移動時間の有効活用。
そんな時は無駄な知識を糧に、本日は完全無欠な無駄な知識シリーズの展開てへぺろ

最近は調べものもAIを活用して短時間で出来る為、少ない時間で濃い無駄な知識を纏めることが可能になりました音譜


何を取り上げようかと色々迷いましたが。

つい最近、滅亡したと思い込んでいた鎌倉幕府北条得宗家が存続している可能性があることを知りました。そこをヒントにして、本日のお話を始めます。


時は12世紀の日本。
源平合戦の騒乱は全国規模で起こり、多くの英雄を生み出しました。

国民的な知名度を誇るのは、源義経や武蔵坊弁慶でしょう。

それら英雄の子孫が、どのくらい明治期まで存続したのか?

そんな素朴な疑問から調べてみました。

当然、子孫として存続していることが公開情報で確認可能でなければ確認しようがありません。

薄っぺらですが、華族を中心とすることで公開情報を基に確認することができると予想しました。

ではどうぞ。



まず基本である源平争乱についての理解からです。

多くの人が陥りやすいミスですが、実はほとんどの方が、源氏方と平氏方に分かれて戦った、と勘違いしています。

事実、源平合戦というのはずっと後の時代につけられた、まやかしの名称であることは既に知られている通りです。

では実際はどうだったのか。
それを一番理解できるのが、頼朝挙兵時の頼朝方勢力を紐解いてみることです。

イメージし易いように大河ドラマの俳優も記載しておきます。

●源 頼朝(みなもとの よりとも)挙兵時の勢力5万
 リーダー:
  源 頼朝(清和源氏)大泉 洋
 頼朝軍の主力:
  平 広常(桓武平氏)佐藤 浩一
  北条 氏(桓武平氏)坂東 彌十郎、小栗 旬など
  三浦 氏(桓武平氏)佐藤 B作、山本 耕史
  千葉 氏(桓武平氏)岡本 信人
  土肥 氏(桓武平氏)阿南 健治
  安西 氏(桓武平氏)猪野 学
  和田 氏(桓武平氏)横田 栄司
  佐佐木 氏(宇田源氏)カン スオン
  安達 氏(藤原氏)野添 義弘


参考までに関東における平清盛派は次の通り。
 リーダー:
  大庭 景親(桓武平氏)國村 隼
 清盛軍の主力:
  畠山 氏(桓武平氏)中川 大志
  佐竹 氏(清和源氏)
  武田 氏(清和源氏)
  長尾 氏(桓武平氏)
  河村 氏(桓武平氏)
  山内 氏(桓武平氏)
  山木 氏(桓武平氏)


頼りの清和源氏が敵、という事実は重いです。
それに頼朝方はほぼ桓武平氏。

頼朝方としてはほぼ全ての軍勢が桓武平氏の挙兵ですから、源氏の挙兵というにはあまりに無理があることは一目瞭然です。

しかも頼朝の主力は最大規模を誇った平 広常(たいらのひろつね)の2万人の軍勢でした。その 平 広常 の軍勢を主軸に、5万の軍勢を整えました。

源氏も伊豆に頼朝同様島流しにされていた佐佐木家始祖である秀義と四兄弟の精々家人含め数名ですが清和源氏ではありません。そして下野から掛けつけた源氏嫡流の足利氏棟梁の義兼の数騎でした。
頼朝の家人である安達氏は藤原氏で2~3名。

源氏として挙兵したのではなく、地域の桓武平氏が名目上頼朝を担ぎ上げて挙兵した、というのが実態です。

頼朝挙兵は、1180年です。
鎌倉幕府開府は、1185年。



訳あって時代は800年程遡って当時の状況に繋げます。

最新の学説では、奈良盆地で強力な軍事基盤を築いていた豪族物部氏が畿内の大和王権を招き入れてその軍事的基盤を背景に西暦300年代に成立させたのが大和政権というのが最有力とのことです。

大和政権は朝鮮半島から渡来系氏族も招き入れ、進んだ文化を積極的に取り入れて徐々に力を着けて周辺の豪族と政治的な連合関係を築いていきます。

複雑なのが、宗教的には東、政治的には西の連合に加わった豪族が多かったのではないか、ということ。

宗教的な連合は、日が出づる国、常陸の国を中心とした、日高見の連合、即ち天照大神を頂く古代からの巫女神道中心の連合。

武蔵国ではヲワケなどの豪族が既に西暦456~479年に大和政権の政治的連合に加わり、武蔵國造りとして物部氏などとの密接な関係を深めていきました。武蔵物部氏は、この東の宗教的な連合を大切にします。

しかし、香取、鹿島を中心とした従来の宗教的な日高見の豪族連合体は、大和政権から蝦夷(えみし)として睥睨され、討伐の対象にされてしまいました。

古くは武蔵國造の乱もそうでしょう。

更には蘇我氏と物部氏が争った神仏戦争もそうでしょう。
物部氏嫡流は蘇我氏によって滅ぼされました。


そう時間も経たぬうち、平将門の乱は時代を背景に起こっており、敗北した東国の人々は、西側政権に根深い恨みを少なからず抱いていたのは間違えありません。

将門伝説は関東で恨めしい鬼伝説となっていきます。

 

まして物部氏は蘇我氏との宗教戦争に敗れ、地域に根付いていた物部一族の恨みとも重なるところがありました。

東国の自律独立を狙って起きた平 将門 の乱は935年~940年。

頼朝挙兵時では未だ新しい記憶です。


当時の実態としては、人口比率が西の1に対し、東の2、という状況で、農業生産比率も桁違いに東日本の方が発展していました。政治的には西、経済的には東、という構図が有史以来続いていたのです。

従って源平合戦ではなく、現実は清和源氏の遺児を利用した坂東武者が仕掛けた政治的主導権を争った東西合戦だった、とするのが正解に近いでしょう。最悪でも東だけで自立したかったのです。これが挙兵早々の1185年に幕府の開府に繋がりました。

その視点から見ると、農業資源や経済発展も上なのに、西に経済的搾取されていたと捉えていたのかも知れません。
既に西への上納は無視され、荘園制度が崩壊していたのですから。



では、ここからが本題です。

その東軍、西軍、それぞれの軍閥で、見事に明治期以降華族などとして生き残った氏族を見てみましょう。


西軍


●平 清盛 派
・織田氏(桓武平氏)

ご承知の通り、戦国期に織田信長を輩出した氏族になります。織田氏は、伊勢平氏の流れを汲み、平清盛勢力主流ではありませんでしたが、清盛派の一翼を担っていました。
その家系は明治期まで続き、子爵として列せられ、現在も続きます。
何かとお騒がせな織田信成の家系は叙爵していませんので華族ではありません。

・伊東氏(桓武平氏)
当初から頼朝と敵対し、最後迄清盛公に忠誠を尽くしましたが、助命されるも自害しています。頼朝に味方した同族もおり、飫肥藩藩主として明治を迎え、子爵に列せられました。

・新田氏(清和源氏)

明治維新で子孫が一番多く叙爵されています。
明確に清盛に味方した訳ではありませんが、同じ様なもので、先祖代々反主流的な位置付けが新田氏でした。
清盛と良好な関係を築いており、その功績で関東一円に広大な領土を持っていた新田義重は、頼朝挙兵時に、足利義兼と違って鎌倉方に味方しませんでした。
もし清盛勢となっていた場合、頼朝も潰されていた可能性もありますが、この義重は情勢を見極めようと軍を動かしませんでした。だから、子孫も様子見が得意技になったのでしょうか(笑)
新田義重は頼朝が関東を平定し、鎌倉に入京した段階で、鎌倉に参上しました。この遅参は鎌倉方の大きな怒りを買い、『吾妻鏡』に詳細が記載されます。
鎌倉末期に新田義貞を輩出し、今度は真っ先に足利氏に味方しましたが、新田も足利も名門同士で主導権争いから足利に終始敵対しました。
新田義貞の弟の脇屋義助が三河で得川氏を興し、後に松平氏へと続きます。戦国期には徳川家康を輩出し、様子見を続けた結果天下を獲ります。将軍家の宗家、最後の将軍一橋家、松平家など多くの氏族が明治維新を迎え、叙爵しています。
近年では松平氏の諸流である藤岡氏から、藤岡浩二という俳優を出しており、先祖の姓を芸名として、松平健と名乗り活動しています。

・山内氏(桓武平氏)

平 忠常(たいらのただつね)が、当初須藤氏を名乗っていましたが、神奈川県鎌倉群山内荘を治めていたことから山内氏を名乗ります。頼朝挙兵時は大庭氏等と協働しして頼朝を追い詰めています。
しかし、平 広常 らの大軍を目の前にして頼朝に降伏し、鎌倉の御家人になりました。その後も一環として鎌倉を根拠として存続し、戦国時代になって家康と光成の争いになった時は今度こそ東軍に味方し、土佐藩主にまで登り詰め、明治維新を迎えました。叙爵は侯爵という大変高い待遇となりました。

・長尾氏(桓武平氏)

坂東七平氏の一派で、頼朝挙兵時には相模国を根拠とする一族で、頼朝に敵対しました。藤原氏流上杉氏に仕えた長尾氏は越後に根付き、戦国期には長尾景虎を輩出しています。景虎は上杉の名代を継ぎ、上杉謙信を名乗りました。
子孫は明確に血脈は続いておらず、養子縁組によりますが、家名としては米沢藩主として明治維新を迎えました。奥越列藩同盟盟主として明治政府と敵対したのですが、家格などから伯爵という異例の待遇で叙爵されています。

・佐竹氏(清和源氏)
常陸武田氏と同様に、清和源氏でありながら頼朝に敵対しました。この事実からしても、単に源平の争乱ではなかった証左になります。
常陸の美女を全て秋田へ連れ去った為、あきた美人が発生し、茨城ブスが残ったという逸話は佐竹の左遷が要因になった都市伝説。家康に敵対し、関ヶ原では豊臣方に内通したことから左遷されたのですが、これが元で佐竹氏は最初から明治維新で討幕派に加わり、薩摩、長州、土佐などと歩調を併せました。倒幕に貢献した旧大名家と同様に、侯爵として大変高い待遇で叙爵されました。諸流も男爵などに叙爵されています。




東軍

●源 頼朝 派
・北条氏(桓武平氏)得宗家

北条氏とは言っても戦国期の小田原北条氏とは全く関係ありません。
鎌倉幕府執権を代々担った北条得宗家の血統になります。
得宗家北条高時は、幕府滅亡時に切腹して果てましたが、その長男北条時行(ときつら)は、逃げ延び、中先代の乱で敗北したりと歴史上に出たり入ったり。
北条時行の子孫である 長泰 は平野氏を名乗っており、豊臣秀吉 賤ヶ岳の七本槍の一人です。平野氏を名乗ったとの文書上での確証が発見されていませんが、明治期には平野氏は北条得宗家の血統として男爵に列せられました。
しかし系譜には確証がなく、現在では疑問が持たれています。
一方で、第15代執権金澤貞顕、第16代執権赤橋守時と北条得宗家ではない執権が続き、鎌倉幕府は滅亡しました。
その金澤氏は徳川時代も高家待遇として生き残り、叙爵しされています。近年では九州で続いた北条金澤氏を外戚に持つ俳優の 高倉 健 が著名です。
更に鎌倉幕府最期の執権赤橋氏も華族では生き残れませんでしたが士族として明治維新を迎えています。
個人的にですが、この事実を知った時は大変驚きました。

・和田氏(桓武平氏)
桓武平氏和田氏は、和田義盛の代になり北条氏と対立し、和田合戦で嫡流が滅亡します。しかしながら、義盛の三男義秀は戦場から脱出し、安房(千葉県)へ逃れました。
大変な苦労があったと思われますが、その後朝比奈氏を興し、駿河、遠江に土着し、今川氏に仕え、武田、徳川と主君を変えながらも明治維新を迎えています。
然しながら旗本どまりで叙爵には至りませんでした。

・足利氏(清和源氏)

源頼朝挙兵時に当主、足利義兼が数騎で参戦しました。足利氏は、頼朝の氏族よりも源氏の棟梁としての血統が良い、と言える唯一の家系でしたが、頼朝の家臣となりました。
河内源氏の頼朝の氏族夛田氏や石川氏と異なり、足利氏は河内源氏の嫡流の名門。
後世鎌倉幕府得宗家の桓武平氏北条を滅ぼして室町幕府を開府した足利尊氏を輩出します。
その子孫は、喜連川藩として徳川幕府からも最上級家格の扱いを受けて明治を迎え、子爵に列せられました。
その他、足利氏族の吉良氏は赤穂事件で改易となり、華族ではなく士族として明治維新を迎えています。
みんな大好き共産党の吉良よし子は吉良氏の子孫であろうと言われていますが公表されていません。
足利一族の中でも細川氏は江戸期熊本藩で存続し叙爵。1993年~1994年に掛けて第79代内閣総理大臣となった細川 護熙 を輩出しています。
そして忘れてはいけません。足利氏の代表格今川氏ですが、今川義元を戦国期に輩出し、その嫡男氏真以降嫡流が存続し、徳川との関係が続きました。例外的な高家として明治維新を迎えて子爵に列せられています。
プロ野球の元横浜 足利 訓 選手は、どうなんでしょう?

・武田氏(清和源氏)

正当な源氏の嫡流を自認していたとの描写が、鎌倉殿の13人には描かれていました。
だからなのか、頼朝挙兵時に頼朝が嫡流を名乗った為、すぐ頼朝の味方はしていませんでした。戦国期に甲斐源氏武田氏からは、武田晴信(信玄)を輩出しました。その後、家督をついた諏訪四郎勝頼が武田氏を継ぎましたが、諏訪氏は徳川氏により滅ぼされました。
高家武田氏は、武田信玄次男である武田信親の家系が明治維新まで続いた甲斐源氏武田氏の嫡流になります。子孫は無事明治維新を迎え、男爵の爵位を得ました。武田家滅亡の際、宗家ではなく諏訪氏が家督を継いでいた為に武田宗家の被害は最小限となりました。
武田氏同族の甲府南部に位置した武田氏は南部氏を名乗り、鎌倉幕府創立の貢献により、盛岡藩、八戸藩などで江戸時代興隆します。明治には盛岡藩主が伯爵、八戸藩主が子爵に列せられてい列せられました。
また武田氏嫡流ではありませんが、始祖信義の三男謙信が山梨県山梨群板垣郷を拝領したことから板垣氏を名乗り、子孫が明治維新を迎えました。中から板垣退助を輩出し、叙爵されています。板垣退助の先祖は代々乾(いぬい)氏を名乗っていましたが、現在の自由民主党を結党する際の自由民権運動の際に先祖の板垣姓に戻しました。
近年では武田氏族の甘利氏の子孫である甘利明自由民主党衆議院議員を輩出したり、芸能人の武田鉄矢、仁科亜希子、高畑淳子なども武田氏族の子孫であることを公表しています。

・三浦氏(桓武平氏)

北条義時の親友三浦義村が印象深い人も多いでしょう。
しかし三浦氏は北条氏によって主家が滅ぼされました。江戸期まで三浦家は全国複数存続しており、複数の家系が明治を迎えています。
鎌倉幕府開府功績により、それら氏族は、子爵や男爵に列せられました。
現代では、キングカズこと三浦知良選手を一族から輩出し、桓武平氏であることが公表されています。

・千葉氏(桓武平氏)

相馬氏は早くから頼朝に味方した千葉氏の諸流です。宗家は滅亡しましたが、諸流である相馬氏は相馬誠胤が中村藩主として明治を迎え、子爵に列せられました。

・佐佐木氏(宇田源氏)

佐佐木氏は頼朝挙兵時に戦列に加わった義秀とその子ども達4兄弟が著名です。
佐佐木高行は、近江源氏佐佐木の血統を継いでおり、土佐藩士ではありましたが、尊卑分脈上と勲功もあったことから、侯爵という大変高い地位に列せられています。
佐佐木本家の六角氏は、織田信長によって滅ぼされましたが、六角氏の分家である京極氏、朽木氏も明治を迎え、それぞれ爵位に列せられています。
 :京極氏(宇田源氏)豊岡藩主 子爵
 :朽木氏(宇田源氏)福知山藩主 子爵
現代日本においては佐々木氏は350万人を超える大族になりましたが、これは鎌倉期の佐佐木4兄弟の貢献が大きいとのことです。
長男定綱は近江守護になり、六角氏、京極氏、朽木氏、尼子氏へと発展して佐佐木本家を滋賀県を中心に広めました。
次男佐佐木常高は、常陸(茨城県)の地頭になり、その子孫は徐々に東北地方へ広がり、秋田県や岩手県でも子孫が広まりました。この次男の系統は佐佐木姓を捨てず現代に続いている様です。
三男盛綱は備前(岡山県)を拠点とし、彼の系統は越後加地にも領地を持ちました。後日現在の新潟県加地を拠点にしたことから加地氏を名乗り現代に続いています。
四男高綱は、相模の地頭になり、彼の系統は野木氏、乃木氏と現代に続きます。明治期には凡将乃木希典を輩出しています。乃木希典は佐佐木一族の誇りを強く意識していたことが記録に残ります。

広島県には佐佐木一族の1/3が居住しており、佐佐木経方が土着したことから広まりました。経方系統も佐佐木姓を捨てず、それが広島県に多く残る結果となりました。特に広島県廿日市市の宮島は島民ほぼ全てが佐佐木姓だった時代が長く続きました。
佐佐木4兄弟は有名ですが、実は五男もおり、五男佐佐木義清が隠岐の守護(島根県)となったことから山陰を伝って九州に広まったと考えられています。五男の勢力は没落
し、後日北近江から京極氏族尼子が守護として下向しています。
これだけ一族の分布経緯が明瞭な一族は佐佐木氏のみと言っても過言なく、鎌倉幕府成立に大きく貢献したことからその拡がっていく様がつぶさに記録されたからという特異な事情があります。


京極家の家紋は、直接的には関係しないそうですが、日本航空のあのマークです。

・大江氏(公家)

大江氏が鎌倉御家人として拝領したのが相模国毛利庄(現神奈川県厚木市)であり、地名から毛利を名乗ります。鎌倉時代に毛利氏宗家は北条氏に滅ぼされますが、これが明治維新の遠因にもなったようです。更にこの事変は鎌倉幕府滅亡の切っ掛けとなった足利氏の幕府離反も招いた要因になりました。
この毛利氏からは、毛利元就などの戦国期に活躍する武将を出し、その子孫は長州藩藩主(公爵)を始め、多くの分家も明治を迎えて叙爵されました。神奈川県厚木市下古沢にある三島神社の境内には、「毛利氏発祥の地」の碑が建てられています。

・比企氏(藤原氏/清和源氏)

比企氏と頼朝の間に出来た落胤が島津氏の初代になると言われています。埼玉県比企郡を根拠地として活躍した比企氏は滅亡しましたが、薩摩藩主島津氏(公爵)を始めとして多くの支族が叙爵されました。

・伊東氏(桓武平氏)

頼朝に味方した伊東氏一族が勲功により明治を迎えて叙爵されました。
特に飫肥藩主伊東祐帰(子爵)を始めとして、薩摩藩士であった伊東祐亨(子爵)は海軍連合艦隊司初代令長官となり、伯爵にまで登りつめます。

・平山氏(西氏(日奉氏(物部氏)))

平山氏は武蔵七党の日奉氏の支族です。日奉氏は物部氏の子孫であり、前述迄の一族とは一線を画す本質的な名家です。物部氏は、蘇我氏(馬子)と対立し、主流一族は滅亡しましたが、一部の氏族は生き残りました。物部氏は日本人古来の縄文系豪族であり、大和朝廷の成立に多大な貢献をして、皇族を自身の氏族の根拠地である大和に迎え入れた貢献をしています。数百年後、朝鮮渡来系氏族である蘇我氏に屈しましたが、各地(特に武蔵)にその血脈を残しました。
平安時代初期、古代物部氏一族である日奉氏が国司として武蔵府中に赴任し、役が解けた後も都へ戻らず、東京都日野市東光寺近辺に移住して府中の西側に土着した為、西氏を名乗ります。その西氏の一部が、日野市平山で興したのが平山氏です。挙兵時から頼朝に味方し、一の谷での勇戦は有名です。
後刻、西氏、平山氏は筑前や筑後、肥後に封地替えになり、一族の多くが九州で明治を迎えました。その中、平山成信が男爵に列せられています。同じように、日高見の最期の覇王、阿弖流為と闘った物部氏の子孫である入間氏は頼朝に早くから味方しましたが、鎌倉期に衰退しました。入間氏は奈良東大寺の大仏建立に貢献した埼玉県入間市近辺を根拠とした物部氏族(蝦夷)でした。ちなみに平山氏と並んで比較されるのは熊谷氏(桓武平氏)ですが、一の谷の合戦後当主の熊谷次郎直実が出家してしまい、埼玉県熊谷市の領地は無くなりました。


近年では、大戦中硫黄島で奮戦したロス五輪馬術金メダリストの西竹一大佐は、武蔵七党の西党子孫を辿っているとの家系図が公表されており、西氏から出た平山氏の親氏族となる西氏出自です。念のため、父親の西徳二郎も著名です。

・斯波氏(清和源氏足利流)
鎌倉期の足利泰氏が岩手県志波に土着して志波(紫波:斯波)氏を名乗り、嫡流は断絶したものの加賀藩前田氏の家老で血脈を保ち明治を迎えました。
そして室町幕府開府の功臣であった斯波氏末裔を称して男爵に列せられました。

・畠山氏(桓武平氏/清和源氏足利流)

武蔵七党桓武平氏秩父氏の支族であるのが畠山氏です。
埼玉県深谷市畠山に移り住んだ秩父氏が畠山を名乗りました。
ご承知の通り、頼朝挙兵時に早くから畠山重忠が参戦していましたが、後刻北条氏に滅ぼされてしまいます。重忠の妻(北条時政娘)が足利義純と再婚し、畠山氏を再興した為、清和源氏足利流として再興され存続します。家柄から徳川幕府に高家として迎えられ、子孫は男爵に列せられました。



総括
 明治期に華族として生き残った氏族は、圧倒的に源頼朝に味方した勢力の子孫が多いです。これは、頼朝が鎌倉幕府を開き、その後の武家社会の礎を築いた結果、坂東武者の家臣団の多くがそれぞれの地域で地盤を固め、有力な武家として存続したことを示しています。

出自の多様性:
 華族となった氏族の出自は、清和源氏や桓武平氏だけでなく、宇多源氏、藤原氏、公家、さらには古代の物部氏など多岐にわたります。これは、源平合戦が単なる「源氏vs平氏」の戦いではなく、様々な出自を持つ東国武士たちが頼朝の下に結集して西国の朝廷勢力と主導権を争った、という点が裏付けられています。
 興味深いのは、蘇我氏によって嫡流が滅ぼされた物部氏ですが、乙巳の変(昔大化の改新と言われたもの)で滅亡した蘇我氏の子孫が続いていないのに(戦国期に四国を統一した長曾我部氏は蘇我氏の子孫)、物部氏は続いている、という事でしょうか。

爵位の差:
 華族の爵位(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)は、主に江戸時代の石高や勲功によって決められましたが、血脈や、過去の歴史上の貢献も重視されました。大江氏や比企氏の子孫である毛利氏、島津氏が公爵という最高位を得たのは、江戸時代を通じて大藩の藩主として大きな力を持っていただけではありません。

また、源平合戦ならぬ、東西合戦は、西の渡来系傀儡大和政権に実験を奪われた東国日高見の日本人たちが、実権を取り戻した、という意味では大変意義深い東西合戦だったと評価できます。

東西合戦をきっかけに形成された武家社会の構図が、明治維新後の近代国家の貴族階級にまで影響を与えていたことがよく分かります。