古事記の記載と、実際に歴史的に起こったことなどを組み合わせると、存外な内容であるとは言えない記載内容であることが判る。

 

歴史的な事実と偶然の一致かも知れないが、パズルのように符号していくと妙に一致することが多いのだ。

 

特に樺太や北海道を経由し、北方から日本列島に入った、現モスクワ東近辺に居たウラル・アルタイ語族の一派は、遠くシベリアの大雪原を越え、日本語話者民族として日本列島にアイヌ系に比べて後から入ったのだが、冒頭彼らの視点から見ると尚更一致する点が多い。

 

それを少し纏めて古事記を俯瞰してみよう。

 

 

 

新訳:古事記

まず最初の神である伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の解説。

 

2人が一緒であった、という解釈は、厳しい氷河期で不毛の大地だった日本列島と大陸が地続きであり、日本海が内海であった時の伝承だと理解する。

どうやら石器時代もかなり早い段階から既に言葉があった、と今は考えられている様なので、所謂口頭伝承で長い間語り継がれて来た話だろう。素晴らしく正確で驚くばかりだ。

 

先般訪れた青森県の「世界遺産大平山元遺跡」はこの時代の人類定住跡遺跡びっくり

 

その後、今から1万年ほど前になると、温暖な時代が到来して八島(ヤシマ=日本列島)が誕生することになるのは自然科学的にも事実。つまり縄文海進のことだ。

 

ちなみに八島は北海道、東北、関東、中部、近畿、中国、四国、九州かと思っていたが、古事記にしっかりその対象が記載されていた。

 

八島(ヤシマ)

 ①淡路島

 ②四国

 ③本州

 ④壱岐

 ⑤九州

 ⑥壱岐

 ⑦対馬

 ⑧佐渡

 

陸続きであった大地は、縄文末期の温暖化による海面上昇により島々に変えて姿を現し、神話とは言え、口頭伝承で見事にその歴史的事実を描いている。

 

これで大地は出来た訳だから、ここに最初に入った人類が何であるかを記録しているのが冒頭だ。

 

伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)は、最初に蛭子(ヒルコ)を生み出し、西の海に流す。手足の無い肢体不自由さを持つ表現が何を指し示すのかは判らないが、これは

 

 蛭子(ひるこ えびす)

 

と表記されるが、

 

 恵比寿(えびす)

 戎(ジュウ えびす)

 胡(コ えびす)

 

とも表記されることを忘れてはならない。

 

古来中国の思想で、異民族を区別する時に、北は「狄(テキ)」東は「夷(イ)」西は「戎(ジュウ)」南は「蛮(バン)」としていたが、西から海洋を超えて最初に日本列島である八島に入ったのが、南方海洋民族であるアイヌ系民族。

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約4万年前に南西諸島から入って来たと考えられる所謂湊川人を中心とした人類。国立科学博物館とハーバード大学の共同研究ではその60%のDNAが縄文人に伝わったことを導き出し、縄文アイヌ系から現代日本人へは10%のDNAが伝わっている為、以下湊川系人類のDNAは約6%が現代日本人に引き継がれている。

【化石から復元した精密復元頭部】

 

遅れて八島に入ってきたのは、現ロシアのモスクワ東付近を根拠としていたウラル・アルタイ語族。遠くからシベリアの大雪原を超えてやって来た日本語を話す民族だ。

これは19世紀イヌイットの写真だが、これに近しい恰好をして来たに違いない。

 

その姿を模した青森県亀ヶ岡遺跡の土偶を宇宙人とする馬鹿げた都市伝説をマスコミも煽ったが、実際は雪原に反射する紫外線から目を守るための遮光器を着けたウラル・アルタイ語族の姿をそのまま形にしたものであろう。

 

北方から陸地を伝って既に北海道、東北に入って来た遮光眼鏡を掛けたウラル・アルタイ語族は日本語を母語とする民族だ。

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もしかしたら、北海道船泊遺跡で発見された縄文人が紀元前2,000年頃のものなので、ウラル・アルタイ語族の日本語を母語とする人類の姿は次の船泊人の様だった可能性があるのかも知れない。DNA的に、現フィンランド人やハンガリーのマジャール人と近しい彼らは、二重まぶたで色白、目の色は薄茶で堀も深くがっしりとした強靭な体躯を持つ。

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ウラル・アルタイ語族から見て、西側に位置したアイヌ族は、日本語で表現すれば当に「戎(ジュウ)」、つまり、蛭子(えびす)なのだ。

 

ウラル族は、太平洋側を南下し、日本海側を北上したアイヌ族と真逆の方向を進んだ。ウラル族は、あっという間に八島に拡がり、ついには西南諸島宮古にまで達した。

 

この古事記は、ウラル・アルタイ語族の日本語を母語とする古代東北縄文人の視点で語られていることを基本原則とすべきであることが冒頭で読み取れる。

 

これは遺伝的バランスを自然科学的に見れば、人文学的視点だけで否定することはできないだろう。

 

次のDNA調査は国立科学技術博物館とハーバード大学の縄文期の遺骨共同DNA調査の結果である(黄色:朝鮮人系 緑:アイヌ系/ウラル・アルタイ語族)。

アイヌ系民族が九州以南琉球と東日本に分断されていることが非常によく判る調査結果。

 

話を戻すが、歴史的な自然科学上の痕跡と古事記の記述は、ここ迄見事に一致させることが可能なのだ。

 

そして古事記には次の出来事として、伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の子に、火の神である加具土命(カグツチ)を生み出して劫火に焼かれたことを記述している。

 

これは驚くべきことに、歴史的事実を正確に口頭で伝承した証左と考えられる。

 

今から遡る事7,300年前。紀元前53世紀

鹿児島県南方、世界史上最大規模であるアホカヤの終末破局噴火が実際に起こっている。

所謂鬼界カルデラの終末破局噴火である。

 

摂氏500度の灼熱火砕流は九州を全域を蔽い、西日本から縄文人として分布したアイヌ族を琉球と中国四国地方に分断した。

 

また、この出来事で、今まで夫婦の様に交流の合った八島と朝鮮半島の交流をも絶った。

 

伊弉諾(イザナギ)と伊弉冉(イザナミ)の別れの記述である。

 

黄泉の国(朝鮮)から逆切れした伊弉冉(イザナミ)に襲われた伊弉諾(イザナギ)は、海によって八島と朝鮮を隔てた。

 

朝鮮は八島の人を1日1,000人殺し、八島は1日1,500人人を生み出す、ということは朝鮮半島との戦争を示唆している可能性もあるが判らないが、八島と朝鮮半島の絶縁を示唆していると思われる。

 

しかし。

残存アイヌ一族は生き残り、西日本から火砕流の劫火に焼かれてほぼ絶滅したかに思われたが、山陰の一部に逃れた彼らは、古代「出雲國」を造っていく。一方別のアイヌ族の一派は更に東へ東へ、更に北へ北へと日本海側沿いに移動していく。

⇓島根県の観光情報サイトに、出雲のアイヌ語由来が説として解説されている。

 

 

東日本では人口が増加し、豪族による小国が多数発生し、ゆるやかな国家間連合を築き日髙見國を形成していくことになるのはこの時期であろうか。

 

そして長期間西日本全域に人類の入った痕跡は残っていない。

 

朝鮮半島から我々の大多数の遺伝的先祖となる、朝鮮半島系の弥生人(一重まぶたでヒラメ顔で華奢)が九州北部へ入ってくることになる。彼らは大陸の進んだ文化を持ち込んだことできっと優位性を保ったに違いない。

 

弥生人と定義されるであろう朝鮮人は、紀元前1,000年ほどに入って来たと考えられる(人骨遺物は見つかっていないが、弥生式土器、農耕の痕跡は多数見つかっている)。

 

古事記の話に戻すとこの頃、まだ伊弉諾(イザナギ)が健在である。

 

ウラル・アルタイ語族である日本語を母語とする民族は、関東地方を中心地としたゆるやかな豪族連合を構成していたのは触れたが、その中心域が現在の茨城県、千葉県北部であった。

 

現代でも神社の一番大切な大詔には、日髙見國の話が出てくる。香取、鹿島は神道で最も大切な社なのだ。

 

つまりこの時代に既に存在した日本最古の神社が日髙見國その所以であり、今現在でも神社庁が事実上頂くトップ2の神社である揺るぎない事実がその根拠だ。相当な後世、後付けで伊勢神宮も加わるが。各神社の古さは、各神社の公式サイトでご自身で調べると、如何に香取、鹿島が別格であるかが理解できるだろう。

 

伊弉諾(イザナギ)は、九州北部での朝鮮半島から鉄器を持った朝鮮人との戦いに敗れ、多くの人命を失い、関東に還ってみそぎをするシーンが、古事記に描かれている。

 

伊弉冉(イザナミ)つまり、朝鮮人とのとの戦闘だ。

 

追撃されて落ち延びる様子を描いた伊弉諾(イザナギ)の黄泉の國からの逃避行だった。

 

穢(けが)れを落とす禊(みそぎ=風呂)で、左目を洗うと天照大神(アマテラスオオミカミ)、右目を洗うと月読(ツクヨミ)、鼻を洗うと素戔嗚(須佐之男:スサノオ)が生まれたとある。

 

敗北してから力を溜めた後に出て来た3人の英雄のことなのか、それとも強大な日髙見國の中心国家3つなのかは判らない。後者の方が適切か。

 

伊弉諾(イザナギ)は、高天の原(関東)は天照大神(アマテラスオオミカミ)、関西は月読(ツクヨミ)、と分割して託し、統治させることになった。

 

しかし不満を持ったのが海、即ち瀬戸内海を有する中国地方を割り当てて支配することを求められた素戔嗚(スサノオ)。

 

海に関連することで中国地方ではないかと仮定すると合致するが、素戔嗚(スサノオ)の封地として割り当てられた中国地方を中心として、素戔嗚(スサノオ)と天照(アマテラス)の戦いが描かれている。

 

これは豪族国家連合である日髙見國東西の内乱を記録したものだろう。

 

もしかしたら、正史『三国志』の中にある、「魏志」の別枠となる「東夷伝」中の「倭人」条に描かれた倭国の大乱かな、とも思ったが、記録内容はもっと後世の争いのことだから違う。

 

素戔嗚(スサノオ)はしきりに黄泉の国(よみのくに)の母 伊弉冉(イザナミ)に逢いたい、と言っていることから、朝鮮人との盟約を希望し、実際に何らかの支援を得ていたのではないかと推定される。

 

この戦乱は九州を除く八島全土に暗い影を落とし、着々と力を着けていたアイヌ族の「出雲」の仲介で、各地の豪族を集めた一大国際会議のようなものが開催されて休戦が協議されている。

 

即ち、八百万の神々が、天照(アマテラス)と素戔嗚(スサノオ)の戦いを収める為に協議した八百万神の会合を当て嵌めることができるのだ。

 

この結果、素戔嗚(スサノオ)が爪を剥がされ、髭を剃られて日髙見國から出雲に追放された、と話が進んでいく。

 

素戔嗚(スサノオ)はアイヌ族の出雲に亡命でもしたのであろうか。

 

同時期、日髙見國から月読(ツクヨミ)も追放されている。

 

出雲国では西方から朝鮮人の侵攻を受け続けており、8方向から侵攻する北九州朝鮮人(吉野ヶ里などの勢力でしょう)の軍勢を武力で防いでいたが、押され気味だったところを、素戔嗚(スサノオ)によって防衛に成功する。

 

朝鮮人に酒をふるまって油断させて討ち取った事象を描いているなど、謀略を織り交ぜた記録が当に八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治の記載そのものになる。

 

その後、素戔嗚(スサノオ)が、須賀の地(島根県雲南市)に要塞を構えたが、その時の詩まで古事記には記載される。

 

 八雲立つ

 出雲八重垣 妻籠こみに

 八重垣つくる

 その八重垣を

 

八重の垣根を巡らせる一大要塞で出雲を防衛する拠点を詠んだと思われることが直ぐ判る。ちなみに、この詩、日本最古の短歌となるが、意味も漫ろに口頭伝承されたのだろうが、よくもここまで残ったものだ。

 

一方で位置関係であるが、この須賀の地は、出雲の南東だ。

 

朝鮮人に備えるなら西側だろう。

南東側は、畿内方面なのだ。

 

これが何を意味するのかここ迄お読みの皆様にはすぐお判りであろう。

 

一方、高天の原だが、これは特定の地域を断定するには至らないが、我が国の地域伝承で、5つの候補地があるそうだ。

 

 筑波山(茨城県)

 赤城山(群馬県)

 秩父(埼玉県)

 丹波山地域、多摩地域(東京・山梨)

 奈良邪馬臺近辺の山々(奈良県)

 

詳しくはリサーチしていないが、丹波山の伝説や多摩の伝承は邪馬臺國建国後の伝承が多いし、秩父もどちらかと言うと宝登山など日本武尊(ヤマトタケルノミコト)伝承の方が色濃く同じであることから、筑波、赤城のいずれかになるのではないか。

 

更に、『漢』の後漢時代の光武帝「劉秀」の時代に編纂された「後漢書」内の「東夷伝」に記載された國として候補にでもあり、「国造本記」に記載されたり、何といっても巨大前方後円墳「天神山古墳」があることからも古墳時代に至るまでに強大な勢力があったことに疑いが無い赤城山近辺の古代毛野國が有力では無いかと考える。そうすると古代毛野國を中心としていたのか。地名は残っていないが、毛野國の名は鬼怒川(けぬがわ:きぬがわ)として発音が伝わっているので群馬県から栃木県南部一帯のことだと考えられる。

 

因みに千葉・茨城・群馬・埼玉の古墳の数の合算は、関西の数の比ではない。千葉だけで14,000基、群馬だけで13,000基もあるのだ(日本で一番多いのは圧倒的に兵庫県ではあるが)。

 

大和朝廷が成立して古墳時代に入ると前方後円墳がスタンダードになるが、日髙見國のそれは、前方後方墳であり、時代ごとの分布状況で、邪馬臺と日髙見の勢力境界で線を引ける。

 

いずれにしてもこの北関東一帯が高天の原ではないか、と考える。茨城からも近いし。

 

畿内奈良の高天の原伝承は、話の筋からしても唐突過ぎるし無理がある為、やはり却下の対象だ。

 

いずれにしても朝鮮半島から進んだ文明の利器を用いた人種の侵略に対応する必要があった豪族の国家間連合だった日髙見の國だったはずだ。

 

朝鮮渡来系弥生人(朝鮮人)一重でヒラメ顔で華奢

【朝鮮系弥生人精密復元胸像】

古事記は素戔嗚(スサノオ)の子に稲穂(イナホ)の神と穀物(コクモツ)の神を生んだことを記載している。

 

素戔嗚(スサノオ)が愛する妻と出雲で生活したことが記載されるが、これは日本古来の神である素戔嗚(スサノオ)が、奇稲田姫(クシナダヒメ)を妻に迎えたということで、豪族国家間の婚姻による連邦制構築の過程も示していると思われる。

 

奇稲田姫(クシナダヒメ)は、武蔵氷川(埼玉県さいたま市大宮)の姫として祀られているが、実際は九州渡来系朝鮮人であり、かれらに素戔嗚(スサノオ)が内通していたことを示している可能性が高いと考える。

 

その子どもが稲穂の神と穀物の神、ということは稲作をする人種、つまり朝鮮系渡来人である弥生人を受け入れた(生み出した)ことを言っている様なのだ。

 

素戔嗚(スサノオ)は、この時に天照(アマテラス)に草薙の剣を献上していることから、九州に渡って来た渡来系朝鮮人が、素戔嗚(スサノオ)を通じて臣従か国家連合へ受け入れられ、その朝鮮人勢力が日髙見に所属したことを示しているのだろう。

 

進んだ文化を持った渡来系朝鮮人が何故ウラル・アルタイ系日本語を母語とした人種に所属したのかはやはり人口の埋めがたい差だったであろう。

 

関西以西の人口は、関東以東の人口に比べると紀元前後になってもその半数に満たず、1/10以下であった可能性も否定できない。

 

平安末期の記録が有名だが、広さも申ことながらもっとも経済的に豊かであったのは陸奥の地であったことが数値的に証明できる。

 

だから夛田頼朝は脅威に感じ、しかも夛田義経を擁する平泉藤原氏を滅ぼしたのだ。以降東北地方は荒れていくことになるのだ(源氏の正統な血統は無いので、源姓は使用しないで苗字を使用して表現する)。

 

いずれにしても古事記の話は進み、その素戔嗚(スサノオ)の子孫に古事記の肝となる「大国主命(オオクニヌシノミコト)」が誕生する。

【青森県佐井港に展示される大国主之命】

 

古事記ではここから日髙見連合に従わない豪族たちとの戦いを描いており、「因幡の白兎」の話になると、大国主(オオクニヌシ)とオオナムチの婚姻で国々が大混乱に陥り戦乱状態となった西日本を取り扱っていると思われる。

 

ここで違和感に気付く。

高天の原(日髙見)視点から急に現場の西日本(九州)視点に代わって描かれるように続くのだ。不自然すぎるのだ。

 

恐らくはここからが、九州に勢力を張った渡来系朝鮮人系統視点に変わったのだろう。

 

朝鮮人は九州に渡ってきたが、現地で話されていた日本語を、ウラル・アルタイ語族から教えてもらい、日本語話者へと変革した文化転換があったと考えられる。でなければ現代の日本は独自に発展した朝鮮語を話している筈である。

 

九州朝鮮人主要勢力(恐らく邪馬臺國(ヤマト)勢力だろう)は、何度も負けながら高天の原(日髙見)の力を得て生き返るが、劣勢は変えられない。つまり戦っているのは同じ同胞の朝鮮人勢力や、日髙見に従わないウラル族やアイヌ族であろう。

 

大国主(オオクニヌシ)は死んでは日髙見の力で生き返るを繰り返す姿を描く。

 

ここで死者の国「根の堅洲國(ねのかたすこく)」へ向かえとのお告げにしたがうのだが、最初黄泉の国だったが、表現が変わった朝鮮半島の国家を示すと考えられる。

朝鮮政権が黄泉の國(よみのくに)から、根の堅洲國(ねのかたすこく)に権力が変わったことを示しているのであろう。

 

根の堅洲國でスセリビメに出会った大国主の命は、スセリビメの父である素戔嗚(スサノオ)から様々な試練(というか攻撃)を受けるが、様々な攻撃を色々な先進的な考え方で切り抜け、遂に戦乱の世(北九州)を鎮めることになった。

 

日髙見の神々が主語であれば自動な「与える」になるが、それが受動の「受ける」になっている為、大きな表現転換が行われていることに注目しなければならない。

 

いつの間にか視点が変わっている。

 

主導的な役割を担う国家が、日髙見から邪馬臺(ヤマト)に移ったということなのだろう。

 

だが古事記である、これでは神々皇統の正当性を訴えることが出来ない。

 

そして、古事記では遂に武御雷(タケミカヅチ)によって事代主(コトシロヌシ)が信濃の諏訪まで追い詰められた、と記載され、出雲を追われたアイヌ族は、同族の支配する諏訪に落ち延びた歴史的事実を記録している。

 

飛騨神(ひだかみ)國経由で落ち延びたようだが、飛騨高山経由で諏訪へ落ち延びたということか。

 

出雲国のアイヌ族が、大国主(オオクニヌシ)勢力に降伏したことを記録しているのだ。更に無血開城降伏の代わりに出雲大社を創建することが描かれている。最後の戦闘が回避された、ということだろう。

 

だから、なのだが旧暦の10月は神無月とも言うが、出雲と諏訪のみ神在月と言うのはその名残り。

 

そして遂に、渡来系朝鮮族の視点に変わった古事記は、今まで臣従して来た高天の原の日髙見國の権力を譲り受ける、國譲りの話へと繋がっていく。

 

渡来系朝鮮人の勢力(恐らく邪馬臺(ヤマト))は、瓊瓊杵(ニニギ)の代になり、

 

「この地(九州)は韓国(からくに)に面しており、笠沙の岬(鹿児島県)へと真っすぐな道が通じ、朝日が昇り、夕日が明るく照る素晴らしい土地である。」

 

として三種の神器を天照(アマテラス)から譲り受けることになり、瓊瓊杵(ニニギ)が天孫降臨として5人の神と日向の国へ降り立っていくことになる。

 

これを関東から船で日向に渡った日髙見の皇族であると主張しているのは東北大学の田中名誉教授らだが、あくまでも個人的な説の範囲を出ないであろう。

 

これが國譲りであるが、瓊瓊杵(ニニギ)一派は、もしかしたら渡来系朝鮮人の力を得た、日髙見國の一派なのかも知れないというのはあり得るだろう。

 

一応私の考えとしては、日髙見の勢力を凌いだ渡来系朝鮮人勢力が瓊瓊杵(ニニギ)の一派であろうと判断したい。

 

平和的に日髙見から皇統を受け継いだことを創作したものであろうが、実際に日髙見の豪族たちから著しい支援と援助が特定の朝鮮系勢力にあり、強力な支援があったと考えるのが自然だと思う。

 

後世になり、秩父の宝登山で日本武(ヤマトタケル)が火攻めに逢って壊滅しそうになった時、犬戎(ケンジュウ)一族が日本武を助け出したという伝説がある。日高見の豪族連合は崩れ、邪馬臺(ヤマト)に各個撃破、乃至吸収合併されていったのだろう。武蔵のワカタケル大王に隷属した豪族、早くから邪馬臺(ヤマト)に連合していた毛野國などそれぞれだ。

 

兎に角、日向に国を作った瓊瓊杵(ニニギ)が、日向国初代国王となる。

 

猿田彦(サルタヒコ)が比羅夫(ヒラフ)族に挟撃されて阿邪訶(アジカ)の海(伊勢湾と思われる)で敗れ、戦死した話がここに続く理由は判らないが、同じ時期に起こっていた戦乱を記録したものと理解しておこう。

 

瓊瓊杵(ニニギ)には3人の皇子がいたが、その長男:海幸彦(ホテリ)、三男:山幸彦(ホオリ)の話は、鹿児島県を中心域にした兄弟の間違えなく後継者争いの記録だ。

 

長兄を服属させた火折尊(山幸彦:ホオリ)は二代目日向国王となり、妻との間に日向国三代目国王となる鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)という皇子が生まれた。

 

そして鸕鶿草葺不合(ウガヤフキアエズ)には4人の皇子が出来たが、その末っ子として生まれたのが、神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)なのだ。

【青森県佐井港に展示される神倭伊波礼毘古】

古事記はこの神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)の誕生で終わる。

 

神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレヒコ)は、3本の脚を持つ八咫烏(ヤタガラス)に導かれて東側の豪族を討ち従える東征に出発する。

 

この神倭伊波礼毘古(カムヤマトイワレビコ)は後の初代天皇である「神武天皇」その人であった。

 

日向を日高見に向かう國、とする考えは言い過ぎか。現宮崎には、日高見という美味い酒もあるようだ。何故だ?

 

以上

 

 

※この新訳は、独自の解釈を相当入れて都合よく解釈した部分も多く、全く嘘ではないけど、強引なところも相当あることをご承知ください(笑)

 

 

 

 

ストックネタの放出劇でした。