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来たる艱難期:黙示録の歴史 第6部 <36>
最終の事柄:千年王国と新しいエルサレム
III. イエス・キリストの千年王国:黙示録20章1節―22章5節
2)御霊の注ぎ:
教会最初のペンテコステの日以来、人類史のあらゆる時代において、
霊的成長、前進、奉仕に決定的に重要である聖霊の働きは、
より鮮明かつ力強く感じられるようになりました。
それは、御霊が常に信者たちと「共に」おられた一方で、キリストの昇天によって、
信者たちが御霊によるバプテスマを受け、
御霊を「内側に」持つという賜物が可能になったからです。
(そしてこの恩恵は、使徒時代の終わり以前には、イエスを信じるすべての者によって経験されるようになっていました――ローマ8章9節;ヨハネ14章17節;第一テサロニケ4章8節;第二テモテ1章14節; へブル6章4節参照)
千年王国は、御霊の働きにおける第三の段階を構成することになります。
その時には、少なくともユダヤ人信者たちは、(エゼキエル37章9節参照)
単に御霊の内住を受けるだけでなく、最初のペンテコステや教会初期の使徒時代の日々のように、劇的な力を与えられることになります。
今日、それらが(本物としては)起こっていないことからも明らかなように、
あの初期の劇的な「しるし」の賜物による力は、萌芽期の教会と、
使徒たちによって地中海世界全域に設立された地方教会との間を橋渡しするための、
一時的現象でした。
それらの教会は、完成された新約聖書に記された信仰と実践の教えによって導かれていました。
しかし千年王国の間には、この奇跡的な御霊の現れは、
エルサレムとイスラエルにおけるユダヤ人信者共同体の間で普遍的なものとなるだけでなく、
メシヤの王国における恒久的特徴となります。
(それは、一時的で開始時だけの現象ではありません)
(14)とりでは見捨てられ、騒がしい町は荒れ果て、
とりでと見張りの塔は永遠に荒地となり、
野ろばの喜ぶ場所、群れの牧場となる。
(15) その時、上から御霊が私たちに注がれ、
荒野は実り豊かな畑となり、
その実り豊かな畑は森のように見える。
(イザヤ32章14-15節/NIV訳)
わたしはあなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、
あなたの末裔にわたしの祝福を注ぐ。
(イザヤ44章3節後半/NIV訳)
(20) 『贖い主はシオンに来る。
ヤコブのうちで罪から立ち返る者たちのもとに来る』
と主は言われる。
(21) 『わたしについて言えば、これが彼らと結ぶわたしの契約である』
と主は言われる。
『あなたの上にあるわたしの霊と、あなたの口に置いたわたしの言葉は、
今からとこしえに、あなたの口からも、あなたの子の口からも、
その子孫の口からも離れることはない。』
(イザヤ59章20-21節/NIV訳)
(26)わたしはあなたがたに新しい心を与え、あなたがたの内に新しい霊を授ける。
わたしはあなたがたの肉から石の心を取り除き、肉の心を与える。
(27)わたしはわたしの霊をあなたがたの内に置き、
あなたがたがわたしのおきてに従って歩み、 わたしの定めを守り行うようにする。
(エゼキエル36章26-27節/NIV訳)
わたしはわたしの霊をあなたがたの内に置く。
あなたがたは生きる。
そしてわたしはあなたがたを自分たちの地に住まわせる。
その時、わたしが主であり、このことを語り、これを行ったことを、
あなたがたは知るようになると主は言われる。
(エゼキエル37章14節/NIV訳)
「わたしはもはや彼らからわたしの顔を隠さない。
わたしがイスラエルの家にわたしの霊を注ぐからである」
と主なる神は言われる。
(エゼキエル39章29節/NASB訳)
「わたしはダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと嘆願の霊を注ぐ……」
(ゼカリヤ12章10節前半/NASB訳)
(28) 『その後、わたしはすべての人にわたしの霊を注ぐ。
あなたがたの息子と娘は預言し、老人たちは夢を見、若者たちは幻を見る。
(29) その日には、男奴隷にも女奴隷にも、わたしの霊を注ぐ。』
(ヨエル2章28-29節/NASB訳)
この最後の箇所において、私たちは千年王国における御霊の注ぎの
劇的な効果を最も明瞭に見ることができます。
この出来事は、ペンテコステにおける並行的成就によって前もって示されていました。
その時、ペテロは、「これは預言者ヨエルによって語られたことである」(使徒行伝2章16節)
と述べて、その比較に言及しました。
どちらの場合にも、驚くべき明白な御霊の現れは、キリストの勝利
(それぞれ十字架とハルマゲドンにおける勝利)を記念する新時代開始の特別なしるしです。
違いは、千年王国の間には、これらの賜物が、
メシヤがエルサレムに住み続けられる限り持続するという点にあります。
(ヨエル2章30-32節は、再び主題を再臨直前の出来事へ戻しています)
3)ユダヤ人の霊的指導権の再開:
上記のイスラエルへの特別な御霊の賜物は、もう一つの大きな千年王国の傾向のしるしです。
すなわち、神のディスペンセーションが再びユダヤ民族へ焦点を合わせることです。
というのも、ユダヤ民族の数が爆発的に増加し、世界の信者共同体におけるユダヤ人の割合が、
イスラエル時代のように支配的になるだけではなく、(下のIII.1.e節参照)
キリストの教会の指導権もまた、使徒時代のように、主としてユダヤ人から成る集団の手に
再び戻ることになるからです。
すでに見たように、千年王国における最初の新しい信者の波はユダヤ人たちであり、
彼らは戻って来られたメシヤの現実に直面した時、神に立ち返ることになります。
(エレミヤ31章31-34節;ヨエル2章30-32節;ゼカリヤ12章10節;ローマ11章12節;黙示録1章7節)
第二に、イスラエル、特にエルサレムは、千年王国の政治的中心地となるだけでなく、
霊的中心地ともなります。
そしてそれは、まさに同じ理由によるのです。
すなわち、大祭司と王の王という職務を、そのお方自身の内に
兼ね備えておられる方のご臨在によるからです。
(14) 「背信の民よ、立ち返れ」と主は言われる。
「わたしはあなたがたの夫だからである。
わたしは町から一人、氏族から二人を選び、あなたがたをシオンへ連れて行く。
(15) その時、わたしは、わたしの心にかなう牧者たちをあなたがたに与える。
彼らは知識と悟りをもってあなたがたを牧する。
(16) その日には、あなたがたがこの地で大いに増える時」
と主は言われる、
「人々はもはや、『主の契約の箱』とは言わなくなる。
それは彼らの心に浮かぶこともなく、思い出されることもなく、
惜しまれることもなく、再び作られることもない。
(17) その時、人々はエルサレムを『主の御座』と呼び、
すべての国々は主の御名をあがめるため にエルサレムへ集まる。」
(エレミヤ3章14-17節前半/NIV訳)
上の15節で言及されている「牧者たち」の重要な役割の一つは霊的指導であり、
私たちは、預言の賜物と務めが、再び神の民の徳を高めるために
力強く働くようになることによって、千年王国に関する箇所の中に、
神からの特別な霊的導きという主題が顕著に現れているのを見るのです。
(19) シオンの民、エルサレムに住む者たちよ、あなたがたはもはや泣かない。
あなたが助けを叫ぶ時、主はなんと恵み深くあられることか。
主は聞くやいなや、あなたに答えられる。
(20) 主があなたがたに苦難のパンと悩みの水を与えられても、
あなたがたの教師たちはもはや隠されることがない。
あなたがたは自分の目で彼らを見る。
(21) あなたが右に行こうと左に行こうと、あなたの耳は後ろから、
『これが道だ。これに歩め』と言う声を聞く。
(22) その時、あなたがたは銀をかぶせた偶像や金でおおった像を汚れたものとし、
それらを月経の布のように投げ捨てて、「出て行け」と言う。」
(イザヤ30章19-22節/NIV訳)
(9) 「わたしは主、あなたの神である――あなたがエジプトの地にいた時から、
わたしはそうであった。
(10) わたしは再び、祭りの日々のように、あなたを仮庵に住まわせる。
(すなわち、再臨後の再集結を表す仮庵の祭りのように)
その時、わたしは再びあなたの預言者たちに語りかけ、彼らの幻を増し加える。
まことに、わたしは預言者たちを通して、あなたに理解できる教えを与える。」
このように拡大された真理の教えと、御霊の特別な注ぎとが結び合わさる結果として、
神についての知識は、特に神の民の間において、至る所に満ちるようになります。
地は、海をおおう水のように、主を知る知識で満たされるからである。
(イザヤ11章9節後半)
また(エレミヤ31章33-34節参照)
また、真理が広められる主要な場所は、エルサレム、特に千年王国の神殿となります。
(27) わたしの住まいは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
(28) わたしの聖所が永遠に彼らの中にある時、諸国の民は、
わたしがイスラエルを聖別する主であることを知るようになる。』」
(エゼキエル37章26-28節/NIV訳参照)
第一神殿と比べると、当初その建設が見劣りしていた第二神殿(ハガイ2章3節)が、
後に壮大に拡張され、見事に装飾されたように、艱難期の神殿もまた、
儀式的清めと修復の後に、驚くほど美しく飾られ整えられ、エゼキエルの記述
(すなわちエゼキエル40-47章)[1]に記された完全な姿と美しさを備えるようになります。
神殿そのものが一種の宮殿です。
(すなわち、ヘブル語のヘイカル(הֵיכָל/heykhal)は「神殿」または「宮殿」を意味します)
それは、至聖所の契約の箱が、御座(および戦車)[2]の象徴であるのと同様です。
さらに、忘れてはならないことに、反キリストは、まさに「自分が神だと宣言して」、
実際に神の神殿に「座を設け」ます。(第二テサロニケ2章4節)
これらの事実と、シェキナの栄光が神殿へ戻ることを合わせて考えるなら、
私たちの主は確かに至聖所において御座に着かれ、(エゼキエル43章1-12節)
そこから世界を統治し、またその場所から唯一の真の信仰――
すなわち、世界の救い主としてのご自身への礼拝――を司られる、と考えるべきです。
その方は私に言われた、「人の子よ、ここはわたしの王座の場所、
わたしの足の裏の場所であり、わたしがイスラエルの子らの間に永遠に住む場所である。
(エゼキエル43章7節前半/NASB訳)
(12) その方は私に言われた、「万軍の主はこう言われる。
『見よ、一人の人がいる。その名は「若枝」である。
(すなわちメシヤ。イザヤ4章2節, 11章1節,53章2節;ゼカリヤ3章8節参照)
(ゼカリヤ6章12-13節参照)
千年王国の間に行われる神殿儀式は、第一・第二神殿の礼拝に似てはいますが、
一つの非常に重要な点において大きく異なっています。過去の動物犠牲や他の儀式は、
私たちの主の到来と、私たちのための十字架上の死を表し、それを前もって示す影でした。
しかし、それとは大きく対照的に、
千年王国の儀式は、主がすでに成し遂げられたことの記念となります。
(たとえば、エゼキエル39章13節によれば、
キリストが栄光を受けられる日は特別な「記念の日」となります)
へブル10章18節が語るように、キリストが十字架で私たちのために死なれた現実の後には、
「もはや罪のためのいけにえはない」からです。
したがって、これら千年王国の犠牲は、たとえ儀式的意味においてであっても、
何らかの贖いの手段となるのではありません。
むしろ、それらは一種の集団的「聖餐」として、イエスが私たちすべてのために
してくださったことを教え、思い起こさせる役割を果たします。
イエスは王の王として直接統治されますが、それでもなお、
人々が、かつて主が自分たちすべての罪のために死なれた苦難のしもべであったことを
覚えているのは有益です。
というのも、世界の統治者としてイエスを崇敬するだけでは救いはもたらされないからです。
福音への応答には、主が十字架において私たちの罪を洗い流してくださったことを
受け入れること、そして主を唯一の神人として認めることが依然として必要です。
この記念的目的(将来を予表することとは対照的なもの)は、
第二神殿が存在していた間には決して達成され得ませんでした。
なぜなら、主の復活後もそこで行われていた儀式は、モーセ律法の規定に従っていたからです。
そのため、それらは、主がすでに私たちの罪のために苦しみ、死なれた後でさえ、
なお「神の子を再び十字架につけること」(へブル6章6節)を続けていたのであり、
それらに参与することは恐るべき冒涜となっていました。
(そのため、エルサレムの信者たちはへブル書において厳しく叱責されています)
私たちの主が直接そこにおられ、実際に神殿で王座に着いておられる以上、
千年王国の犠牲と儀式の意味は、それがまさに何であるか――
すなわち、これから来るものの影ではなく、主の十字架の御業の記念である――
ということが、完全に明らかになるに違いありません。
この意味の違いは、モーセの律法と千年王国の神殿儀式との間に、
重要でありながら幾分微妙な手続き上の違いも生み出します。
千年王国の神殿には契約の箱は存在しません。
それは間違いなく、イエスが、契約の箱と贖罪日における犠牲が前もって示していたすべてを、
すでに成就されたからです。
(エレミヤ3章16節参照)
また、千年王国における動物の犠牲の制度には違いがあります。
それは、旧約の前方を見据えた教訓とは対照的に、
その未来の実践の記念的側面を反映するものです。朝の犠牲としては一匹の小羊だけが献げられます。それは、キリストの統治が体現する「新しい日」を表しています。
一方、夕方の犠牲はもはや必要ありません。
信じる者たちにとって、すべての裁きがすでに過ぎ去ったからです。(エゼキエル46章13-15節)
さらに重要なのは、異邦人たちも今やこの礼拝に加えられるということです。
これは、彼らが神の家族に完全に加えられたことを表しています。
(イザヤ56章3-8節;エゼキエル45章13節-46章; 詩篇106篇4-5節;イザヤ60章7節参照)
十字架によって敵意は取り除かれたからです。(エペソ2章15-16節)
実際、たとえば仮庵の祭りは、世界中のすべての民が代表者を送ることを求められる祭りとなります。
そしてまた、自分を主の従者と考えるすべての者たちが、
年に一度エルサレムで主の前に集まることを望むと考えるのも自然です。
(イザヤ19章18-20節,66章23-24節; 古代イスラエルにおける「年に三度」――出エジプト23章14-17節参照)
その日、わたしはダビデの倒れた仮庵を再び立て直し、その破れを修復する。
踏み荒らされたものも再び立て直し、昔の日のようにこれを建て直す。
それは、人類の残りの者たちと、わたしの名で呼ばれるすべての異邦の国々とが、
主を求めるためである。このことを成し遂げる主のことばである。
この点において仮庵の祭りが重要なのは、それがメシヤの千年王国を指し示す祭りだからです。(というのも、イスラエル人たちは、その地に再び入る時、約束の地に入った最初の世代がそうしたように、「仮庵」に住むことになるからです)
したがって、この祭りは、メシヤの統治の記念であり祝賀となります。
(また、イスラエルの地への帰還の記念でもあります――神がこの点に関するご自身のすべての約束を彼らに対して成就されたからです)
他の国々に関して言えば、この祭りに代表者を送らないことは重大な違反行為となります。
なぜなら、その欠席によって、実質的には彼らが王の統治を喜ばしく思っていないことを
(16) その時、エルサレムを攻めに来たすべての国々のうち、生き残った者たちは皆、
万軍の主なる王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために、年ごとに上って来る。
(17) 地上の諸民族のうち、
万軍の主なる王を礼拝するためにエルサレムへ上って来ない者たちには、雨が降らない。
(ゼカリヤ14章16-19節/NIV訳参照)
[1] ゼカリヤ6章12-13節の預言(すぐ下に引用されている箇所)は、私たちの主が再臨される時に、神殿が存在していないことを前提としているわけではありません。
むしろ、この場合、ヘブル語のバーナー(בָּנָה/banah)という動詞は、そのような装飾・整備の過程を示しています。
すなわち、メシアはそれを「一から建てる」のではなく、「建て上げる」ということです。詩篇147篇2節における同じ動詞バーナー(בָּנָה/banah)の用法と比較してください。
「主はエルサレムを建て上げ、イスラエルの追いやられた者たちを集められる。」(詩篇147篇2節/NIV訳)この箇所では、明らかに、エルサレムはすでに存在している状態で、
このように美しく整えられているのです。
[2] 契約の箱が、神の王座と戦車の両方を象徴していることについては、『来たる艱難期』第2B部、I.1.2.b.「御座」を参照してください。
<37>に続く![]()
今日もありがとう~![]()




