古代史シリーズネタになります。
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今回はコロナ禍の時から色々と纏め始めて、足かけ4年が経過した邪馬臺國王権が初めて関東に及んだ時の支配者、
乎獲居(ヲワケ)
の謎を紐解いてみます。
理系の私、ド素人のまとめです。
古代史ご専門の方への挑戦状(笑)という視点で暖かくご指摘ご意見を賜れれば幸いですが、どれも確定的なことは申し上げるものではありません。
国宝「金錯銘鉄剣」というものをご存じの方、多いでしょう。
【2018年に復元された「金錯銘鉄剣」:日本経済新聞より】
西暦471年に完成した鉄剣ですが、前方後円墳である稲荷山古墳(埼玉県行田市)に埋葬者と共に土に埋もれ、1968年にその稲荷山古墳の成れの果ての丘の頂部から発見されました。
その後粗末?に扱われ、ボロボロに痛んできたために1978年に宅急便で奈良に送られて保存処理を行おうとしたところ、何やら文字らしきものがあることが判明。
レントゲン撮影により115の漢字が確認されました。
埼玉県に戻ってくる際は宅急便ではなく、専用列車で厳重に警備されて戻って来たという都市伝説的なお笑い話も伝わっている様です(真偽は知りません)。
発見当初「稲荷山鉄剣」としても有名を馳せました。
多くの皆さまがご存じなのはここまでかと思います。
では、この鉄剣の持ち主はどこの誰?
稲荷山古墳の埋葬者であるヲワケって何者?
という強い疑問を解決する為に時間をかけて参りました。
本日はここに記載されている埋葬者であるヲワケの先祖8代がどんな人物で、何をやっていた者なのか、そして、ヲワケとは何者か。
その足跡を追いたいと思います。
●意富比垝(オホヒコ)
ヲワケの8代前のこのオホヒコを祖としています。
ではオホヒコとはいったい誰?
この時代、私の氏族の先祖は既にこの時に姓(かばね)を持っており、古事記や日本書紀、続日本記に残っています。今凡人である私の先祖ですらです。
ということは、当然それなりの人物であることが必然です。
結論から申しますと、オホヒコは、崇神天皇に仕えていた、と比定されています。
西暦換算でいきますと、西暦200年代後半から300年代前半のこと。
ちょうど大陸では三國志の時代が終わり、司馬氏による「晋」の時代になったところです。
このオホヒコは、阿倍氏の始祖になった、と考えられています。
オホヒコの日本書記、古事記共に一致する人物は、「大彦命」に比定されます。
ということは・・・・
そうです。
皇子になります。
第8代孝元天皇の第一皇子であった可能性が大変高いと考えられています。
大彦命の息子達は、阿倍(あべ)氏、膳(かしわで)氏、阿閉(あへ)氏の始祖になっていきました。阿倍氏は現在の大阪市阿倍野に拠点を構え、上町半島の根本の重要な拠点(現在の大阪天王寺近辺)を支配しました。
余談ですが、阿倍氏が抱えていた渡来系氏族が私の先祖です(姻戚関係もあると考えられています)。
この時ご先祖は未だ独立系の氏族だったようで、我が国に文字(漢字)を持ち込んでいる可能性のある氏族の一つと考えられており、上町半島の先端部分である難波の管理を任され、1次資料上以降2,000年に渡り難波を支配して動かなかった氏族になります。
つまり、「大彦命」と後日呼ばれたのが、オホヒコである、と比定されています。
大彦の命は、北陸道を進み小都市国家群を攻略(必ずしも軍事的ではない)していった一人です。
ではこのオホヒコの児(子)らは、後世の国史にどう記載されたのでしょうか。
第2代 葛足(カサリ)
>恐らく垂仁天皇~景行天皇に仕えていた(西暦300年代中頃)
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)もこの時代ですね。
しかし、このカサリが阿倍氏のどのような名前で記録されたかが確定できません。でもカサリなのでしょう。当時姓(かばね)として阿倍を名乗っていたとも思えません。
第3代 波多毘(ハタリ)
>恐らく成務天皇~仲哀天皇の時代(西暦300年代後半)
同様に阿倍氏の誰として記録されているのかが判りません。
第4代 角(ツヌ)
>応神天皇の時代(西暦300年代末期~400年代初頭)
同じく日本書記等で誰を指し示しているのか判りません。
第5代 果安(ハカヤス)
>仁徳天皇~履中天皇の時代(西暦400年代前半期)
同じく誰?
第6代 垝軍(カサヒヨ)
>允恭天皇の時代(西暦400年代中頃)
同じく誰?
第7代 加多披(カタヒ)
>安康天皇の時代(西暦450年代)
同じく誰?
つまり、近衛隊長レベルの身分では歴史的な出来事を記す記録には出てこない、という認識です。
第8代 乎獲居(ヲワケ)
>雄略天皇の時代(西暦456年~479年)
雄略天皇はずっと後世の命名であり、初武尊(ワカタケル)が邪馬臺連合王権の大王としての名称だったようです。しかしこの「初武尊」という表記も後世の表現(日本書記)であり、国宝「金錯銘鉄剣」では、
獲加多支鹵
ワカタケル
として表記されていました。
これは紛れもない事実で物証という強力な1次資料がある為、誰にも否定できません。日本書記での表記は変わった、ということになります。更に後世になって、雄略天皇という名称が新造されたのです。
同時期の中国は趙氏「宋」の時代。
この趙氏「宋」の時代である478年に、邪馬臺王権連合の獲加多支鹵(ワカタケル)は「宋」に上奏文(周辺国平定していい?と許諾を得る事)を送り、周辺国を平定していった、とされています(宋からの見方)。
タケルという発音から、「武」という文字を当てたのでしょうか。
「宋」から見て「倭」の「武王」として「宋書」に記載されています。
獲加多支鹵(ワカタケル)は、気に入らない、自分の意に反する者は容赦なく処刑し、その支配は恐怖政治そのものであったことが判っています。
そして政治舞台は、鉄剣の通り、「斯鬼宮(しきのみや)」にあった、ということ。
当時の表記である斯鬼(しき)は、奈良県桜井市の磯城(しき)と比定されており、磯城(しき)という地名の宮殿であることを示しています。
斯鬼宮は、後世編纂された日本書記で記録される、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)であると考えられています。
場所は広域地図で当て嵌めると結構山岳部に位置するところになりますが・・
当時の邪馬臺王権の中心地は、概ねこの桜井~天理間の箇所になるのではないでしょうか。
邪馬臺王権の代表者、つまり大王として、この磯城の宮殿で獲加多支鹵(ワカタケル)が豪族国家連合の頂点に立っていた、ということになります。
乎獲居(ヲワケ)がこの時迄近侍的な護衛隊長のような位置づけを担っていた、と記録されているので、イメージ的には近衛大将のような呼称イメージになるでしょうか。
そのような役割を獲加多支鹵(ワカタケル)の代まで担っていた、後世、阿倍氏と呼ばれた氏族の乎獲居(ヲワケ)は、新たに支配下に入った関東平野の極初期の鎮撫総督として、さきたまの地(埼玉県行田市近辺)に入植した、ということになります。
以前調べた限りでは小野氏が国造りとして中央から派遣されたと記憶していましたが、小野氏の方が少し後になるのでしょうね。
「鬼滅の刃」にも大きく関連する 日奉氏(物部氏一族) が武蔵府中に来るのはずっと後になります。
ここはまた後日調べてみるようにしたいと思います。
小野氏は、神奈川県川崎市北部~東京都町田市~多摩市、即ち現代多摩と呼ばれる地域に勢力を持っていたと考えられており、当時この地は、山梨県丹波山村以東を広範に丹波(タバ)と呼んでいました。
恐らく山梨県上野原市に祀られている草薙の剣を祀った軍荼利神社などの成立過程を考慮すると、この丹波(タバ)地域が関東でも最も早期に邪馬臺連合王権に参加していたのではないかと考えます。
この丹波(タバ)を中心に、丹波(タバ)の更に先、奥になるから、
先丹波(サキタバ)
と呼ばれた、という説や、先般ご紹介した、アイヌ語語源説として、海岸線と海の境を表現する「先」と、勾玉などの宝玉を交易として中心的にになった場所として、
先玉(サキタマ)
と呼んだ、など、埼玉(サキタマ)の語源には諸説あります。
永遠の謎になるかも知れませんね。
関東の豪族が大規模に軍事的に抵抗した痕跡は見当たりませんが、先般取り上げた宝登山神社の伝承を紐解くと、大規模では無いにしても、景行天皇の皇子オグナが火攻めに遭ったと考えるのに妥当性があり、邪馬臺連合王権が西暦350年前後に果敢に関東進出を狙っていた痕跡が認められます。
結論です。
稲荷山古墳に埋葬されたヲワケは後世で言うところの阿倍氏であった可能性が高く、天皇近侍の近衛将軍だった経歴の持ち主であり、邪馬臺連合王権から埼玉の地に派遣された邪馬臺連合王権に対しての鎮撫を担う行政担当総督豪族として任にあたった、ということでしょう。
時代が最大100年ほど後世にズレることになりますが、将軍塚古墳の本物の埋葬品からヲワケの姿をある程度精度高く再現しました。緻密にAIに学習させてヲワケを生成したものです。
モデルは将軍塚古墳玄室内に再現されている被葬者と副葬品の再現銅像。
将軍塚古墳の実際の副葬品は、玄室などと合わせて精密に古墳内に再現されている日本でも唯一の場所です。
この玄室の石も、現在の千葉県富津市の鋸山辺りの石であることも判っています。
この被葬者は阿倍野ヲワケから後世100~150年の子孫と思われます。
2026年1月11日(昨日)の将軍塚前方後円墳の古墳。
円墳の箇所は内側がくり抜かれ、玄室を内側から見ることが出来るようになっています(有料)。
私の先祖、吉士木蓮子(キシノモクレンジ)が百済から坊主の恵聡(エソウ)を連れてきたことで山田寺や飛鳥寺などが造られて我が國に佛教が伝来しました。
佛教伝来後、古墳の造営は無くなり、寺院建立へと変わります。
石棺ではなく、木棺なのでしょうか。須恵器は近畿地方で焼かれたものであることも判っています。馬具の鉄器はもしかしたらもっと他にもあった可能性も高いのではと思ってます。
いずれにしても、ヲワケらが生きていた時代の人物名呼称と日本書記などへの記載上の文字も大分異なっているので興味深いところ。
呼び名も後世後付けで全く異なったものにすり替えられているのがほとんど。
我がご先祖様も、当時本当はどんな呼ばれ方をしていたのか妄想は膨らみます(笑)
一部判っているものもありますが・・。
我国でも最も神秘的で神話の中心地である日イヅル國、日が立つ國、日立(常陸)の國の検証は難易度が高く、全くまとまっていません。
日本全国の古代の記録で、どうしてもこの日立の國の記録だけは特殊性があります。
天照大神と高天の原、鹿島の神、香取の神。我国で最も古墳の数が多い香取の國。
謎解きは検めてまた後日。








