そういった感想の中で、「アイドルというものは、必ず内面が捨てられるものなのですか。内面込みで人気があるアイドルはいないのですか」というものがあった。
本題に入る前に、繰り返しになるが、女性アイドルの成立の仕方を簡単に説明する。
基本公式は、透明感のある外見に、ファンが自分の理想の内面を入れるというものである。だから、ファンにとっては中身がなく「空っぽ」なほど都合が良く、あたかも自我がないかのような印象な人アイドルほど普遍的な人気を獲得しやすい。
では、アイドルは、内面を常に捨象されなければならないものなのだろうか。
むろんそうとは限らない。ファンが許容できる内面であればもちろんあっても困らない。ただし、アイドルの場合、そこに必要なのは「未熟な内面」である。未熟だからこそ、ファンは応援しようという思えるものだ。究極の未熟が「透明」であって、ようは、未完成であることは必須である。
精神的に、そしてそれに伴って外見的にも未成熟であることが女性アイドルの必要条件である。
アイドルを売り出すほうはそのことをよく知っていて、「この部分は出さないほうがいいだろう」というところは徹底的に隠す。出していいのは、ファンがアイドルという器に自分の理想を入れるときに邪魔にならない程度の内面、決してファンの思いを脅かすことがないような情報である。
だが、アイドルになりたい女の子がすべて未熟な内面を抱えているとは限らない。アイドルになりたい女の子は日本中に莫大な数がいる。その中で外見に自信があって、周りも「アイドルになれる」という女の子がアイドルになろうとするが、その数もとんでもない数である。
そんな苛烈な競争を勝ち抜いていなければならない状況では、自立心が強い女の子も多いはずだ。少なくとも簡単にはへこたれない我の強さが最低限、必要である。
トップアイドルであるためには、外見に恵まれているだけでなく、強烈な負けず嫌い、ひといちばい強靱な精神力がなければならない。そのためにも、我の強さと自己顕示欲は必須である。
つまり、アイドルとは、強烈な自我が持ちながら、あたかも自我がないかのように振る舞う透明感のある外見をした女の子のことである。それは一種の矛楯であるが、トップアイドルになるには、その矛楯を抱え込みながら活動する宿命にある。
アイドルが強い自我を見せてしまえば、見る者にはそれを過剰に感じる。やがてファンを止めるものが続出し、トップアイドルから引き下ろされることことになる。とくに、男性ファンの多くが脱落するはずである。
では、そういった内面を見せながらアイドルをやっている女性タレントはいないのだろうか。自分ではすぐに思いつかなかったので、何人かの知り合いの女性に聞いてみたのだが、「もしかしたらベッキーがそうかも」と言って、なるほどと思った。
たしかに、ベッキーさんは剛力彩芽さんと比較するのにちょうど良い素材だ。
前回述べたように剛力さんがそのやや険の立つ外見のみで叩かれているのに、同じように日本のアイドル好きが好む外見ではないベッキーさんは、いろんなことが「許されている」という印象がある。
では、具体的に何が許されているというのだろうか。
簡単に言えば「自己主張」である。もし剛力さんが我を出して自己主張をしたら、おそらく今以上にバッシングにあうかもしれない。だが、ベッキーさんはそれが許されていて、わりと自由奔放に自分の意見が言えているからである(もし、自らの恋愛話まで自由に許されたら、その人は不動のトップアイドルか、脱アイドルして女優やアーティストになったか、あるいは日本的アイドルのあり方を勘違いしているかのどれかである)。
では、両者で何が違うのか。
Wikipediaなどによると、ベッキーさんのデビューは14歳のときだったそうだが、その後、学校にちゃんと通って、亜細亜大学経営学部を卒業している。学費も自分で払っている。経営学をやったのは、将来、自分の店を持ちたいからだそうだ。
彼女の場合、内面を出すことが見ている側に許される育ちの良さがあるのだろう。つまり、世間的にも「良い子」と認識されているということになる。
だが、もっと重要な点がある。それは、彼女がイギリス人のハーフで、外見が通常の日本人(アイドル)と違っている点だ。
日本人はアメリカコンプレックスに起因する、プロトタイプ的な白人への弱さを伝統的に抱えている。だから、彼女が画面でいかに奔放に振る舞ってもその外見で許されやすいものである。たとえば、タレントのローラさんはどんな大物に対しても「ため口」が許されるが、それは彼女の外見が大きいのだろう。極論すれば、ため口が許されるのは、彼女が日本人扱いされていないからだ。
また、ベッキーさんは平均的な日本人女性より自立心が強く、その点でも、同世代前後、とくに同性にウケが良いはずである。女性の多くは女らしさを売りものにしている人があまり好きではなく、さばさばした印象のほうが受けるものである。
有吉弘行さんが、かつて彼女に「元気の押し売り」というあだ名をつけている。これは日本人が思い描く「外人的明るさ」を画面で演じていたことの反動だろう。この反動は、彼女を見る側が彼女を「外人」から「日本人」に見えてきたからだろう。
日本人に見える割合が増えるごとに、タレントとして許される範囲は狭まっていく。それまでの「自立した外人らしい明るさ」も、彼女が日本人に見えてくれば過剰に感じられてくる。
その過剰さを有吉さんは「押し売り」と鋭く表現したのだろう。
ところで、どんな人でも自分のことは複雑に、他人のことは単純に考える傾向がある。
たとえば、漫画の『美味しんぼう』では、主人公の勘違いから来た父親との確執がテーマになっていたが(今は知らないが)、そのくせ他人の確執は料理で毎回、簡単に片づけてしまう。
こういった「自分の確執は複雑で、他人の確執は単純」といった人間観は、ある意味、人間には必然的なものだろう。また、そうでないと、あの漫画があれほど長きにわたりウケている理由がわからない。主人公の立場に立てば、この浅薄な人間観も誰でも共有可能だ。
ベッキーさんも最初は単純に明るい女の子として見られてきたが、画面へ露出しつづけていくと、見る側も「このタレントは単純な人間ではない」と気づき(というか、どんな人間も単純ではない)、そこに「実は裏があるのでは」といった憶測を始めるものである。
これが、明るさで売っているタレントのひとつの曲がり角である。そんな人もその性格は複雑な多面体であって、この世に1つの性格で成り立っている単純な人間などいるはずもない。ベッキーさんの場合は、最初の「単純に明るい」という見方が間違っていたわけである。タレントはこのように単純化して見られるのが宿命だ。
タレントがどんなに内面をあからさまにしているようでも、結局はその一部を拡大しているだけのことである。彼女についても同様で、見ている側が自立心や自我をそのまま受け入れていたわけではなく、結局は、イメージに合うものだけを選び取っていただけに過ぎない。
彼女もおそらく単純化された見方から、だんだん「裏」を感じる見方をされるあたりにさしかかっているのではないだろうか。
叩こうと思えば、誰でも何が材料はあるもので、叩かれるかどうかは、結局、見るほうが叩こうと思っているかどうかだけの問題である。
私は彼女には何をやっても成功するような才覚を感じる。なぜ大学で経営学をやったのかがわかれば、彼女がどれだけ賢い人かは言うまでもないだろう。

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