とても興味深くも悲しい過去の話。
単なる県境(けんざかい)。
地図を開けば当たり前のようにひかれている都府県の境目。
しかしながら、この都府県の境目で、確定していない部分は未だに存在している。
こういった曖昧な場所ではどのような事が起こるか想像してみると興味深い。
警察権の行使。
地方税の徴収権。
様々な行政側の問題が生じる。
しかしそれを逆手に取り、ならず者集団がその場所に居座ったり、新興宗教が無法に信者を集めたり、と抜け穴を利用した犯罪にも利用されてきた。
長野県、愛知県、滋賀県、三重県などでよく聞かれた話だ。
しかし、その県境の確定までに、多くの命が奪われ、血みどろの争いが絶えなかったキナ臭い場所がひっそりと存在している。
地元民でもタブー視され、ほとんど語られる事無く、人々は必死にその歴史を忘れようと努力してきた。
しかし、その不自然な県境が、過去の凄惨な血で血を争う歴史を静かに物語っているところを紹介しよう。
諸事情により、イニシャルトークを勘弁いただきたい。
ME県とSG県の県境。
麓にはHONDAが世界に誇る著名なレース場がある。
動態保存されるMP4/4~MP4/6などが試験走行をする際、美しいV型エンジンの咆哮が山々に木霊して鮮やかな旋律を奏でる。
そう、その山々には木霊ならぬ、恐ろしい利権争いの歴史があった。
通常、県境は、分水嶺を基準にする一般的な原則 とは裏腹に、IS湾側のME県側が深く切り込んだ急斜面 となっている地形的特徴 や、中世から続く複雑な入会権(山林の利用権)が絡み合ったため、長い間境界が未確定のままであった。
境界確定までの歴史的経緯として、中世〜江戸時代の複雑な山論(やまあらそい)SZK山脈周辺では、尾根や谷筋を共有する両国の村々の間で、「薪の伐採権」や「秣(まぐさ)の採取権」を巡る激しい争いが多発ていた。
特にAC川 やSZK川 といった河川の水源地帯は、農業用水を必要とする下流の村々にとって死活問題であり、立会権(共有地)を巡る争いが絶えなかったようだ。
明治維新による混乱と府県統合明治4年の廃藩置県後、ME県とSG県(当時は犬上県など)が成立したが、正確な境界線は長らく定められずじまいだった。
この地域は江戸時代の名残で入り組んだ領地や入会地が存在していたため、近代的な測量が困難を極めていた。
内務省裁定による決着県境が未確定のままでは、行政や警察権に支障をきたすため、大正時代に入り内務省が正式な境界画定に乗り出す。
長年の慣習や現地の利用実態などを調査し、最終的にSZK山脈の尾根筋(分水界)を基本としつつも、村落の生活圏や歴史的な水利権を総合的に勘案して、現在の県境が一応決着している。
YKI市の智積養水 と、その水源を巡って上流の村(現在のME郡菰●町) との間で、凄惨な争いが繰り広げられた。
1. 水争いの背景として、「旱損所」と呼ばれた過酷な土地下流にある智●村は、古くから「旱損所(かんそんじょ)」(日照りですぐに干上がる場所)と呼ばれるほど水不足に苦しんだ地域だった。
川があっても水がなく、村の北側を流れる●滝川は、雨が降ってもすぐに水が地下へ潜ってしまう「水無し川(伏流水)」であり、農業用水として全く使えない。
上流の湧水に頼るしかないため、●積村は、約1.8km上流にある森村(現在の菰●町神森)の「蟹池(かにいけ)」から湧き出る清水を、人工の用水路で引いてくるしか生き残る道が無かった。
「命の奪い合い」となった凄惨な水論水の有無がそのまま農民の生死(餓死か否か)に直結した時代、わずかな水位の変動や天候不順によって、上流の森村と下流の智積村の間では、刃傷沙汰や激しい訴訟が繰り返された。
水路の決壊と人為的な妨害もあった。当時はコンクリートがない為、水路は土や石で固めただけであった。
大雨による崩壊だけでなく、水が欲しい上流の農民が「わざと水路を堰き止める・破壊する」といった行為が多発し、両村の農民が竹槍や鎌を手に入り乱れて衝突する事態が幾度も起きた。
10年間に及ぶ泥沼の裁判(安永・天明の水論)特に対立が激化したのが1777年(安永7年)から1786年(天明6年)にかけての10年間である。
M村と●積村の間で大規模な水論訴訟(裁判)が起こり、決着がつくまでの10年間、下流の智●村は極深刻な水不足に陥り、田畑が干上がって村全体が窮乏のどん底に叩き落とされる。
知恵と命がけのインフラ「三十三間筒」と「二分八分」繰り返される凄惨な争いを収めるため、先人たちは命がけの決断と、現代のエンジニアリングにも通じる驚くべき知恵で和解への道を模索する。
川の下をくぐる決死の導水路(三十三間筒):上流のKN池から智●村へ水を引く途中には、別の川(金渓川)が横切っている。
そのままでは水が混ざるか流されてしまうため、江戸時代の農民達は、「金渓川の川底の下に木製の土管を埋め込み、立体交差させて水を潜り抜けさせる」という驚異的な工事を行う。
これが「三十三間筒(さんじゅうさんけんづつ)」。
川底に潜っての命がけの維持管理作業も、水争いの火種を消すための必死の努力であった。
そして、血の滲むような妥協「二分八分」の裁定が行われる。
1853年(嘉永6年)の激しい水論の際、ようやく現代にも残る明確な分配ルールが明文化された。
水源からの水を「上流のM村が2割、下流の智●村が8割」の比率で分けるという約束である(二分八分の分水堰)。
ただし、大旱魃の際は「まず上流の田に水を満たし、その後に全水を下流へ流す」など、両者がお互いの命を全滅させないための、血の滲むような妥協のルールが作られた。
「用水」から、感謝の「養水」へこのように、先祖たちが時に血を流し、10年もの歳月を裁判に費やし、命がけで守り抜いた水だからこそ、地域の住民はこの水を単なる農業用の「用水」とは呼ばなかった。
「自分たちを養い、生かしてくれる恵みの水」という意味を込めて、感謝の念から「智積養●(ちしゃくよ●すい)」と書き表すようになったのだ。
「用水」ではなく、「養水」である。
戦後は一時的に生活排水で汚染されたものの、先祖の歴史を知る地域住民が「鯉の住める川にしよう」と一丸となって清掃活動(江戸時代から続く『藻たぐり』など)を行い、見事に清流を蘇らせる。
その結果、1985年には環境庁(当時)の「名水百選」に選定され、現在は美しい鯉が泳ぐ観光名所にまで変貌した。