(ひとしずく・どうして疑うのか?)ギボウシの花が咲いたよ | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

~友人からのメール~

 

どうして疑うのか?

 

聖書には、「わたしは主であって、いやす者である」(出エジプト15章26節)

とありますが、その御手を動かすのは、多くの場合、私たちの信仰にかかっています。

 それは病をかかえた者の信仰、それとその人のためにとりなす者たちの信仰です。

 

 「信仰が無くては神に喜ばれることはできない」(へブル11章6節)

 

主は、水の上を歩き始めたペテロが波を見て沈み始めた時、

「どうして疑ったのか」(マタイ14章31節参照)と言われました。

また嵐で舟が沈みそうになり、弟子たちが慌てふためき、「私たちは死にそうです」と叫んで、

眠っているイエスを起こした時、「どうして信仰がないのか?」(マルコ4章40節参照)と言われました。

ヤコブの手紙には、

 「疑う者は海の波に似ていて、そのような者は、二心であって

 神から何かを受けることができると思ってはならない」(ヤコブ1:6~8参照)と書いてあります。

神の約束を疑うという病は、私たちが簡単にかかってしまうものです。

 

悪魔は、神の愛情深く誠実な御性質を人に疑わせ、信じる心を汚そうとします。

悪魔は、私たちが希望がなく惨めな人生を生きるように定められていると思い込ませようとします。

神などいない、いるとしたら意地悪な神で、愛などひとかけらもないと思わせるのです。

アダムとイヴに神を疑わせて背かせたのは悪魔でした。

私たちは、この悪魔に敵対して霊の戦いをしています。

祈る時、この悪魔に敵対して信仰の宣言をします。

信じる者としての立場を明確にし、悪魔の邪悪さと狡猾さを暴露し、叱責します。

 

私たちが神に従って、信仰の歩みをしようとする時、

敵がやすやすと長い間占領していた領域を明け渡すでしょうか?

「そうですか、わかりました。では私は退散するとします」と、悪霊がそれまで、神に従わないように、

また神を疑わせようと、人を操っていた居心地良い住まいをやすやすと明け渡すでしょうか?

 

主を信じ、主に従うと決意した時から、霊の戦い、信仰の戦いは始まっているのです。

悪魔に敵対し始めたら、そこから悪魔との激戦が始まるのです。

私たちは、猛烈に戦わなければなりません。

敵がぎゃふんと言って逃げ出すまで。

そして領地を獲得したら、敵が帰ってこようとしても、「お前の場所はここにはない!」

ときっぱり宣言して、防御すると同時に戦闘体制でいる必要があるのです。

 

神がおられると同じように、悪魔は存在しています。

そうでなければ、聖書が幾度も悪魔のことを言っているのはどうしてでしょうか?

しかし、所詮悪魔は堕天使のひとり、元々神に造られた被造物に過ぎません。

創造者と被造物など比較の対象になりません。

この創造者であるイエス様は、人にとり憑いた悪魔を追い出されました。

そして今、イエス様を信じる私たちにも、悪魔を追い出す権威が与えられているのです。

 

 悪魔に立ち向いなさい!、そうしたら彼はあなたがたから逃げ去るであろう。

                                               (ヤコブ4章7節)

 

悪魔の最終的ゴールは、私たちの体を損なったり、物を破壊したり、

お互いを仲たがいをさせることではありません。

それらは策略の一つです。

悪魔のゴールは、それらを用いて人に神を疑わせ、不信仰にさせ、神に背かせ呪わせることです。

悪魔自身がそのような背く者であったので、人間も皆、道連れにしたいのです。

そして、そのために悪魔は人に嘘を吹き込みます。

しかも、その嘘を人が信じやすいように、少しの真実を混ぜて話します。

そして、その悪魔の嘘を信じた人は、ついには悪魔の口となって神を批判し、神を呪うようになるのです。

 

私たちの戦いは、信仰を守り保つために、この悪魔の目的を阻止することです。

そして、状況がどんなに最悪に見えても、神の愛を疑わず、

神を讃えることによって、悪魔を攻撃することです。

信じて疑わない断固たる態度をとる時、賛美の態度を持ち続ける時、

私たちは最高の神の御心を行っています。

「神がこれこれしてくれたら、信じます、仕えます」という態度や、

状況が悪くなると恐れたりつぶやいたりする態度は、悪魔に大きな隙を与えてしまいます。

 

どうして状況が大変な時にこそ、賛美し、信仰の立場を保持するために戦い、

神に栄光を与えないのでしょうか?

神が自分の思い通りにしてくれないなら、神の愛を信じられないのでしょうか?

神と取引をしようとでもしているのでしょうか

思い出してください。

取引はすでになされています。

そして、すでに神は最高の愛を私たちに示してくださっています。

イエス様は私たちのために命を捧げてくださいました。

そして、私たちは、イエス・キリストの十字架のあがないによって罪を赦していただいた時、

もうこの心も体も神にささげたのです。

イエス・キリストが死んだのは、すべての者が、古い自分が彼と共に死んで、彼にあって生きるためです。

イエスが神の子羊であるということは、彼が私たちの身代わりとして、

私たちの罪を背負ってくださったのです。

そして彼と新しい契約が結ばれました。

生きているのは、私ではなくキリストです。と証言しているのです。

そしてそのように生きるべきです。

 

 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。

 あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。

 それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

                                  (ローマ人への手紙 12章1節)

 

 

神は私たちがそうした信仰の立場をとることで、栄光を受けられます。

神は、私たちが何をしているかではなく、心を見られます。信じているか疑っているかを見られます。

悪魔が吹き込む恐れによって、あなたの心に脚本を書き上げてはいけません。

それは神の書かれるシナリオではありません。

悪魔はあなたが神の言葉よりも悪魔の嘘を受け入れやすいというそのあなたの不信仰につけ入り、

あなたを恐怖と絶望へと陥れているのです。

あなたの心に来る思いが、神の言葉に反していたら、

また神を疑うようなものであるなら、今すぐ跳ねのけるべきです。

私たちは疑って滅びる者ではなく、信じて約束の地に入る者です。

 

イエスは、ある村ではほとんど奇跡を行えませんでした。

それはその地の者たちが不信仰のゆえに、疑いに満ちていたからです。

あなたの不信仰で神の手を縛るようなことがあってはなりません。

また、癒しなどの奇跡があり、悪霊が立ち去っても、

その魂の弱さを知っている悪霊はまた戻って来て、そこにつけ込んできます。

ですから、自分がどこでこの悪霊に機会を与えてしまっているのか、

自分はどんなところで付け込まれるのかをよく知る必要があると思います。

そうすればいつも警戒していられるし、悪魔の策略にもすぐ気づいてやっつけることができるからです。

 

私たちは、心を静めて、神がいかに愛ある方であるか考えてみる必要があると思います。

もっと神の御前に静まり、神と交わる時間をとるべきです。

主は直接私たちの心に語り掛けようとしています。

天地を造られた方は、私たちの魂を造られた方でもあります。

私たちの魂、それは天地よりも尊いものです。

天地は滅びても、永遠の命を与えられた私たちは、

いつまでも主と共に生きるという神の御計画があるのです。

そのために犠牲を払われた神のことを考えてみましょう。

私たちのために、御自分の命さえ与えられるほどに愛してくださる神、この方のことを思うなら、

感謝と愛であふれてくるではないでしょうか?

主は、私たちがもっと神の心に思いを向けるように、空の鳥や野の花から学びなさいとさえ言われました。

私たちを生かしているのは神です。

そして神の愛の御計画が一人ひとりのために備えられています。

それは、神聖な尊い御計画なのです。

 

 

 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。

 それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、

 あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。

                                   (エレミヤ29章11節)

 

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右差しhttp://www.kyusokutoiyashi.com/movie/ (ムービー&ミュージック/休息と癒しより)

 

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「どうして疑うのか?」

そう聞かれても、疑ってしまうのが、弱い私たちなのです

”願い”はするけど、信仰が薄いので、簡単に”疑って”しまうのです

状況が悪くなると、簡単に疑ってしまうのです

 

疑いに満ちた村では、イエス様は殆ど奇跡を起こすことをしませんでした

どんな奇跡を起こすこともできるイエス様でも、

無理やり、押しつけがましく、奇跡を起こすことはされませんでした

”しるしを見ないと信じない”と言う人は、結局、”見ても信じない”からです

 

”疑い”の隙に入り込んで、悪魔はもっと沢山の”嘘”を吹き込んで、最後には

「神などいない。愛なんてない。」 そう言わせてしまうのです

 

悪魔の一番嫌いなことは何か知っていますか?

神さまの愛を疑わず、心から喜んで賛美することなんですって!

どんな状況にあったとしても!

 

どうぞ、いつも喜んでいることが出来るように

イエスさま、助けてください

 

 

 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。

 疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。

  そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。

  そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

                                            (ヤコブ1:6~8)

 

 

感謝します

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ももちゃん、そろそろ雨が降ってくるね…              室温28℃・・涼しい・・・・

 

 

 

 

 

 

ギボウシの花がやっと咲いたアップ

2年待って「もう咲かないんじゃない?」って疑いそうになったけど

信じて待ってて良かった音譜  三度目(3年目)の正直だね

今日もありがとう~ラブラブ