倶楽部クミシュラン主宰 皆川公美子です。
わたしの親はどちらかといえば、ドクオヤと言われる部類かもしれません。
◯◯のことが大嫌いだと身内の名前を出し、
主張が誰にも理解されないと天にツバし、
子どもが挫折して一番ショックなことを何十年も責め続け、
人の話を聞き入れる余地などはもちろんなく、
除草剤のかかった果物を食べないと、ぜいたくだとののしります。
それでも親なので苦しみつつも
まともに押し引きをして格闘しながら七転八倒してきました。
先日も法人化するはなしをしていたら、
「そんなの倒産するに決まってる」となんども言われ、
身体中に切り傷をつくったような痛みとともに
帰ってきました。
そして数日たって傷がいえてきたときに思うのは、
【わたし、もう平気だな】
ということ。
怒るも悲しむも憎むも相当やりました。
それに蓋をしてきたこともたくさんあった。
平気なフリも、
逆に倒れて起き上がれないようなことも、
いままで何百回・何千回もやってきました。
それは親自身が受けてきた傷によってやっているのだ、ということも
恐れと不安に苛まれているのだということも、
理解できます。
わたしはこの両親によって
魂を磨く試練を課されているのだというごもっともな考えも、
逆にどうしたらこの人たちをこの過酷な「不安地獄」から救えるのかというあわれみも、
ああ、親と子として一度くらいお互い理解しているという実感がほしいという欲求も、
それに届かない無念も、
これはきっとわたしが作り出している現実なのだ!という自責の念も、
おもしろいほど、通ってきました。
わたしがすべて許して愛すれば、という解脱の状態を
自分に課する心の筋トレもありました。(笑)
そして自分の内側で膨大なことが起こって戦っているのに
そのすべてを口にださない、ということも
「美徳」としてやっていた時代もありました。
そういうの全部とおって今いるところは
「あ〜そうなんだね」
と淡々と流れを見るような
そんな感じ。
自分の感情が動くようなことがまったくない、
といえば嘘になるけれども
そこにある流れを「あるもの」として見ながら、
言いたい時は言う、
言いたくないときは言わない、
そして
それがどうあろうと
自分は自分の人生を精一杯使い切ろうと
今日もそう思うわけです。
そこにあるものは、
わたしには変えられない。
わたしができるのは、
わたしの人生を精一杯作る、ということだけ。
その結果、何かが両親に起こるかもしれないし、
起こらないかもしれない。
わたしが幸せにしている姿が目に入るかもしれないし、
はいらないかもしれない。
それらしい結論がほしい、というのも越えて、
ああ、そうなんだな。と
流れを見ています。
これを「すべて手放せた〜」とか
そういうことにもとらえていません。
わたしはまだまだ七転八倒するだろうし、
怒るし憎むし、地団駄ふむし、
でもそういうことがあっても
笑えるし、
今いる家族との幸せを感じて
感謝できるし、
かといって
妙に「解脱しました」的なところはきらいだし、
すべて流れだわ〜みたいな他人事まで行けないし、
そうやって、たいへんな山をのぼっておりて
のぼっておりて
ばーか自分。と思いながら
またのぼっておりるのでしょう。
過程にこそ、意味がある!
とかいう標語すら今の未熟なわたしは拒否して(笑)、
なるべく笑いながら生きていこうっと。
今日も楽しいことがいっぱいきますように。
いや、きます。(≡^∇^≡)

