(ひとしずく・「質問と答え」<29>)~普遍救済論への反論 I <i> ~ | sarah‐mercy

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からの続きです

 

「質問と答え」 <29> 

 

普遍救済論への反論 I  <i> 

https://ichthys.com/mail-Against-Universalism-I.htm 

 

自由意志と神のかたち 

 

質問 #1: 

ボブ先生 先生の働きに感謝いたします。その働きを通して、私は多くの助けを受けてきました。

普遍救済論(すべての人が救われるという教え)について、ご意見をお聞かせいただけますか。

最近、ある知人が、「聖霊から、普遍救済論が真実であることを示された」と言いました。

そして今では、だれも永遠に苦しむことはないのだから、心に平安があると言っています。

また彼は、神が人を永遠に罰するなどという考え方は誤りであるにもかかわらず、

そのような神をまるで怪物のように描いているとして、ほかの人々を批判しています。

彼は、自分の主張を裏づけるために聖書を引用し、

私も自分の立場を裏づけるために聖書を引用しています。

私が一番強く反論するのは、

「イエスはそのようなことを教えられなかったのだから、私たちも教えるべきではない」

という点です。

イエスは、ご自分が言われたとおりのお方であると信じなければ、

私たちは決して御国に入ることはできないと、一度ならず語っておられます。

先生なら、この問題にどのように対処なさいますか。お返事を楽しみにしております。 

 

返信 #1: 

お便りをありがとうございます。また、励ましに満ちたお言葉にも心から感謝いたします。

ご質問についてですが、まず申し上げたいのは、

あなたはこの問題にまさに正しい方法で対処しておられる、ということです。

すなわち、聖書にしっかり立っているということです。

そして聖書は、この恐るべき異端の教えを、断じて教えてはいません。

実際のところ、「何があっても、すべての人が救われる」という意味に受け取ることのできる

聖句を、私は一つとして思い浮かべることができません。

信者であれ未信者であれ、理性的な人なら、そのように読むことはないでしょう。

 

その一方で、私たちには火の池

マタイ25章41節;黙示録20章10節。参照:イザヤ24章21-22節,27章1節,34章4節;

エレミヤ10章11節エゼキエル28章18-19節;ダニエル4章35節;ヨハネ16章11節

第一コリント6章3節

最後の裁き黙示録20章11-15節。参照:黙示録14章10-11節,21章27節,22章15節

羊と山羊マタイ25章そして少なくともある人々は救われないことを明確に示している

数多くの聖句があります。

実際、人が生まれながらに罪に定められていることは、聖書が教えているだけではありません。

ローマ3章23節

それは、人は皆、だれでも身体の死を迎えるという事実から、すべての人が直感的にも

理解できる、きわめて明白なことです。

そして身体の死は、アダムとエバの子孫である私たちの内に流れている

罪の直接の結果であることも、容易に理解できます。

私たちは皆、罪を犯します。そして私たちは皆、死にます。

ですから、もし自分自身に正直であるなら、死後に創造主の御前に立つ時、

自分を弁護するために何一つ言えることがないと、心の奥ではよく分かっています。

(なぜなら、完全に聖なる神の御前では、私たちにできるどんなことも、

たった一つの小さな罪さえ消し去ることはできないからです)

 

だからこそ、イエス・キリストの福音は、これほどまでにすばらしい知らせなのです。

それは、私たちの肉による誕生から必然的に導かれる結論、

すなわち義なる神による罪の宣告を免れることのできる唯一の道だからです。

もし本当に、すべての人が何の条件もなく救われるのであれば、

そもそもなぜ身体の死が存在するのでしょうか。

なぜ私たちは皆、この身体のままで、この地上に永遠に生きることが許されないのでしょうか。

さらに言えば、もし神が、信仰とは無関係にすべての人を救うことがおできになり、

実際にそうなさるのであれば、そもそもなぜキリスト

死ななければならなかったのでしょうか。

もし、すべての人が自らの信仰による選択とは無関係に救われるのであれば、

その信仰が向けられる対象となるために、なぜキリストが死ぬ必要があったのでしょうか。

 

この誤った考え方では、神は罪人の態度とは無関係に罪を赦しておられることになります。

それは、神ご自身の義が求める要求を覆してしまうことにほかなりません。

それなら、いったい義を気にする必要がどこにあるのでしょうか。

それなら、十字架そのものを忘れてしまってもよいことになってしまうではありませんか。 

しかしもちろん、神の完全な義は否定しようのない事実であり、

罪が赦されるためには、その義が満たされなければなりません。

そしてもちろん、その赦しにあずかるためには、私たちはその赦しを求めなければならず、

それを受け入れなければならず、それを信じなければなりません。

 

すなわち、イエスと、十字架で死ぬことによって私たちのために

成し遂げてくださった御業とを信じなければならないのです。

もし私たちがそのお方を拒むなら、それがどうして罪でないと言えるでしょうか。

そして、罪のために死なれたお方を拒むという罪を償うことが不可能であるにもかかわらず、

なお神が私たちに永遠のいのちを与えられるとすれば、それは実質的に、

神が罪を永遠の世界に持ち込まれることになり、

(それによって、すべてが再び汚されることを許されることになります)

神は、赦しを求める者を赦されます。

信者が自分の罪を告白するなら、その人は赦されます。第一ヨハネ1章9節

 

しかし、告白しようとしないなら、そうではありません。

もし兄弟が私に対して罪を犯し、その後で私のところへ来て悔い改めるなら、

その人が何度そうすることになっても、私はその人を赦すよう命じられています。

しかし、悔い改めないなら、その限りではありません。マタイ18章22節

 

赦しとは、ほとんど定義そのものとして、双方に関わるものなのです。

永遠の救いという点において、

神が私たちのためにすべてを成し遂げてくださったことは確かです。

キリストは私たちの罪を取り除くために死なれました。

そして実際、全世界の罪のために死なれたのです。

しかし、神がなさらなかったことが一つあります。

それは、私たちの自由意志を取り去ることです。

神は、ご自身を受け入れるか拒むかという決断を、私たちに代わってなさいませんでした。

 

救いへの門は開かれています。

私たちに求められているのは、その門をくぐることだけです。

私たちがしなければならないことは、「いいえ」と言わないことだけなのです。

しかし、それでもなお、救いには信仰という行為が必要です。

(それは、神のかたちに本来備わっている自由意志の本質であり、

私たちがこの地上で行使するよう与えられているものです)

もし救いにこの信仰の行為が必要でないなら、

実質的に私たちはもはや自由意志を持っていないことになります。

なぜなら、この人生で最も重大な問題、

すなわち「あなたはイエス・キリストにどう応答するのか」という問いに対して

応答しようとしまいと、まったく違いがなくなってしまうからです。

自由意志がなければ、この人生において何一つ重要なものはなくなります。

なぜなら、私たちはまさに自由意志を行使するために――

まず救いという問題において、そしてその後の人生のあらゆる面へと広がっていく

その自由意志を行使するために――創造されたからです。

 

しかし、神を選ばないことに何の結果も伴わないのであれば、

真に永遠に関わる本質的な選択が存在しない以上、

実質的に真の自由意志も存在しないことになります。

神がそもそも人類を創造された目的全体は、この自由意志にあります。

それは御使いたちに対して神の義を示すためです。

神は、救うことにおいても、罪に定めることにおいても義であり、

そのどちらにおいても比類なく公正なお方です。

 

サタンはあわれみを選ぶこともできましたが、反逆にとどまり続けました。

人類もまた、ある者は神を拒みますが、生まれながら罪のゆえに

神から引き離されている私たちの中にも、神のあわれみの申し出を喜んで受け入れ、

神を選ぶ者がいることを示しています。

しかし、もしその選択に何の意味もないのであれば、

そもそも私たちが存在する必要は何だったのでしょうか。

そして、もしその選択に意味がないのであれば、

なぜ私たちは選択するよう求められているのでしょうか。

なぜ私たちは、その選択をするよう命じられているのでしょうか。 

 

実際、神は目的をもって人間を創造されました

それは、人間が神に応答することによって神に栄光を帰すためです。

(これこそ「神のかたち」の本質的な意味です。

聖書の基礎第3部A「神のかたちと似姿」<英文>を参照してください)。

 

そしてイエスは、御使いとなられたのではなく、へブル2章16節

私たちと同じ人間となられました。それも決して無意味なことではありません。

御子が肉体を取って来られたことが、どれほど驚くべき、

すばらしい賜物であるかを思う時、私たちはただ驚嘆するほかありません。

それは何という選択だったことでしょう。

イエスは、私たちのためにそうする必要はありませんでした。

歴史上最も困難な人生を歩み、あれほどの苦しみを受ける必要もありませんでした。

そしてもちろん、私たちのために十字架へ向かわれ、暗闇の中に入り、

全世界のすべての罪のために――とりわけ、信じる私たちのために――

地獄の火をその身に受ける必要もありませんでした。

これらはすべて、ご自身の選択だったのです。

そして、私たちの模範として、イエスは私たちが歩むべき道を残してくださいました。

それは、まず救いにおいて神を選び、その後も日ごとに神を選び続ける道です。

 

なぜでしょうか。それは、その選択に何の違いもないからでしょうか。

決してそうではありません。その選択が、すべてを決定づけるからです。

それは、この世界を超えた違いをもたらします。

すなわち、自ら選んで従ったお方の御前で永遠のいのちを得るか、それとも、

自らの選択によって拒んだお方の御前から離れて永遠の死に至るか、その違いです。

 

人間の人生からあらゆる結果を取り去ってしまうことは、

(そして、この偽りの教えがまさにそうしていること)

人間からその本質と存在目的を奪い去り、神が人類の歴史を通して行ってこられたすべてのこと、

とりわけイエス・キリストの十字架を、まったく無意味なものにしてしまいます。

もしキリストの御業を受け入れなくてもすべての人が救われるのであれば、

そもそもキリストの御業は、いったい何のために必要だったのでしょうか。 

 

近ごろ、この特定の偽りの教えが広まりつつあることは、私には実に驚くべきことです。

しかし私は、その背景には、自ら重大な罪に関わりながらも、良心の要求に従おうとせず、

そのままでいたいと望む個人や集団が少なからず存在することがあるのではないかと思っています。そのため彼らは、神学的にもっともらしく聞こえる「いちじくの葉」

真理を覆い隠そうとしているのです。

また、これは教会時代全体の霊的状態が嘆かわしいほど衰えていること

(終わりの時代のラオデキヤ)とも大いに関係していると思います。

 

そしておそらく、艱難期が始まる時に大きく花開く背教を推し進めるための、

悪魔による準備の一部でもあるのでしょう。

というのも、ひとたび普遍救済論が受け入れられるなら、もはや結果を恐れる必要も、

守るべき基準もなくなってしまうからです。

そして、いったん「何でもあり」になってしまえば、目に見える教会を獣の宗教へと

変えていく道のりにおいて、大きなものから小さなものまで、また巧妙なものから露骨なものまで、さまざまな変化を教会に持ち込むことは、はるかに容易になります。

(参照:来たる艱難期第3部A「艱難期の偽宗教の説得力」<A5版印刷本134頁->、

および来たる艱難期第4部「反キリストの宗教とその世界的拡大」

<リンク先A4ファイルでは44頁- / A5版印刷本では91頁->)

この問題については、次の箇所もご参照ください。 

 

最後の審判と白い大きな御座<英文> 

背教と死に至る罪<英文> 

不信仰とその結果 

 

もちろん、この問題については、反論の余地のない聖書箇所も数多くあります。

最後に、そのいくつかを挙げておきます。 

 

  地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさます。

 ある者は永遠のいのちに、ある者は恥と永遠の〔神からの〕断絶に至る。

ダニエル12章2節) 

 

 その時、あなたがたは再び、正しい者と悪しき者、

 神に仕える者と仕えない者との違いを見るようになる。

マラキ3章18節/NIV訳) 

 

 「このことに驚いてはならない。墓の中にいる者がみな、

 その声を聞いて出て来る時が来るからである。

 を行った者は、いのちを受けるためによみがえり、

 を行った者は、に定められるためによみがえるのである。」

ヨハネ5章28-29節/NIV訳) 

 

 わたしを拒み、わたしの言葉を受け入れない者には、その者をさばくものがある。

 わたしの語った言葉、それが終わりの日にその者をさばくのである。

ヨハネ12章48節) 

 

 もし耐え忍ぶなら、私たちは彼とともに支配するようになる。

 もし彼を拒むなら、彼もまた私たちを拒まれる。

第二テモテ2章12節/NASB) 

 

(6) また御使はわたしに言った。

「事は成就した。わたしはアルファでありオメガである。

 初めであり終わりである。

 渇く者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。

(7) 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。

 わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

(8) しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、

 人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を行う者、偶像を拝む者、

 またすべて偽りを言う者たちは、火と硫黄の燃える池に入れられる。

 これが第二の死である。」

黙示録21章6-8節/NIV訳) 

 

 初めに光を受けた後、苦難の中で激しい戦いに耐えたあのころの日々を思い起こせ。

 あなたがたは、人々の前でそしりと苦しみを受けて見せ物にされることもあれば、

 そのような目にあった人々と苦しみをともにすることもあった。

 また、牢に入れられた人々と苦しみを分かち合い、自分たちの財産が奪われても、

 それを喜んで受け入れた。自分たちには、

 もっとすぐれた、いつまでも残る財産があることを知っていたからである。

 だから、この確信を捨ててはならない。

 それは大きな報いをもたらすからである。

 あなたがたには忍耐が必要である。

 神のみこころを行い、約束されたものを受けるためである。

 もうしばらくすれば、来られる方は来られる。決して遅れることはない。

 「わたしの義人は信仰によって生きる。しかし、もし退くなら、

 わたしの心はその者を喜ばない。」

 しかし、私たちは滅びに至る臆病な背教に属する者ではなく、

 〔永遠の〕いのちに至る信仰を持つ者である

へブル10章32-39節) 

 

もし彼らが、私たちの主であり救い主イエス・キリストを知ることによって

この世の汚れから逃れた後、再びそれらに巻き込まれて打ち負かされるなら、

その終わりの状態は初めよりも悪くなる。

義の道を知っておきながら、自分たちに伝えられたこの聖なる命令

〔すなわちキリストへの信仰〕から背を向けるくらいなら、

初めからそれを知らなかったほうがよかったのである。

彼らについては、「犬は自分の吐いた物に戻る。また、洗われた豚は泥の中に転がる」

ということわざが、そのとおりになったのである。

第二ペテロ2章20-22節) 

 

 御子を持つ者はいのちを持っている。

 神の御子を持たない者はいのちを持っていない。

第一ヨハネ5章12節) 

 

イエス・キリストの真の信仰を勇敢に守っておられることに感謝いたします。 

 キリストにある戦友より 

ボブ・L 

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<30>につづく下差し

 

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右差し「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp

私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

また、ご意見、ご感想、また右差しオーディオクラスに関心のある方は、

shizuku365@proton.meまでご連絡ください。

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 おおいかぶされたもので、現れてこないものはなく、

隠れているもので、知られてこないものはない。

(ルカ12:2)

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何の木があったのか分からないくらい

葛のツルに覆われているね‥‥

 

 

 

気づき電車が来て思い出した

秋に真っ赤に紅葉したハゼの木があったんだ🍂

写真を撮ると、記憶にも残るから

認知症予防にもなりそうねグッ

そう言えば、ずっと前から蝉の声が聞こえるというけど

私は昨日ようやくはっきり聞こえました

これも、老化現象あるある?

因みに、猫除けセンサーの音は聞こえません

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今日はももちゃんが虹の橋を渡って4年目

もうそんなに経つの?

覚えているよ、暑い日だったね🌈✨

また会える日まで💕

 

 

 

きくらげ & はんぺん

 

かくれんぼ音符

今日もありがとう~ラブラブ