(ひとしずく・「質問と答え」<Q&A-1> )~艱難期前夜における政治と政治活動 ~ | sarah‐mercy

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「質問と答え」<Q&A-1(ロバート・D・ルギンビル博士著)の抜粋翻訳 

艱難期前夜における政治と政治活動 

https://ichthys.com/mail-politics-political-action-tribulation.htm 

 

質問 #3:

 <略> 結論: 

神は悪い指導者を任命するのでしょうか。どうやらそう見えるかもしれません。

これは神の存在を否定する証拠ではありませんが、

いくつかの矛盾を示しているように見えます。

神は善なるお方でありながら悪い指導者を生み出し、人々に善を命じながら悪を行わせ、

罪のない人が苦しみ、暴君が勝利することを許しているように見えるからです。

もし神が存在しないなら、私たちは単に民主的に指導者を選んでいるだけです。

そして一部の指導者は弱者を搾取します。

それは自然界でもよく見られる現象であり、

強い者が弱い者を利用して自分の力を強めるのです。 

 

回答 #3: 

神は完全なお方であり、その計画も完全です。世界の歴史の中で起こったすべての出来事、

そしてこれから起こるすべての出来事は、神がそれを定めておられるからこそ起こるのです。

ではなぜ神はこのような歴史を定められたのでしょうか。

それは、救われる者すべての救いのため、神に応答する者の霊的成長のため、

そして他のすべての人にも可能な限り救いの機会を与えるためです。

また、もし彼らが救われないなら、それは神を拒んだからであることを明らかにするためです。

この人生で起こる他の出来事は、すべて背景にすぎません。

必要な背景ではありますが、あくまで背景にすぎないのです。 

 

 この世界と、その中にある万物とを造った神は、天地の主であるのだから、

 手で造った宮などにはお住みにならない。

 また、何か不足でもしておるかのように、人の手によって仕えられる必要もない。-----

(使徒行伝17章24–27節参照)

 

サタンは、人々の間のすべての区別を取り除き、

一つの世界国家を作ることによって信仰と真理を消し去ろうとしました。

それがバベルの塔です。しかし神の解決は、人類を言語と国家によって分けることでした。

こうして一人の悪人や一つの悪の運動が世界を完全に支配することができないようにされたのです。

これは人間がイエス・キリストによる救いを自由に選べるようにするためでした。

同じ理由で、神は秩序と法律を与えておられます。これは自由を守るためです。

しかし艱難期にはこれらの制度は取り除かれ、反キリストが世界を支配します。

そのとき世界は一つの国家となり、真の神を礼拝することは違法になります。

そして多くの信者が殉教することになります。艱難期の世界は、

人類史上最も邪悪な時代になるでしょう。

ただし例外があります。それは教会の三分の二がイエス・キリストに忠実であり続けることです。 

 

義は国を高く上げるが 、罪は民の恥である。 

(箴言14章34節) 

 

したがって、世界がこれまでで最悪の政府を受けるのは驚くことではありません。

それが(反キリスト)の支配です。歴史の中でも、ある程度この原則を見ることができます。

人々は自分たちにふさわしい政府を受けるのです。

もし国民が謙遜で道徳的で秩序を重んじるなら、

良い政府が与えられる可能性があります。もし国民が高慢で不道徳で神に敵対しているなら、

神は彼らにふさわしい政府を与えられるでしょう。 

しかしこれらの問題の解決は政治ではありません。唯一の解決は霊的なものです。

国民が腐敗しているなら、良い政治家を選んでも何も変わりません。

変化は個人の心から始まります。

信者ができる唯一のことは、神に献身し、

イエス・キリストに仕え、御言葉を学び、信じ、実践し、

他の人を助けることです。つまり国のための「塩」となることです。

信者が多く、しかも忠実である国ほど祝福されます。

神は無能な指導者の下でも国を祝福することができますし、

天才的な指導者の下でも国を呪うことができます。

ですから信者が政治に深く関わるのは悲しいことです。

もしその時間を霊的成長に使うなら、その国は祝福されるでしょう。 

この世界で起こっていることは、目に見える通りではありません。

本当に重要なのは霊的な次元です。

千年王国では、世界は史上最高の政府を経験します。

イエス・キリストご自身がエルサレムから統治されるからです。

しかしそれでも人々は満足しません。千年の終わりにサタンが解放されると、

彼は世界の大多数を反乱に導くことができるのです。その反乱はすぐに滅ぼされます。

ですからキリスト者は、指導者について過度に心配する必要はありません。

むしろ誰であっても彼らのために祈るべきです。第一テモテ2章1–2節

私たちが見るべきなのは、私たちの真の指導者、救いの君であるイエス・キリストです。

地上の政治はこの世の人々に任せ、私たちは主に従うべきです。

主イエスの再臨を待ち望みながら。 

ボブ・L. 

 

質問 #4: 

ある有名な福音主義の指導者の主張に対する、ルギンビル博士の見解を求められて<略>: 

 

回答 #4: 

イクシスIchthysの読者であれば、私自身の立場が政治とは関わらないことであるのを

よくご存じだと思います。

私の考えでは、キリスト者(指導者であれ誰であれ)が自分の国の状況が悪いと思うなら、

助けることができるのは神だけであると理解すべきです。神は誰を助けられるのでしょうか。

それは確かに「恵みによる選びの残りの者」(ローマ11章5節)

存在する国民や国家を助けられます。 

では、物事を変える最良の方法は何でしょうか。最良の方法、そして唯一の真の方法は、

すべての信者が主を第一に置き、

霊的成長、霊的前進、そしてイエス・キリストのための霊的働きを始めることです。

これこそが違いを生み出すものです。政治活動は何も成しません。 

 

一般的に言って、国や民族や社会は、指導者という点でも全体の状況という点でも、

自分たちにふさわしいものを受けるのです。神は義なる者を祝福されますが、

神を必要としない者は祝福を期待すべきではありません。 

私がキリスト者が政治や社会運動を用いて「物事を変えよう」

とすることに問題を感じる最大の理由は、

それがパリサイ人のやり方に似ているからです。

すなわち、外側を白く塗れば内側も変わるかのように考えることです。

しかし信者が内側から変わる必要があるのと同じように、

国や民族もまた内側から変わる必要があります。 

1920年代の禁酒法がこの国で真の道徳的変化をもたらさなかったのと同じように、

今日のどのような政治運動や社会運動でも同じことです。

私たちは外面的な行動や制度を多少変えることはできるかもしれませんが、

強制されて従う人々の心を変えることはできません。 

人を変えることができるのは神だけです。しかも、その人が変わることを望むときだけです。

もしこの国で「社会福音」を掲げる左派のクリスチャンや、

「家族の価値の政治」を掲げる右派のクリスチャンが、

その時間とエネルギーを主とその真理を求めることに使ったなら、

驚くべき祝福と真のリバイバルが起こるだろうと私は思います。 

私の理解では、政治活動や社会運動への熱心さは、しばしばクリスチャンが退屈して

「何かすること」を探しているときに起こります。

つまり本来すべきこと――霊的に成長し、他の人も同じように助けること――

をしていないということです。 

 

私は個々の兄弟姉妹を批判するつもりはありません。

不信者の注意を引くために、時に論争的な発言や行動をする働きが

個人的な召しとして存在する可能性はあります。

また、公の場で信仰を弁護するよう神に召されている信者もいるかもしれません。 

しかし一般のキリスト者にとっては、このような活動に関わることは有益ではなく、

むしろ本来の働きから完全に注意をそらしてしまうものです。

私たちは主の解決を信頼すべきであり、

明らかに自分たちの力ではどうにもできない分野で、

自分たちの解決策を作り出そうとすべきではありません。 

この問題について参考になるリンクを挙げておきます。 

Political Action versus Biblical Christianity 

Christians should stay our of politics 

What does the Bible say about War, History, and Politics? 

Politics and Christian involvement 

Stay out of Politics 

Obeying constituted authority 

私たちの主であり救い主であるイエス・キリストにあって 

ボブ・L. 

 

質問 #17: ロバート兄弟へ 

ここに至るまで少し時間がかかりましたが、艱難期と大艱難期について、

ついに心と霊の中で整理がつきました。

祈りの時間と学びの時間を増やそうとしています。また礼拝のために、

できる限り多くの詩篇を暗唱しようともしています。

これからの一年(主のみこころならば)、毎日少なくとも三時間は学びと祈りに費やすつもりです。

また、定期的に断食も再び始めようと思っています。

現在、あなたの「艱難期シリーズ」全体を学んでおり、

その後に「サタンの反乱」をもう一度学ぶ予定です。

将来起こる出来事に対するすべての恐れを追い払うために、

あなたはどのように祈っておられるのか教えていただけますか。

主にあってあなたを愛しています!あなたの賢明な助言を楽しみにしています。 

 

回答 #17: 

お便りをいただけてうれしく思います。

終末について真剣に学び、あなたのように十分に研究を重ねた人が、

これから困難な時代が急速に近づいていること、

そして私たち自身もそれを耐え忍ぶよう召される可能性があることを

理解すると、これから来る苦難の大きさを思って圧倒される気持ちになるのはよく分かります。

しかしもちろん、恐れはふさわしいものではありません。

なぜなら、私たちの主がこれから私たちが直面するあらゆることに対して

十分なお方であることを知っているからです。 

 

たとえ死の陰の谷を歩むとしても、 

私はわざわいを恐れません。 ----

詩篇23篇4節参照) 

 

おそらくそのためでしょう。私たちの多くが、

今すでに絶え間ない「死の暗い谷」を歩いているように感じているのは。

これは、苦しみ、困難、脅威に対処することに慣れるためであり、

これらは艱難期にはさらに激しくなるからです。 

出エジプトのときのイスラエルの民は、いくつかの例外を除けば、

後の出来事からも分かるように霊的な巨人ではありませんでした。

しかし十の災いの間、また紅海でパロの軍隊に追われたとき、

彼らの心の中がどうであったにせよ、

主が彼らをまったく害なく救い出されたことは明らかです。

出エジプト艱難期の予型であり(そしてパロは反キリストの予型です)

ですから主がイスラエルの民を守られたように、

主が私たちを守ってくださると結論づけることは正当です。その理由だけでも――

すなわち主とその摂理に対する信仰だけでも――私たちには恐れる理由はまったくありません。

これはもちろん「小さな信仰」の話ではなく、強く成熟した信仰の話です。

疑い、恐れ、不安、心配に対する解決はいつも同じです。

すなわち、ますます強い信仰を育て、それを正しく用いることを学び、

そしてそれを日々継続して実践することです。

今私たちに臨んでいる試練や困難は、もしそれが御言葉を学び信じ、

それを実際の試練に積極的に適用する霊的成長と結びつくなら、

これから起こるどんなことに対しても十分な備えとなるでしょう。 

 

そのことを思って、今しばらくのあいだは、

さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、

あなたがたは大いに喜んでいる。----

第一ペテロ1章6–7節参照) 

 

結局のところ、問題は神ではありません。

主がイスラエルの民をどのように守られたかを私たちは見ていますし、

主に属する者、特にイエス・キリストと共に歩む者を、

神が常に守ってこられたことも見ています。

問題は私たちです。

つまり、私たちがその守りを信じて受け入れ、死の谷のどの暗い場所においても

主を信頼することができるかどうかという点です。

私たちはおそらく艱難期を「楽しむ」ことはないでしょう。

しかし、神の力と、生ける御言葉である救い主イエス・キリストの真理によって、

その試練の日々を乗り越えることを期待することは、決して間違いではありません。

そのように備え、最後まで忠実に歩む者には、主を栄光に輝かせ、

永遠にわたる最高の報いを受ける機会が与えられます。

私たちが主の再臨を自分の目で見る場合でも、あるいはの手によって殉教することで

主の栄光を表すよう選ばれる場合でも、それは同じです。 

 

 信仰によって、彼(モーセ)は王の憤りをも恐れず、エジプトを立ち去った。

  彼は、見えないかたを見ているようにして、忍びとおした。

ヘブル11章27節) 

 

ですから私の助言はいつも同じです。成長し続けてください。前進し続けてください。

そして主が導かれるところで仕えることを求め続けてください。具体的な方法は信者ごと、

状況ごとに異なります。

しかし「成長・前進・奉仕」という戦略はすべての信者に共通です。

私たちの内面がそれぞれ違うように、

祈りの生活も人によって違います。

しかしあなたが問題を理解し、聖書的にそれを解決しようと

真剣に取り組んでいることを見るなら、

あなたの祈りはきっと神に受け入れられるものになるでしょう。 

ですから戦い続けてください。

イエス・キリストはすでに最大の勝利を勝ち取られました。

私たちはただ塹壕の中で持ちこたえ、主が来て王冠を受け取られるのを待っているのです。 

 

祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、

わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。

(テトス2章13節) 

 

私たちが命よりも愛するお方、私たちの主であり救い主イエス・キリストにあって。

ボブ・L. 

 

質問 #20: 

教授、こんにちは。今とても困惑しています。私が心配しているのはただ一つ、

艱難期に備えて家族をどのように

準備させるべきなのかということです。食料や弾薬を備蓄すべきでしょうか。

それとも何もしないべきでしょうか。

何もしなければ、略奪者や兵士によって妻や娘たちがレイプされ、

殺されるような状況にさらすことになるのでしょうか。

聖書は、私たちが何をすべきかについて明確な指示を与えているのでしょうか。

敬具。主にある忠実な兄弟より。主の祝福がありますように。 

 

回答 #20: 

これは難しい一連の質問ですが、結局のところすべて同じ一つの問いに行き着きます。

すなわち、信者は艱難期にどのように行動すべきなのかということです。

結局のところ、これから先に来る暗い日々において価値あるものとして

頼ることのできる唯一の備えは、霊的備えです。

また、これらすべての悪いことが必ず私たちや私たちの愛する者に起こると、

前もって決めつけることは避けるべきでしょう。

(たとえば、出エジプトのときに主がイスラエルの子らをどのように守られたかを見てください)。

むしろ、神が私たちにどのように行動することを望んでおられるのかを考えるべきです。

もし神が私たちに物理的な戦いをするよう望まれるなら、私たちはそうすべきです。

もし神が、純粋に霊的な方法で戦うことを望まれるなら、私たちはそのようにすべきです。

何が起ころうとも、神は確かに私たちを守ることがおできになります。

反対に、どれほど勇気や備え、

あるいは武器を持っていたとしても、神のみこころがそのとおりに実現するのを、

決して食い止めることはできません。 

 

主に敵しては、 知恵も、さとりも、はかりごとも、 

何一つ成功することはできない。 

(箴言21章30節) 

 

これは、不信者が私たちを攻撃する場合にも当てはまります。

また、恐れ(あるいはその他の誤った動機)から間違った方法で行動しようとする場合の

私たち自身にも当てはまります。

エリヤはイゼベルから逃げました――そしてそれは彼の生涯で最大の過ちでした。

彼にはそれを償う機会があります。(艱難期の二人の証人の一人として)

しかし私たちにはおそらくそのような機会はないでしょう。

したがって、さまざまな状況には、

それぞれ異なる神からの適用が求められるということを理解することが重要です。

伝道者の書3章1-8節ルカ22章35-36節

そして神の御言葉に従って自分の進む道を定めるべきです。次のリンクでは、

この問題について具体的に論じています。 

 

・艱難期の行動規範(CT 7) 

・艱難期のための行動規範 

・艱難期におけるクリスチャンの行動 

・「行動規範」要約<来たる艱難期第四部「大艱難期」A5版196-204頁> 

・艱難期:その時期、備え、そしてその状況 

・艱難期への備え 

 

「バビロンから逃げよ」ということについてですが、

はい、私は、終末論的バビロンである可能性が

最も高い場所に住んでいる私たちは、世界の多くの地域には存在しないある程度の保護を

受けることになると固く信じています。

また、適切な時に逃げよという命令に従うなら、私たちが生き残り、

主の再臨を見る者たちの中に含まれることが、

神のみこころである可能性も十分にあると思います。

上のリンクを参照してください。

しかしそれでも、真の教会の三分の一が殉教することになっている以上、

私たちは主が私たちに備えておられるどのようなことにも備えていなければなりません。

そして、もしそれが主の選ばれることであるなら、

主をこのようにしてあがめることを許されることほど、

私たちの信仰にとって大きな誉れはないということを知っていなければなりません。 

 

私たちの愛する主イエスのうちにあって。その再臨を私たちは息を詰めて待ち望んでいます。 

ボブ・L 

 

<Q&A-2>に続く下差し

 

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今日もありがとう~ラブラブ