東京都民でもあり県民でもある私。

大阪のことを述べるのに違和感を感じられる方も多いでしょう。

昨年の8月中頃から9月初旬にかけて、先祖ゆかりの地である大阪を自身の目で確認し、只今家譜編纂に勤しんでいる所です。

 

ですから大阪は全く関係の無いところではなく先祖が歴史を紡いできた、いや先祖が今の大阪ミナミを作って来たという自負もあり、大切な所なのです。

編纂にあたり、大阪ミナミの発展については驚くほどドラスティックに、そしてエキサイティングに変貌を遂げて来ているのかが判り、自分自身でも大変興味深い内容だったものですから、少しだけ共有させていただきます。

前回では、道頓堀の南に広がっていた広大な千日墓地のお話を取り上げました。

 

巨大な遺骨遺灰のボタ山の高さで最も大きいものでは11mほどの高さに登った様です。

これが好きなくとも7つほどはあったことが色々な記録で見ることが出来ます。


この遺骨遺灰の山ですが、積もり積もって出来たものではなく、明治維新後に発生したコレラが大きく影響しました。

 

毎日数百もの身元不明遺体が運ばれ、千日寺のお坊様も1日お経をあげてご遺体を焼いても数十が限度だったようです。

 

やがてあまりに増えたご遺体はお経を纏めて差し上げ、まとめて焼くなどのやむを得ない措置もあり、ご遺骨、ご遺灰の処分が間に合わなかったことから山になった、というのが真相の様です。

 

どれだけの方が亡くなったのでしょう。

 

短期間に相当な混乱状態に陥ったでしょうね。

前回も触れた通り、火葬と言っても火力は強い訳では無かったので肉片も残り、強い異臭と衛生的にも宜しくない状況になっていました。

 

大阪市、いや五代友厚(ごだいともあつ)さんは、この灰山の処分を、藤田傳三郎(ふじたでんざぶろう)という人に任せます。

 

五代友厚は、某ドラマでディーン藤岡さんが演じた方。

 

そして藤田傳三郎は、東の澁澤榮一、西の藤田傳三郎と言われた方。

東日本の方には馴染は無いと思いますが、西日本では澁澤榮一より有名。だと思う。

 

しかし、この藤田傳三郎、灰山処分をまかされたのですが、即困ります。

 

どうやって処分したらよいのか、全く皆目見当もつきません。そこで、現在のなんば駅周辺域一帯の大地主であったY氏に相談をします。Y氏は旧大阪三郷(三井とか住友とかね)の豪商で、今の●菱UF●モル●ン・ス●ン●ー証券の源流を起業した人物。

 

古代からずっと難波を拠点にした渡来系氏族であり、海運業にも強かったこともあって四国や山陽地区の農家へ灰山の灰を飼料として卸すことに成功します。Y氏らはあっという間に捌くことに成功しました。そして膨大なお墓を無事阿倍野地区へ移設して千日前を整地します。

 

このご遺骨、ご遺灰のボタ山周辺にあった墓標、墓誌など数万基を、阿倍野に移転することとして市街地を拡げる土壌が出来上がった、ということです。

千日墓の移動先は阿倍野。

 

大阪市営南霊園となり、現在でもその広大な墓地は現存します。

阿倍野の茶臼山にかけては、徳川幕府の家康本陣が置かれた場所になりますが、そのすぐ南側となります。

 

かつてあった千日墓では、毎日お経を唱えていたお坊様がいらしたお寺も今では移動し、千日寺の門前付近の広大な墓地更地は、「千日墓の門前(せんにちぼのもんぜん)」であったことから、千日前と呼ばれるようになります。

 

千日前は更地になり、大阪市五代友厚はこの地の市街地化を訴えますが、だれも千日前を本気で開発しようとせず、祟られると忌み嫌われました。そりゃそうだ(笑)

 

大阪市は土地の値段をどんどん下げましたが、それでも買う人はおらず、困り果てた大阪市が奥の手、を使います。

 

何と!土地を引き取りを希望する者にお金を払って、だけど開発条件を付けるというとんでもない政策にでます。

 

考えてみてください。

 

道頓堀南側千日前地区などの広大な土地が欲しい人にお金を払って引き取ってもらった、ということ。今では考えられませんね!

 

灰山処分と千日墓移転に多大に貢献したY氏は、現在の難波八坂神社あたりからパークスなんば、センタラホテル大阪、高島屋大阪店、ヤマダ電機、なんば駅、千日前地蔵(千日前東縁)から日本橋1~3丁目から道頓堀南縁にあたる広大な敷地を私有地として持っていました。Y氏は千日前に新たに整地した場所に難波小学校を建設し始めます。

 

無垢な児童を出汁に使うとは(笑)

それでも難波小学校校舎完成まで私邸の一部を開放し、路を作って児童が通学しやすい様私財で整備しました。

 

そして最も重要なところ。

本来別のところへ出来る予定であった阪境電鉄の駅を、自分の敷地(他家の敷地も一部含むそうです)である場所へ強力に誘致して、私財を投げうって周辺道路を整備しました。

 

そして開業したのが現在のなんば駅になります。

 

人の流れだけでは街の開発はうまくいかずに寂れると直感的に考えたY氏は、なんば駅の出入り口正面の私有地に難波座(現在の松竹座)を建設し、後の南海電鉄グループとなっていく難波建築建物株式会社のK氏(通天閣や新天地、ルナパーク(今の天王寺動物園とかの場所で茶臼山一帯)を開発した人)にソフト面で支援してもらって人の流れと導線を考慮した興行面から都市開発を始めました。

 

これで人が難波に集まるようになり、今の発展の礎を築くことができた、ということになります。更にY氏の孫養子S氏(K氏の二男)が梅田(キタ)に施設予定であった市電を難波(ミナミ)に誘致したのが決定的でした。政治家であったS氏(立憲民政會(現自由民主党))は、大阪の梅田と難波を、キタとミナミとしきりに議会で叫んで暴れたことから難波がミナミと定着したことにも貢献したようです。

 

Y氏は旧大阪三郷の相場師が本業ですから、傍らにこんなミナミの開発と言う大事業をさらっとやってのけた、ということです。このY氏商店は、後日Y氏証券>八千代証券>国際証券>三●証券>●菱U●J証券・・・と発展していくその礎となりました。

 

そのY氏が難波の父と呼ばれる所以はこの難波の発展の礎を築いたからという側面もある様です。

 

このY氏を顕彰した碑が、難波八坂神社境内に顕彰碑として残っています。

11mもあり、巨大な石に功績とされる内容が碑文としてぎっちり彫り込まれています。

 

本日はそんな巨大な人骨の灰山の処分、跡地が道頓堀南側から千日前、難波地区一帯の都市計画に繋がった、という事をご紹介をいたしました。

 

帰りまーす。

 

 

 

 

 



藤田傳三郎は高曽曽祖父。Y氏は先祖A系統で私は直系子孫。そしてK氏は先祖B系統。

面白いのが藤田傳三郎はB系統に嫁を入れ、藤田とB系統が、名門のY家に養子を出して結びつくという何ともまぁ難波の開発を担った者ども一族が血縁養子関係で繋がっておりました、という結末ありました。

 

これは誰も知らない一族だけが継ぐ戸籍上のお話です(笑)