的な罪」です。
罪とは、定義からして神とその権威を拒むことであり、したがって神との関係を疎外し、
神の御心や御霊の導きに対する感受性を弱めてしまいます。
(参照: ペテロ・シリーズ#15,ペテロ・シリーズ#16)
私たちは誰ひとりとして誘惑から免れられるわけではありませんし、
個人的な罪を犯すことからも完全に解放されるわけではありません。(箴言20章9節)
「罪の体」に生きている限り、誘惑に屈することは時に避けられないのです。(ローマ7章)
しかし、ここには大きな違いがあります──
それは、成長する信者が時折罪に陥っても、神からの懲らしめを受け、
悔い改めと告白を通して積極的に応答する場合と、まったく悔い改めることなく
罪に身を委ねてしまう場合とです。
自分の罪に直面し、それを神に告白して離れるなら、
懲らしめと共に癒しが与えられ、心も清められます。
しかし逆に、
罪を生活の中に容認して放置するなら、その罪は心の中に根を張り、
信仰をふさぎ込み、再び心のかたくなさを生じさせてしまいます。
このため、聖書は「心をかたくなにしてはならない」と警告しています。
出エジプトの世代の反逆的なイスラエル人たちが示した悲惨な結末は、
この道を歩むことの危険をすべての人に示す実例なのです。(第一コリント10章11節)
罪を告白して神に立ち返るなら、更新と回復はいつでも可能です。
しかし、首を固くして神に逆らい続けるなら、
心のかたくなさが避けられない結果となります。
e.心をかたくなにすること:
心がかたくなになっていく過程については、へブル書(上に引用した箇所)に
はっきりと見ることができます。
そこでは、著者名の記されていない著者が、その仕組みについて論じています。:
兄弟たちよ。気をつけなさい。
あなたがたの中には、あるいは、不信仰な
(すなわち、信仰の欠如した)悪い心をいだいて(直訳: 「背教して」)、
生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、
「きょう」という内に、日々、互に励まし合いなさい。
ここでの分析によれば、神に背を向ける「背教」は心に壊滅的な影響を与え、
その心を「悪しきもの」としてしまいます。
そして、心をかたくなにする働きをする要因は「罪の欺き」です。
つまり問題は明確です。
時折のつまずきではなく、罪をひたすら追い求める「罪に生きる人生」は、
信仰と両立しません。
なぜなら、信仰(belief, faith)は従順と切り離すことができないからです。
私たちは罪と神に同時に仕えることはできません。
ですから、もし神から離れて罪に向かうなら、必然的にキリストに従うことをやめ、
キリストに従順であることをやめ、キリストを信じることをやめてしまいます。
ヨハネは次のように言っています。
「罪を犯し続ける者はだれも、神から生まれた者ではない」(第一ヨハネ5章18節)
つまり、「罪に生きる人生」は、罪が信仰を圧倒し、
その人がもはや真のキリスト信者ではなくなったことのしるしなのです。
(あるいは少なくとも、信仰から離れる寸前の危険な状態にある)
f.硬化した心:
間違った道をしつこく歩み続けるなら、霊的に堕落が進み、
ついには、いわば神の御顔を見ようともしなくなる時がやって来ます。(ヨハネ3章19-20節)
最初に私たちを神から背け、永遠のいのちの道から逸れさせた出来事や誘惑が
何であったにせよ、その後に良心は焼きつけられて、
もはや好き勝手に自分を正当化するまでに至ります。(第二テモテ3章8節;テトス1章15節)
こうして心は暗く、空虚で、かたくなになり(エペソ4章18-19節)、
神の条件――すなわちイエス・キリストに忠実に従うこと(ローマ1章18-21節)
――に基づいて神と意味のある関係を持ちたいという関心もなくなってしまうのです。
<iv>に続く![]()
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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、また
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shizuku365@proton.meまでご連絡ください。
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また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、
人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。
もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。
先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
すると、御座にいますかたが言われた、
「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。
また言われた、
「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。
(黙示録21:3~5)
感謝します
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2017年5月
初めまして![]()
道路に挟まれた一画に![]()
ここがユキちゃんのオアシス![]()
まさか、山羊だとは思わず、犬がいると思って近づいたのよね![]()
それから、私の心のオアシスになったんだよ![]()
ユキちゃんは、みんなに愛されていたね![]()
昔から知っているおばあちゃんは
「🐐子ヤギの時はバスタブに入っていたのよ
」と教えてくれたよ
(学校帰りの子供たちと遊ぶユキちゃん)
この年の、夏休みには私の孫ちゃん達にも会ったね![]()
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今でも覚えているって![]()
(保育園に通っていた子はもう高校生になったよ)
「ユキちゃん
」名前を呼ぶと、お返事してくれたよね
「ハ~イ
」
イチジクの葉っぱが大好きだったね
「もぐもぐ。。。」
「もっと、ちょうだい
ちょうだい
」って、おねだり
ところが…
今年になって、8カ月ぶりにようやく自転車で足を延ばして![]()
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行ってみると…
ユキちゃんの首輪だけが…‥![]()
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この日は白い雲が空に昇って行くように…![]()
ユキちゃんの好きだったイチジクが、一つだけ赤い実をつけて…
ユキちゃんが虹の橋を渡ったのは🐐🌈✨
多分、今月に入ってからだと思います
(飼い主さんにはお会い出来ないので詳しいことは聞けません)
先月、長女さんが通りかかったときはまだ元気だったというから…
ユキちゃん、もっと早く会いに来れなくてごめんね![]()
そして、今まで本当にありがとう
ユキちゃんのことを覚えていて下さるみなさんにも
今までありがとうございます<m(__)m>
ユキちゃん、またいつか会いましょうね
🌈
そして、一緒にお散歩しようね![]()
今日もありがとう~![]()










