からの続きです
ペテロ・シリーズ#28 -3
個人的救いと段階的啓示 ロバート・D・ルギンビル博士著
段階的に完成する救い:
信者はすでに救われています。それなのに、なぜペテロは9節で、
私たちは主の再臨を待ち望み、その時に救い(字義的には「救い出し」)を
経験すると述べているのでしょうか。
また、なぜパウロは「恐れおののいて自分の救いを達成しなさい」(ピリピ2章12節/KJV訳)
と言っているのでしょうか。
その答えは、私たちはすでに救われており、(キリストにあって、立場の上で救われています)
また今も救われ続けている一方で、(信仰が絶えず攻撃されるこの世を通る中で守り救い出されています)私たちが望んでいるすべてのことは、
まだ完全には実現していないということです。
まだ見ていないものは、望みをもって待たなければなりません。
(ローマ8章23-25節でパウロが述べているとおりです)
しかし、私たちの望みは、実現するかどうか分からない、はかない期待ではありません。
それは、主が再臨の栄光の日に、私たちのために必ず成し遂げてくださることへの
揺るぎない確信です。
信者にとって、信仰とは、まだ見ていないものを現実のものとして確信することです。
(へブル11章1節)
そして、信仰をもって将来を待ち望むことが、キリスト者の希望であり、
その希望は何よりもまず復活に向けられています。
(23) それだけではない。初穂として御霊を受けている私たち自身もまた、
心の中でうめきながら、子とされることの完成、
すなわち、私たちの体が贖われること(すなわち復活)を切に待ち望んでいる。
(24) 私たちは、この希望によって救われたのである。
(ローマ8章23-24節前半)
いつも明確に述べられているわけではありませんが、キリスト者の「救いの希望」が
最終的に実現するのは、復活の時です。
その偉大な日に、私たちは、イエス・キリストを信じる者として今すでに与えられている
栄光ある立場だけでなく、神が私たちに約束されたすべてのことを完全に受けることによって、死からいのちへと移されます。
すなわち、永遠の体を受け、それに伴う報いを受け、愛する主の御前で、
すべての兄弟姉妹と共に、新しいエルサレムにおける永遠の相続を受けるのです。
(8) しかし、昼に属する私たちは慎み深くあろうではないか。
信仰と愛を胸当てとして着け、救いの希望をかぶととして着けよう。
(9) 神は私たちを御怒りに定められたのではなく、
私たちの主イエス・キリストによって救いを得るように定められたのである。
(第一テサロニケ5章8-9節/NKJV訳)
私たちは、聖化について学んだ時(本シリーズ第8課、第13課、第19課参照)と同じことを、
救いについても見ることができます。
私たちは、イエス・キリストを信じた時に、キリストと一つに結ばれたことにより、
御父から「聖なる者」と見なされるという意味で、立場の上ですでに聖なる者とされました。
また、復活の時には、完全に新しい体を与えられ、
永遠に罪を犯すことのできない者となるという意味で、永遠に完全に聖なる者とされます。
しかしその一方で、私たちはこの地上においても、聖なる生活を送るよう召されています。
すなわち、すでに与えられている聖なる者としての立場にふさわしく、
また復活の日に完成する聖化を待ち望みながら、主と共に聖く歩むよう、
自分の歩みを整えていかなければならないのです。
救いについても、これと同じことが言えます。
私たちはキリストを信じる者として、すでに救われ、救い出されています。
しかし、その最終的な救い、すなわち救いを完全に受けるのは、体の復活を経験し、
永遠が始まるその日です。それゆえ私たちは、すでに受けており、
キリストと一つに結ばれた者として日々経験している救いを喜び、
それに信頼するだけでなく、やがて来る救いにも希望を置かなければなりません。
同時に、「A」と「C」の間の重要なつながりが途中で断たれることのないよう、
努めなければなりません。
なぜなら、「B」、すなわちこの地上での人生は、私たちがキリストに自らを委ねた後も、
かなり長く続くことがあるからです。(もちろん、神のご計画全体から見れば、それも永遠と比べれば瞬きほどの短さにすぎません)
そして、最終的な救いを受けるのは、救われている者、
すなわちキリストを信じる者だけだからです。
だから、愛する者たちよ。
あなたがたはいつも従順であったように、私が一緒にいた時だけでなく、
今、離れている時にはなおさら、恐れおののいて自分の救いに取り組みなさい。
(ピリピ2章12節)
自分の群れを深く愛する優れた聖書教師として、パウロはピリピの信者たちに
「真理のすべて」を語っています。
信者である限り、私たちの救いは絶対に確かなものです。……信者である限りは。
しかし、「種まき」のたとえには、岩地に落ちた種という種類があります。
その人は、自分が救われたことを喜び、確かに芽を出します。
……しかし、それはしばらくの間だけです。
その後、失望や圧迫によって、このような人の信仰は次第に衰えていき、
ついには完全に失われてしまいます。
「岩地に落ちたものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れる人たちのことである。
しかし、根がないので、しばらくは信じていても、試練の時になると離れてしまう。」
(ルカ8章13節/NASB訳)
このような人たちは、信仰から離れた後は、もはや信者ではないので、
もはや救われてはいません。
救いとは、イエス・キリストに信仰を置くことから必然的に生じる結果です。
しかし、信仰を失えば、救いもまた失われます。
この事実は、パウロの心からの警告を受けたピリピの信者たちと同じように、私たちにも、
この人生において最も重要なこととして、自分の救いに取り組むよう促すはずです。
なぜなら、私たちが本当に霊的に前進し、御言葉とそれに対する信仰において成長し、
主を愛する者たちに訪れる試練に失敗するのではなく、それを乗り越え、
自分に与えられた霊的賜物をキリストの体への奉仕のために用いているなら、
恐れるべきことは何一つないからです。
危険なのは、霊的な無関心のために主から離れてしまうおそれのある、
無関心な者たちだけです。
神は私たちが救われないようにしておられるのでは決してありません。
そんなことは断じてありません。神は、御子を遣わし、
その犠牲によって私たちが生きるために、御子が死なれるようにしてくださいました。
(ヨハネ3章16節)
神は、世をさばくためではなく、世を救うためにイエスを遣わされたのです。
その結果、イエス・キリストを信じるすべての者は救われています。
そして、その救いに不可欠な信仰を保ち続ける限り、あの偉大な日においても救われるのです。
自分たちのためではなく、あなたがたのために仕えていた:
神のご計画や、主が私たち一人ひとりの人生と世界の歴史のあらゆる出来事を
完全に結び合わせておられることには、驚くべきこと、
畏敬の念を抱かせることが数多くあります。
しかし、その中でも最も驚くべきことの一つは、悪魔の支配するこの世にあって、
信者が霊的に成長し、その歩みを支えられるために必要な真理のすべてが、
聖書の中に完全に備えられていることです。
(2) 主は私を緑の牧場に伏させ、(すなわち、物質的な養いのために)
(3) 主は私のたましいを生き返らせ、(すなわち、肉体と霊のいのちを回復させ)
御名のゆえに私を義の道に導かれる。
(詩篇23篇2-3節/NKJV訳)
神が真理を完全に備えてくださったことには、受肉、キリストの霊的な死、
そして復活が実際に起こった後になって、十字架と、そこで私たちの罪を負われたお方が、
初めから神のご計画の一部であったことを示すのに必要な情報が、
聖書の中にちょうどふさわしく備えられていることも含まれています。
実際には、イエス・キリストご自身こそが、そのご計画そのものなのです。
昔の預言者たちが見ることのできなかったもの、そして私たちが見ることのできるもの、
それは肉となって来られたキリストです。
そして、私たちは、愛する主がこの世に来られる何世紀も前に、
預言者たちに書き記すよう与えられた預言の言葉によって、
そのキリストをさらに明らかに見ることができます。
以前に書かれたことはすべて、私たちを教えるために書かれたのである。
それは、聖書が与える忍耐と慰めによって、私たちが希望を持つためである。
(ローマ15章4節)
律法全体の目的は、人間の罪と無力さを明らかにすることによって、
人を救いへ導くことにあります。(ローマ3章20節,7章7節;ガラテヤ3章24節)
しかし、その律法の中には、来たるべきキリストと、
私たちのためのその犠牲を明確に指し示す影が含まれています。
その翌日、ヨハネはイエスが自分のほうへ来られるのを見て言った。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」。
(ヨハネ1章29節/NKJV訳)
その方を信じる者はさばかれない。
しかし、信じない者は、神のひとり子の御名を(すなわち、そのお方ご自身)
信じなかったので、すでにさばかれている。
(ヨハネ3章18節)
神から生まれた者はみな、世に打ち勝つ。
そして、世に打ち勝った勝利、それが私たちの[キリストに対する]信仰である。
福音:
漸進(ぜんしん)的啓示(段階的啓示)の重要な側面の一つであり、
第一ペテロ1章10-12節の文脈でペテロが特に強調しているのは、
福音がどのように示されてきたかということです。福音は昔から変わることなく同じです。
すなわち、罪の身代わりとなられた私たちの愛する主であり救い主イエス・キリストに信仰を
置くことによって、罪、死、そして罪の宣告から救い出してくださる神を信頼することです。
この手紙の受取人たちは、小アジアの諸教会に最初に福音を宣べ伝えた人々による、
この真理の宣教を通して救われたことを、ペテロはここで思い起こさせています。
この手紙には、豊かで深い聖書の真理が数多く含まれていることからも分かるように、
ペテロは主として「彼らが初めて信じた時」のことを語りながらも、「福音」という言葉を、
聖書でしばしば用いられている意味、すなわち、イエス・キリストについての
「良い知らせ」を成す聖書全体の真理という意味でも用いています。
もちろん、そのすべてを知らなければ救われないというわけではありません。
しかし、そのすべてが「教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」なのです。
(第二テモテ3章16節/NKJV訳)
簡単に言えば、私たちは神の御言葉という種によって新しく生まれ、
霊的な幼子として救われますが、その成長は幼子のままで終わるべきではありません。
御言葉という乳によって養われながら、
「キリストによって定められた成熟の基準にまで到達する」(エペソ4章13節)まで
成長し続けるべきなのです。
福音の働き手:
私たちの救いを実際にもたらしてくださるお方が、
私たちが初めてイエス・キリストを信じた時に、真理を私たちの心に現実のものとして
理解させてくださる聖霊であるように、聖霊はまた、聖書全体を書かせたお方でもあります。
さらに、聖霊は、私たちが聖書の他のすべての真理を聞き、それを信じようとする時、
それを理解できるようにしてくださるお方でもあります。
これは、不信者にはできないことです。
教会が、悪魔の支配するこの世にあって、悪しき者の激しい反対にもかかわらず、
一人ひとり、また教会全体として、霊的な幼子から霊的成熟へと成長していくことは、
まさに心に深く刻むべき奇跡であり、
「御使いたちでさえ、深く知りたいと願っていること」なのです。(第一ペテロ1章12節)[1]
キリストの苦難:
やがて現れる栄光はすべて、ただ一つの土台、すなわちイエス・キリスト、
その完全なお方と、私たちのために苦しみを受けられたその完全な御業の上に築かれています(第一コリント3章11節)。
イエスは、私たちの罪のため、そして全世界の罪のために死なれました。
この真理こそ、私たちが信じるすべてのこと、私たちのすべての希望と期待の土台です。
主が私たちのためにご自身をささげられたことの偉大さは、
今の私たちには到底十分に理解することはできません。
しかし、それが人類の歴史においても御使いの歴史においても、
これまで起こった中で最も偉大な出来事であったことだけは分かります。
それだけではありません。
主がすべての罪の代価を負うために火の中へ入られたことは、
私たちの想像をはるかに超える出来事です。その犠牲のほんのわずかな一部分でさえ
理解を超えており、その価値は測ることができません。
イエスがおられなければ、歴史そのものも存在せず、歴史に意味もありません。
もし主が私たちのために苦しむことを望まれなかったなら、私たちは滅びていたでしょう。
そして、その滅びがどれほど恐ろしいものかは、考えるだけでも身震いするほどです。
神であられるにもかかわらず人となり、この世を完全に歩まれ、
サタンの手先となった人間と御使いたちから激しい攻撃を受け、
十字架の苦しみとその前後のあらゆる辱めを忍ばれました。
これら一つ一つの犠牲は、それだけでも私たちを畏敬の念で震えさせるに十分です
しかし、そのどれ一つとして、主が私たちのために暗闇の中へ入り、
炎の中から立ち上がられ、(士師記13章20節)焼かれても焼き尽くされることなく、
(出エジプト3章2節)私たちのすべての罪のためになだめを成し遂げられるまで
苦しまれたことには到底及びません。
私たちは、自分の最も軽い罪に対する最も小さな罰でさえ受けるにふさわしくなく、
また受けることもできず、正直に言えば、それを受けようともしませんでした。
しかし、イエスはそれを私たちのために負ってくださいました。
私たちを救い、ご自身の花嫁、すなわちキリストの教会として、
ご自身のものとするためです。[2]
「喜ぼう。歓喜して神をほめたたえよう。
小羊の婚宴の時が来て、
その花嫁は用意ができたからである。」
(黙示録19章7節/NIV訳)
結論:
今、私たちに与えられているこれらの驚くべき真理は、
主がどのような苦しみを私たちに許されるとしても、その中で私たちを慰めてくれます。
そして、これらの真理を学び、信じ、それを実践することによって、
私たちは、この世の一時的で過ぎ去っていくものではなく、永遠の報いと、
私たちのために苦しみ、私たちに永遠のいのちを与えてくださった救い主から、
ついに主の御顔を直接仰ぎ見る時に「よくやった」と言っていただけるという
確かな希望に目を向けながら、精神的にも霊的にも支えられて歩み続けることができるのです。
[1] 『聖書の基礎』第5部「聖霊論――聖霊についての研究」
(Pneumatology: the Study of the Holy Spirit)を参照してください。
[2] 『聖書の基礎』第4部A「イエス・キリストについての研究」(Christology)のII.5.
「キリストの霊的な死」を参照してください。
<ペテロ#30>に続く![]()
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*
「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp
私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。
また、ご意見、ご感想、また
「オーディオクラス」に関心のある方は、
shizuku365@proton.meまでご連絡ください。
*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○☆*:..。o○☆゚・:,。*
(備忘録)1月に行く予定が、私の腰のケガで…ようやく長男さんの家に行って来れました![]()
家から10分ほど歩くと、ヨットハーバーに![]()
猛暑だから、どうしようかなぁ…と思ったけど
雲が少し出て、海の風もあったので助かりました![]()
波の音、潮の香りは懐かしい
明日は花火大会があるらしいけど、長男さんはお休みではないので残念
海を見ながら祈ります![]()
右を見ると東京湾が
左を見ると房総半島(内房)が見える
もっと奥に行くと海で泳いでいる人がいたけど
松原の小道を通って引き返し、1時間半ほど歩けました
(こんなに歩けることを感謝
)
あ~、私も海に飛び込みたかった~![]()
![]()
一年ぶりの
きくらげは恥ずかしがって二階に逃げちゃった![]()
初めましての
はんぺんは、興味津々、その後も遊んでくれたよ~![]()
つづく…
今日もありがとう~![]()







