からの続きです
ペテロシリーズ#25<iii>
個人的な患難
https://ichthys.com/Pet25.htm
ロバート・D・ルギンビル博士著
ペテロの第一の手紙の受け取り手たちについて:
地上の信者たちの歴史においては、全般的な迫害の時期に、
個人的な患難が信仰者の共同体全体に降りかかることがありました。
これはまさに、ペテロの読者であった小アジアの一世紀のクリスチャン共同体に当てはまります。
このシリーズの最初(第1課)で触れたように、西暦64年頃、
ローマでネロが行ったクリスチャン迫害は、ローマ帝国の属州に影響を
及ぼさないはずがありませんでした。
ローマの歴史家タキトゥスは、その恐ろしい大虐殺を生々しく描写しています。
数日にわたって燃え盛り、ローマ市の大部分を破壊した大火の責任をそらそうとして、
ネロはクリスチャンを替え玉にし、常軌を逸した非人道的な拷問の数々にさらしました。
信仰だけを理由に、信者たちは十字架につけられ、生きたまま焼かれ、
あるいは動物の皮に包まれて野犬に投げ与えられたのです。
古代から残っているわずかな歴史的記録には、ローマでの騒動に続いて起こった、
帝国全土にわたる組織的な迫害についてほとんど詳しいことが記されていませんが、
第一ペテロの手紙で言及されている苦しみは、実際、首都で起こったあの恐ろしい出来事の
直接的な結果であった可能性が高く、ペテロ自身もそれらの出来事を直接知っていたはずです。というのも、すでに見てきたように、第一ペテロと第二ペテロの手紙は、
おそらくほぼ同じ時期にローマから書かれたものであり、
ペテロ自身も、この残忍な一連の迫害の後、ネロの治世の終わり頃、
紀元68年のある時点で殉教した可能性が高いのです。
エルサレム教会の実例:
ローマ帝国の属州におけるネロの教会迫害がどのように進み、
どの程度まで及んだのかについて、私たちには具体的な詳細が欠けているかもしれませんが、
使徒行伝には、(現在学んでいる箇所のように、書簡の中にも迫害について多くの言及がありますが、それに加えて)
一世紀のクリスチャンたちが歩まなければならなかった困難な道について十分な証言があります。
エルサレムを拠点とする信者の共同体は、キリスト教発祥の中心地において、
そのような迫害がどのような影響を及ぼし、どのように進んでいったのかを示す代表的な例です。
・エルサレムの信者たちは、忌避され、経済的孤立と迫害にさらされました。
(使徒行伝2章42–47節, 4章32–35節, 11章28–30節, 24章17節;
ローマ15章25–28節;第一コリント16章1–4節;ガラテヤ2章10節)
・指導者たちは、鞭打たれ、(使徒行伝5章41–42節)投獄され、(使徒行伝12章)
石打ちに遭い、(使徒行伝7章57–60節)他の処刑も受けました。(使徒行伝12章2–3節)
・信者たちは、その後激しい迫害に遭い、エルサレムから追われ、家々から引きずり出され、
投獄され、処刑されました。(使徒行伝8章1–3節, 9章1節・13節)
・多くの人の信仰は、これらの出来事で厳しい試練を受けました。
(ヤコブ1章2–7節;ガラテヤ3章4節; 第一テサロニケ2章14節参照)
危機ののち、ヘブル書の筆者は彼らが受けた厳しい試錬をこう想起します:
あなたがたは、光に照されたのち、
苦しい大きな戦いによく耐えた初めのころのことを、思い出してほしい。
そしられ苦しめられて見せ物にされたこともあれば、
このようなめに会った人々の仲間にされたこともあった。
さらに獄に入れられた人々を思いやり、また、もっとまさった
永遠の宝を持っていることを知って、自分の財産が奪われても喜んでそれを忍んだ。
だから、あなたがたは自分の持っている確信を放棄してはいけない。
その確信には大きな報いが伴っているのである。
神の御旨を行って約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは、忍耐である。
「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなることはない。
わが義人は、信仰によって生きる。
もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない」。
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく、
信仰に立って、いのちを得る者である。
異教国家に生きるという挑戦:
エルサレムの信者の経験は、国家の基盤そのものが偶像礼拝と悪霊崇拝に結びついた社会で、
クリスチャンとして生きる難しさを示します。
問題はエルサレムだけではありません。
黙示録2–3章に描かれた小アジアの七つの教会への圧迫を見ると、
第一世紀のクリスチャンの多くが日常的に迫害の可能性にさらされていたことがわかります。
小プリニウスの書簡は、初期の信者が常に犯罪者扱いされる危険にあったことを裏づけます。
小アジアのビテュニア総督時代(紀元112年頃)、
彼は皇帝トラヤヌスに「クリスチャン」という名を認めるだけで
法的措置を取るに十分な罪となるのかどうかを尋ねています。
これは、その時代と場所で信者であることがどれほど危険かを雄弁に物語ります。
トラヤヌスの返答は、
「捜索はするな。ただし、発覚した者が該当の祭儀を行って信仰を撤回しない場合は処刑せよ」というものでした。
このような脆弱な立場は、初期のクリスチャンたちを様々な悪意に満ちた動機による
迫害にさらすことになりました。
それは、個人的な理由,(たとえば、異邦人が福音に応じたことによって
引き起こされた嫉妬 ― 使徒行伝17章1–5節)
あるいは経済的な理由,(ピリピでパウロとシラスが迫害された例 ― 使徒行伝16章19節)
またエペソで、新しい信仰が女神アルテミスの像の商売を脅かすと
恐れられたために起きた暴動 ―( 使徒行伝19章23–41節)などでした。
また、ローマ社会の至る所に浸透していた異教的な影響を
避けることも容易ではありませんでした。
ほんの一例を挙げるなら、商売や何らかの職業に携わっている人の場合、
その地域の該当するコッレーギウムcollegium(同業組合)に関わらずにいることは
非常に困難だったでしょう。
コッレーギアcollegia(英語の "college(コレッジ)" という語はここから来ています)は、
商業や職業に関する組織であり、今日の私たちの社会で言えば、
地域の経済団体、(ロータリー、キワニス、商工会議所など)
専門職団体、(医師にとってのAMA〔米国医師会〕や、弁護士にとっての弁護士会など)
そして労働組合が果たしているようなものを含め、実にさまざまな役割を果たしていました。
これらの多様な機能を一つに兼ね備えていたことを考えれば、
該当するコッレーギウムに属していないクリスチャンの商人や職人が、
仕事で成功することに困難を覚え、まして人目につかずにいることは
さらに困難であった理由が容易に理解できます。
問題は、すべてのコレギウムが、それぞれ関連する異教の神々に奉献されており、
入会の儀式には犠牲の供え物や聖餐的な食事、その他の偶像礼拝が伴っていたことでした。
これらはすべて、クリスチャンには固く禁じられているものでした。
(出エジプト記23章13節;ヨシュア記23章7節;詩篇16篇4節参照)
したがって、1世紀の信者たちは、現代社会に劣らぬほど堕落した社会の圧力や誘惑に
対処しなければならなかっただけでなく、一方では迫害の絶え間ない危険に、
他方では妥協の誘惑に、常に警戒していなければなりませんでした。
そのような環境の中で、個人的な悲劇や挫折はなおさら重くのしかかり、
霊的成長を阻害する大きな妨げとなったでしょう。
そのような中で耐えるためには、強く、積極的な信仰が不可欠だったのです。
この初期の信者たちにとって、「個人的な患難」という言葉は、
特別な重みを持って響いたに違いありません。
皮肉なことに、そうした形成期こそ、イエス・キリストの教会が
これまでに経験した中で最も活気に満ち、電撃的な時代でもありました。
テルトゥリアヌスの有名な格言「殉教者の血は教会の種である」がまさに実証されたのです。
実際、エルサレムの教会がそうでした。
ルカは、彼らが受けた迫害が、キリストの教会の成長に直接的かつ肯定的な影響を
及ぼしたことをこう記しています。
さて、散らされて行った人たちは、御言を宣べ伝えながら、めぐり歩いた。
(使徒行伝8章4節)
将来の艱難期における迫害のパターン:
もちろん、信者として私たちが経験する個人的な患難が、
再び信仰のゆえの大規模な迫害の一部になることは決してないと考えるのは誤りです。
たとえば『フォックスの殉教者の書』には、宗教改革時代に多くの信者たちが受けた
恐ろしい迫害の様子が生々しく記されています。
そして殉教は今日でも続いています。
全体主義国家(中国など)や神権国家(スーダンなど)では、
今この時もイエス・キリストへの信仰のゆえに迫害や死に直面している信者たちがいます。
また、このようなことが自分の国では絶対に起こらないと考えるのも誤りです。
というのも、神が今の「不法への抑制」を取り除かれる時、
全世界は大患難へと突入するからです。
その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、
かつてなく今後もないような患難が起るからである。
ここで言う「患難」(tribulation)という言葉は、これまでの学びで
「個人的な患難」と訳してきたギリシヤ語 θλῖψις(thlipsis,スリプシス) と同じです。
これらのことをあなたがたに話したのは、
わたしにあって平安を得るためである。
あなたがたは、この世ではなやみ<スリプシス>がある。
しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている。
将来の「大きな患難」(マタイ24章21節; マルコ13章19節)の性質は、
黙示録的な嵐を耐え抜くためにどれほど揺るぎない信仰が必要とされるかについて、
私たちに警告を与えています。
そして、この大患難は、今日生きている私たちすべてが実際に耐え忍ぶよう
求められる可能性のある期間です。
歴史の最後を飾るあの悲惨な一章について預言されているいくつかの傾向を見ると、
それは次のような時代になることがわかります……
・前例のないほど多くの信者が主から離れる「大背教」
(マタイ24章9–14節;第二テサロニケ2章3節;第一テモテ4章1節)。
・激しい軍事的征服(ダニエル書7章・9章・11章; エゼキエル書38–39章; 黙示録6章2節;13章)。
・内乱(黙示録6章4節)。
・深刻な経済的困難(黙示録6章6節)。
・飢饉・疫病・自然災害による壊滅的な死(黙示録6章8節;イザヤ書13章12節)。
・聖書的キリスト教に対して極度に敵対する、完全に一体化された異教宗教(黙示録13章)。
・キリストを真に信じる者たちの広範囲にわたる殉教(黙示録6章9–11節)。
・地上に下される極端な超自然的裁き(黙示録6章12節-,9章1節-, 16章1節-)。
この大患難の時代はあまりにも苛烈で、
その試練に直面する信者たちの信仰への挑戦があまりに大きいため、
主ご自身が次のように言われたのです。
人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。
しかし、それでもなお信仰に留まる人々がいます。
彼らの信仰は、大患難のただ中で試され、清められ、精錬されるのです。
(ダニエル書11章35節,12章10節;第一ペテロ1章6–9節参照)
殉教についてのさらなる学びは以下を参照してください:
「殉教と永遠の報い」(「来たる艱難期第6部」)
忍耐の大切さ:
ですから、私たちが大患難に直面するにせよ、
あるいは「単なる」個人的な患難に直面するにせよ、
(それもまた私たちの信仰にとっては十分に「大きな」試練となり得ます)
そのような困難を通して信仰を持ちこたえることの重要性は、
いくら強調してもしすぎることはありません。
私たちは心に刻むべきです。
これらの危機は、信仰を限界まで試す潜在力を持っているのです。
私たちは、信仰を守ることの重要性を軽視してよいのでしょうか?
信仰を強める機会を一度でも逃してよいのでしょうか?
要するに、私たちの主イエス・キリストにある死に対する勝利である信仰を、
少しでも緩めるようなことをしてよいのでしょうか?(第一ヨハネ5章4–5節)
これらの問いを念頭に置きながら、次回は忍耐の原則を改めて取り上げ、
個人や全体に及ぶ患難の圧力の中で信仰から離れていく「背教」の過程を考察し、
さらにその先の学びとして「個人的救い」、
すなわち忍耐の目標について扱っていくことにします。
<ペテロ・シリーズ#26<i>「個人的患難への反応」に続く> ![]()
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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
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現在、見てはいけないけれども、
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(第一ペテロ1:8)
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見えないものを信じるのは、難しいかな
でも、暗い夜でも星は存在している
(ナイトモード)
数日前の夜ウォーキングの空
クジラみたいな雲が夜の空を泳いでる🐋
天の川みたいにも見えるね🎋
星が一つだけ見えた![]()
(フラッシュ)
今朝、早くからゴロゴロ音が大きくて雨戸を開けるには早いなぁ…と思っていたら
雷でした![]()
昨日は急に黒雲になり雨がザーッと激しく降ったり
10分もしない内に陽が射して青空に積乱雲が立ち昇ったりの繰り返し…
忙しい空でした![]()
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夜に新潟の兄から「流星群が見れるぞ!」ってメールが来たけど
こちらは残念ながらペルセウス座流星群どころか星一つ見れませんでした![]()
今週はずっと雨曇りですね
晴耕雨読…何をしようかな![]()
どうぞ、良い時間をお過ごしください
お祈りしています![]()
(補正)
😽ねこちゃんも夜のお散歩![]()
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今日もありがとう~![]()





