ペテロ・シリーズ#28-1
個人的救いと段階的啓示 ロバート・D・ルギンビル博士著
ペテロ1章8-12節
第一ペテロ1章8-9節の改訂訳:
(8) あなたがたは、この方をまだ一度も目にしたことがないが、
それでもこの方を愛している。
また、今この時、この方を見ることはできないが、それでもこの方を信じている。
そのため、あなたがたは、やがて来る栄光に満ちた未来を示す、
言葉では言い表せない喜びをもって喜んでいる。
(9) その時、あなたがたは究極の賞を勝ち取ることになる。
それは、あなたがたのいのちの救い(字義的には「救い」、すなわち個人的救い)であり、
まさにあなたがたのこの信仰の目的であり、目標なのである。
「あなたがたの魂(?)の救い」:
長年にわたる(そして誤解を招く)慣例に従って、
ほとんどの英語訳聖書(例えば、KJV、RSV、NASB、NIV)は、
上で「あなたがたのいのちの救い」と訳した句を「あなたがたの魂の救い」と訳しています。
<訳註:日本語訳の新共同訳、口語訳、新改訳も「魂/たましい」>
この従来の訳の主な問題は、
それが長年にわたって存在してきた誤った神学的考え方を助長し、
その結果、これらの言葉が実際に何を意味しているのかについて、
読者に誤解を与えてしまうことです。
まず、人間は神によって造られた存在として、物質的な部分(人間の体)と
霊的な部分(人間の霊)から成る二つの部分を持つ存在です。[1]
私たちは一人ひとり、いのちが始まった瞬間からこのような存在であり、
永遠にわたってこのような存在であり続けます。
創世記2章7節で、神がアダムの体にいのち(すなわち霊)を吹き込まれた時、
アダムは「生きた存在」、すなわち「生きた魂」となりました。
(ヘブル語では nephesh / נֶפֶשׁ〔ネフェシュ〕であり、
これに相当するギリシヤ語はpsyche / ψυχή〔プシュケー〕です。参照:第一コリント15章45節。そこでパウロは創世記2章7節を引用する際、ネフェシュ を プシュケーと訳しています)
つまり、ネフェシュ/プシュケーという「魂」は、
実際には生きている人間全体を指しています。
それは、神ご自身が一人の人間を形造るために創造された、
霊的な部分と物質的な部分とが一つになった存在です。
(一般的な考え方とは異なり、聖書における「魂」とはこのようなものです)
ネフェシュ/プシュケーは、人間全体を指すのであって、人間全体とは別に存在する、
人間を構成する一部分としての「魂」を意味するものでは決してありません。
しかし、ラテン語およびローマ・カトリックの影響によって、
ほとんどの人は「魂」という言葉を聞くと、そのようなものを思い浮かべます。
しかし、ギリシヤ語とヘブル語の用法では、決してそのような意味ではありません。
聖書で「魂」という言葉が用いられる時、内なる人を強調する場合はあります。
(結局のところ、それこそが本当の意味での「私たち自身」だからです)が、
しかし聖書は、ネフェシュ/プシュケーを人間の一部分だけ
(それが非物質的な部分であれ、物質的な部分であれ、
あるいはその両方の何らかの組み合わせであれ)を指す言葉として用いることは
決してありません。
そのような考えは、聖書以外の憶測や理論から生じたものであり、
正統的なキリスト教神学には存在する余地のないものです。
簡単に言えば、ネフェシュ/プシュケーとは「その人自身」であり、
したがって、その人自身の「いのち」を意味します。[2]
キリストへの信仰によって「救われる」のは、私たちの一部分ではなく、
私たち自身の全体なのです。(そしてこれは、まさに非常に「良い知らせ」なのです)
第二に、上記の英語訳聖書で「救い」と訳されているギリシヤ語
soteria /σωτηρία(ソーテーリア)は、間違った訳ではありませんが、
特に ネフェシュ/プシュケーを「魂」と訳す場合には、誤解を招く可能性があります。
「あなたがたの魂の救い」という表現は、英語を話す人々の心に、ここでもまた、
聖書とはまったく異なるイメージを生じさせるからです。
このことは、この表現を、修正された訳である「あなたがたのいのちの救い」と
比較すれば明らかでしょう。
私たち人間は、イエス・キリストに対してどのような態度を取るかによって、
自分のいのちを「失う」か「得る」かするのです。(参照:マタイ10章39節)
人が全世界を手に入れても、自分自身(psyche / ψυχή〔プシュケー〕)を失い、
または損なうなら、何の益があるだろうか。(ルカ9章25節/NIV訳)
ここでペテロが教えている救いについての内容は、
この主題を扱う聖書の他のすべての箇所と完全に一致しています。
イエス・キリストへの信仰によって、私たちのいのちは、
神から永遠に離れて過ごすという恐ろしい結末から「救い出されます」。
私たちがより頼むイエスの犠牲によって、この地上での短い命は、
救い主が私たちをご自分のもとへ召してくださる時から、
祝福された永遠のいのちへと移っていきます。
これが9節で言われている「勝利」
(死に対する勝利。参照:第一コリント15章54-57節)であり、
これがペテロの語っている、私たちすべてが目指す「究極の賞」です。
すなわち、天の父の御前で、イエス・キリストにあってる永遠のいのち(参照:ローマ2章7節)
であり、そしてその反対の結末、
すなわち私たちの主を拒むすべての者を待ち受ける第二の死から救い出されることです。
このようにペテロは、3節から始まったこの段落の議論を、これらの節によってまとめています。
そこでは、私たちの霊的な新生、すなわち、イエス・キリストに自らを委ねるすべての者に、
この地上にいる間に永遠のいのちが与えられることが、私たちの主の再臨の時に起こる
義人の復活において完全に実現するものとして述べられています。[3]
イエス・キリストへの信仰によって、私たちは皆、この「究極の賞」、
すなわち「私たちのいのちが無事に救い出されること」に到達します。
それは、キリストを拒んで「自分のいのちを失う」者たち
(すなわち、死から救い出されず、かえって「第二の死」を迎える人たち:
黙示録2章11節,20章6節,20章14節,21章8節)とは対照的に、
私たちが無事に天にたどり着き、キリストと共に永遠のいのちを始めることです。
これこそまさに「私たちの信仰の目的であり、目標」です。
すなわち、イエス・キリストにある永遠のいのちと、
永遠の死という刑罰から救い出されることなのです。
(本シリーズ第20課で学んだように)私たちが愛する主イエスと共に
永遠に享受するこの永遠のいのちは、復活の体をもって生きる、
非常に現実的で実体のあるものであることを思い起こす必要があります。
しかし、復活した者たちの間では、この地上での奉仕に対して受ける報いの程度には
大きな違いがあります。[4]
したがって、私たちの主の再臨と、永遠のいのちのために復活して
主のもとに集められることを待ち望むことは、涙と苦しみに満ちたこの世にあって、
私たちに信じられないほど大きな慰めを与えてくれるだけではありません。
悪魔の妨害にもかかわらず、主に忠実に仕えたことによって受ける
すばらしい報いを確信をもって待ち望むことも、
私たちの「生ける望み」の正当かつ必要な一部なのです。
絶えず霊的に成長し、御言葉の真理を信じてそれを実践し、
私たち一人ひとりに与えられた霊的賜物と奉仕を通してその真理を
他の人々に伝えていくことによってのみ、私たちは永遠の報いを最大限に受けることができる
と同時に、偽りの教えという罠を避けることができます。
この偽りの教えは、私たちの報いを損なうだけでなく、
私たちの救いさえ危険にさらすおそれがあるのです。
最後に、完全な永遠の体、新しいエルサレムにおける住まい、永遠に続く報い、
すべての兄弟姉妹との完全な交わり、そして何よりも大きな祝福である、
私たちの愛する主イエスと御父の御前に永遠にいる喜びなど、
そのすべてを含むこのすばらしい救いは、まさに勝ち取るに値する賞です。
そして、原則としてすでに今、勝ち取っているこの賞は、
守り続けるだけの十分な価値があります。
そのためには、信仰をもって耐え続けることが必要です。
なぜなら、信じる者、すなわち最後まで信仰をしっかりと保って耐え抜く者だけが
救われるからです。(マタイ10章22節, 24章13節;マルコ13章13節)
イエスが私たちに望んでおられるように、
シオンへと続く大路を前進している者たちにとって、
この地上で遭遇する試練、困難、苦しみ、テスト、患難は、私たちの信仰を鍛え、
強くする働きをします。
それらを経験している時には喜ぶ理由にはならないとしても、
それらを無事に乗り越えた経験は、あの偉大な評価の日に主の御前で
大いに喜ぶ理由となるでしょう。(第一ペテロ4章13節;黙示録7章17節;21章4節)
しかし、後戻りしている者たちや、この人生でクリスチャンに必ず降りかかる困難によって
落胆し、主からますます遠ざかっていくことを許している者たちには、
次第に弱くなった信仰が最後まで持ちこたえられなくなる危険があります。
ですから、これらのことを主の目を通して見るように全力を尽くしましょう。
主は私たちの味方であり、どのような困難が起ころうとも、
私たちを無事に乗り越えさせてくださることを理解し、自分の目に何が見え、
耳に何が聞こえ、感情が何を感じようとも、主を信頼するのです。(ローマ8章31節)
このようにして、私たちの信仰は、この文脈で約束されている永遠のいのちに至る、
私たちのいのちの救いへと成長していきます。
しかし、あきらめてしまう者たちには、主から離れていくことによって、
信仰を完全に失ってしまう危険があります。(第一テモテ1章19節)
(35) だから、あなたがたはこの確信を捨てては
(36) 神のみこころを行った後、約束されたものを勝ち取るために、
あなたがたには耐え忍び続けることが必要である。
(37) 「もうしばらくすれば、ほんのわずかな時を待てば、
来るべき方は必ず来られる。遅れることはない。
(38) わたしの義人は信仰によって生きる。
しかし、もし退くなら、わたしの心はその者を喜ばない」(ハバクク2章3-4節)。
(39) しかし、私たちは滅びに至る臆病な背教に属する者ではなく、
[永遠の]いのちに至る信仰を持つ者である。
[1] 特に、L・S・チェイファー著『SystematicTheology(組織神学)』第2巻、
162-199頁を参照してください。
[2] この原則についての詳しい説明と更なる資料については、
および『聖書の基礎』第3部A「人間論」(Anthropology)
<英文。未翻訳>を参照してください。
[3] 霊的な新生と永遠のいのちという主題については、本シリーズ#19「霊的な再生」
(Spiritual Rebirth)、および『Bible Basics』第4B部「救済論」(Soteriology)を
参照してください。
[4] 『来たる艱難期』第6部「最終の事柄」(LastThings)のI.7節「教会の裁きと報い」(TheJudgment and Reward of the Church)を参照してください。
<ペテロ #28-2に続く> ![]()
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昨日、熊本を中心に九州地方で大きな地震がありましたね
被害の全貌はまだ詳しく分かりませんが
かなり広範囲によるので、読者さんの中にも被害に遭われた方が
いらっしゃるかと思います
祈る事しかできませんが、どうぞ必要な助けがあり
生ける望み、救いがありますように
お祈りしています![]()
葛のツルがあんなところまで上ってるよ
近くに行くと、葛の花も咲いてたよ![]()
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きくらげ😽
いのってるにゃ
今日もありがとう~![]()




