ご当地シリーズ-滋賀県近江八幡市-
近江戦記(その1)

滋賀県近江八幡市の皆様、というより全国の佐々木さん、お待たせしました(笑)
 

 

1憶2千万人の日本人の姓氏の中で、ベスト13に入る天下の大族『佐々木氏』。

佐々木姓だけで300万人もいるそうだ(沙沙貴神社宮司さんから伺いましたが、やや過剰の様です)。

佐々木氏から派生した姓氏を入れれば1,000万人を下らないと言われている。三井氏、木村氏、黒田氏、高島氏、馬淵氏、乃木氏、尼子氏、堀部氏、山崎氏、富田氏、大原氏、古谷氏、坪内氏、門奈氏、などなど。

 

【著名な佐々木一族】

【郎希】
【尼子経久】

【黒田官兵衛】
【乃木希典】

【アムロ・レイ】
【チコちゃん】
 

佐々木氏発祥の地は、滋賀県近江八幡市の東端である旧蒲生郡安土町。

ですから佐々木姓の一番多い都道府県は滋賀県かと思いきや(笑)

一番多いのは広島県。特に安芸の宮島島民は半数以上が佐々木姓と言われるほど。これは戦国期に毛利氏に破れた尼子一族が元の佐々木姓に戻って広島県各地に帰農して土着したからではないか、と言われているそうです。全国の佐々木さんの1/3が住んでいるのでは?とする資料もある様です。


娘のお友達に尼子さんていらしたのですが、尼子姓を捨てなかった方も勿論おられます。

安芸の宮島に佐々木姓が大半を占めるのは、厳島神社の警護と関係ありそうで、昔から佐々木氏が警護に当たっていたことが要因のようです。

東北3県の佐々木さんは四兄弟の末裔だそうです。

茨城に多い佐々木さんは、京極氏の末裔の様ですから東北佐々木氏とはルーツが異なります。

完全な余談になりますが、福島県の会津若松の若松は、佐々木六角氏本家の近江日野若松の森の若松からとって命名されています。

個人的に疑問なのは、広島の佐々木さんも茨城の佐々木さんも、何故明治になってから佐々木姓に復姓したのでしょうかね。佐々木一族のアイデンティティは、他の氏族に比べて強固なのかも知れません。

佐々木の皆様ご承知の通り、佐々木氏のオリジナルな家紋は、四ツ目です。

 

しかし本家の佐々木六角氏のみ隅立四ツ目結という家紋を使います。


面白いエピソードがあって、江戸時代に信長に滅ぼされた佐々木六角氏は、名門佐々木氏嫡流として徳川の世には高家として崇められていました。現在でも佐々木六角氏嫡流の方は東京にお住まいで、沙沙貴神社の重大行事

 「近江源氏祭(全国佐々木会)」

という全国の佐々木さんが集まる大規模な祭りに、名誉顧問や最高ランク来賓として招かれます。
ちなみにこの方の本名姓氏は六角氏ではありません。

【六角精児】

凄いね。

こんなことやってるの佐々木さんだけじゃないでしょうか(笑)

あ、全国佐藤の会(栃木県佐野市)もありますね(笑)

江戸時代の佐々木さんは、我こそは佐々木氏本家と同じ家紋を!と真似して使い始めたそうですが、佐々木六角氏は全国の佐々木さんに、真似をすべからず、と御触れを出し(笑)、真似をさせなかったそうですが今でも隅立四ツ目結を家紋とする佐々木さんが多いのは、御触れが行き届いていない江戸期の事情ですね。その視点で家紋を見てみると面白いものです。

京極家のみ鶴のマーク(JALのマークですね)を使用しているのは、本家佐々木六角家との差異を明確にする目的で、異にしているようです。


話は戻って滋賀県近江八幡市安土町・・・

織田信長が安土城を築いたことで著名な場所。そう、楽市楽座もここにありました。
(厳密にいえば安土城の西半分が安土町になるので、東側は違うのですが・・・)

その麓に沙沙貴神社があり、安土山の対面にある巨大な丘山が、我が国最大級の山城である観音寺城址。

佐々木氏は発生から数代後に至ってこの近江の領地を失い、早々に関東に流れて静岡県三島市近辺に土着。

三島大社は佐々木氏の精神的支えとなったことで著名です。全国の佐々木さんの再起を謀った場所です。

 

その後、東国平氏による頼朝擁立に巻き込まれ、頼朝の軍勢の中で数少ない自称源氏勢として活躍した佐々木秀義の出現により、大家となる礎を築きました。
【佐々木秀義】
宇田源氏佐佐木、又は近江源氏佐佐木を名乗っていましたが、近年の研究では仮冒(嘘)である可能性が高いと言われています。つまり血縁としては残念ながら源氏ではありません。ごめん。

いずれにしても平安末期の東西合戦では、頼朝に味方した源氏の嫡流足利氏(こちらは本物)と同様に、貴重な東国の源氏勢でした。

皆様ご承知の通り石橋山合戦で四兄弟の火矢で東西合戦(旧呼称:源平合戦)が始まり、東国平氏を中心とした武士団に奉り上げられた頼朝が、1185年に鎌倉幕府を開いた、というのが日本の歴史です。

当時の武士たちは、源氏だ、平氏だ、というレッテル感覚は全くなく、基本的に自分たちの利権を誰が保証し、誰が脅かすか、だけしか考えていませんでしたので、源氏だから、平氏だからとバイアスが入ることは一切ありませんでした(源平の戦いという脚色は、近年の歴史の書き替えによって起こった嘘になります)。

これを13人衆と呼ばれる御家人による合議により調整していたのが鎌倉幕府の機能です。

ペンタゴナの13人衆のモデルですね。
もっと鎌倉の13人衆はもっと権力ありましたが。

佐々木秀義の貢献は大きく、全国各地に知行を得ました。これが全国へ佐々木氏が散らばっていく要因になります。

その中でも四兄弟の長男である佐々木定綱(さだつな)は佐々木家発祥の地である安土を含む近江國守護として広大な領土を得ました。

これが佐々木宗家、つまり本家筋となります。

本拠地は観音寺城に置かれ、北近江の米原伊吹山麓(関ヶ原の西側一帯)の副拠点では北陸道や東海道、中山道を押さえる重要な要衝を支配することで莫大な富を得ることになりました。

鎌倉期はその幕府の庇護の下、守護として日本でも屈指の絶大な権力を手にしています。そして、佐々木定綱(さだつな)の代から、息子の信綱(のぶつな)の代に至り、恐らく莫大な富を手にした権力を恐れた鎌倉幕府の政略もあったのではないかと思われますが、信綱(のぶつな)の三男が分家して北近江を支配。四男が本家を継ぎ、佐々木本家を維持することになります。

北近江を支配したのは、佐々木氏信(うじのぶ)で、本拠地は関ヶ原の西一帯である伊吹山麓の現在でいう米原市一帯でした。当時住んでいた館が京極館と言われていた為に、京極氏と名乗り、観音寺城で本家を継いだ四男は、高辻六角堂に館があったことから六角氏を名乗り、京極氏は六角氏を佐々木本家として形式上従属することになりました。

六角氏は幕府からの重要な街道拠点を任されている実態と六波羅探題での任もあったことから、鎌倉幕府の要職を担っていきます。

鎌倉末期になってくると、京極氏の当主である京極高氏は、元祖バサラ、傾奇者と呼ばれた人物で、早くから倒幕派、源氏の棟梁である足利氏に味方しました。

【京極高氏(佐々木道誉)】

一方六角氏は最期まで六波羅の役目を違わず、京都で何と分家筋である京極軍と衝突し、敗北。北条一族と鎌倉に落ち延びる際に南近江で足利軍(分家の京極軍)に補足されてしまいます。

ここで運命の逆転現象が起きました。

北条仲時(ほうじょうなかとき)らはここで自刃して果てましたが、何と六角時信(ろっかくときのぶ)は、追手の京極軍に降伏して助命願い出をしてしまいます。

追手の足利軍(京極軍)も厳密には、京極高氏家臣の浅井軍でした。
・浅井 忠政(あざい ただまさ)
・浅井 氏政(あざい うじまさ)
ら国人領主が主力でしたが、京極高氏の手となり脚となり当時精力的に動き回りました。

つまり、佐々木氏本家である六角氏は、何と佐々木氏分家である京極家に屈する形になりました。

戦国期に至る佐々木氏の本家と分家の歪みは、ここから始まったと言っても過言ではなく、先見の読みで、過去のしがらみを潔く切り捨てた分家京極氏と、従来の利権に固執した本家六角氏の戦略的判断の誤りでした。
【六角義賢】
六角氏はその後織田信長に対抗して滅亡し、京極家は現場でこき使った悪党商人成り上がりの浅井氏に長浜の拠点を奪われ、下克上の代名詞たる国盗りをされて領地を失います。

当に戦国期へと繋がるドラマが近江の方々にありました。

以前旧近江國の歴史探索の旅に出かけた際の1つのネタ記事でした。

次回機会があれば大海人皇子のお話にも触れたいと思います。

日本史の中心に常にあった滋賀県近江八幡市。

大変興味深い場所です。

是非1度訪れてみては?

付記:
一応豊臣秀次の近江八幡城もあることを触れておかなければ(笑)

●近江八幡市観光ルート(参考)
 宿泊は大津がお勧め。
 敢えて申しませんが、・・・(笑)色々と便利です。

 中でも宿泊は琵琶湖ホテルがお勧め。
 全室レイクビューは素晴らしい。

(1)近江八幡城祉
  ロープウェーで一気に山頂まで。秀次の館の跡から見渡す近江八幡市の碁盤の目こそ楽市楽座の完成形の名残り。
(2)安土城祉
   城の代表的な機能である防御を一切捨てた、見せる為の威圧する為の設計思想を感じながら、大階段を上ります。途中階段や礎石として使用されたお地蔵様は必見。両脇に拡がる著名な武将の館跡は、ここを秀吉が歩いた、信長が歩いた、と確実に言える所。それを感じながら天守跡の基礎(八角形)の規模と天守閣の大きさを実感できます。当時モノの重要文化財である摠見寺跡の仁王門や五重塔は哀愁を誘います。
(3)安土信長館
  安土城天守閣の5階、6階部分を再現したセビリア万博日本館のものを移築して出来たものです。絢爛豪華さは驚くばかり。

(4)観音寺城址
  佐々木家発祥の本拠地で、日本最大級の山城跡。車が無いときついですね。一の丸、二の丸、という丸は城の郭のことですが、これが数千もあると説明すればこの城の異常な巨大さ御理解いただけるかと思います。
(5)沙沙貴木神社
  佐々木一族の本貫神社。

  三井高利も乃木希典も佐々木一族を自認していたことが理解できたり、君が代に謡われる「さざれ
  石」なども見ることができます。



広島県に佐々木姓が圧倒的に多い理由
●Gemini回答
 滋賀県近江八幡市の「沙沙貴(ささき)神社」を発祥とする宇多源氏佐々木氏、まさに日本屈指の名族ですね。

 おっしゃる通り、近江(滋賀県)が本拠地でありながら、なぜ遠く離れた**広島県(安芸・備後)**にこれほどまでに佐々木姓が根付いたのか。

 そこには、鎌倉時代から室町時代にかけての**「歴史的な大移動」と「定着」**のドラマがあります。

主な理由は以下の3点に集約されます。

1. 守護職としての入国と一族の増殖
  鎌倉時代、佐々木氏は幕府の創業功臣として絶大な信頼を得ていました。佐々木定綱の五男である佐々木義清が、出雲・隠岐の両国守護に任じられた際、その一族が中国地方に広く下向しました。

     備後(広島県東部)への進出: 佐々木氏の支流が備後国の守護や地頭として入りました。

 庶子家(分家)の展開:
  当時は一族が各地に分かれて領地を治めるシステムだったため、広島県内の要所に佐々木一族が配置され、そこで代を重ねるごとに爆発的に「佐々木姓」が増えていったのです。

2. 「尼子氏」の台頭と敗北による帰農
  広島に佐々木姓が多い決定的な要因の一つは、佐々木氏の有力な分家である尼子(あまご)氏の影響です。
 

  戦国時代、尼子氏は中国地方一帯を支配する強大な戦国大名となりました。しかし、毛利元就によって滅ぼされた後、その家臣団や一族の多くが**武士を辞めて農民(帰農)**となりました。

  彼らは誇り高い佐々木一族の末裔として「佐々木」やその派生姓を名乗り続け、地域に深く定着しました。広島県に佐々木姓がこれほど密集しているのは、この「敗れた側の精鋭たちがその土地に留まった」という側面も大きいと言われています。

3. 安芸の宮島と佐々木氏
  宮島(厳島)に佐々木姓が極端に多いのは、宮島の経済や宗教を支えた集団に理由があります。

 厳島神社の神官や供奉:
  中世から近世にかけて、宮島の警固や神社の運営に関わった有力な一族に佐々木氏の流れを汲む者が多くいました。

     閉鎖的な島社会: 狭い島内での婚姻関係や、一族の結束を維持するために姓が守られた結果、特定の苗字が圧倒的多数を占める現象(苗字の寡占化)が起きたと考えられます。

まとめ
 滋賀県は「佐々木氏の心の故郷(発祥地)」ですが、広島県は**「佐々木氏が武力と政治力で切り拓き、生活の拠点とした実利の地」**だったと言えます。

 滋賀の沙沙貴神社から遠く離れた広島の地で、これほどまでに「佐々木」の誇りが受け継がれているのは、歴史のうねりの中で戦い、生き抜いた証そのものですね。