No.164 福岡県朝倉寺内の美奈宜神社・再考
(笹竜胆紋は五三桐紋の隠し紋か?)
宮原誠一の神社見聞牒(164)
令和3年(2021年)02月13日
神功皇后と羽白熊鷲戦争について、福岡県朝倉地方を中心に、過去のブログNO,28~32 において述べています。
羽白熊鷲(はしろくまわし)戦争は前期が仲哀神功軍との戦い、仲哀帝死後の後期が開化神功軍との戦いに分けられます。
上秋月の愛宕神社前付近の「椿の森」で決戦が行われ、敗れた羽白熊鷲は今の寺内ダム付近に後退し、羽白熊鷲軍は矢野竹に陣取り、皇軍は西の小高い山・喰那尾山(くいなをやま・栗尾山)山頂に陣を置き、寺内ダム湖付近の荷原(いないばる)で最後の戦闘が行なわれています。
決戦が行われた愛宕神社前付近の「椿の森」が層増岐野(そそきの)である、と現地では言われています。羽白熊鷲は戦死後、その墓は寺内ダムの付属施設「あまぎ水の文化村」の「せせらぎ館」前右に新たに造られています。(古くは「せせらぎ館」建地にあったという)
倭国大乱に次ぐ大戦争は終結し、三奈木川のほとりの「池辺」にて両軍の戦没者の供養が、仁徳天皇によって行なわれました。伝承では、池辺に神籬(ひもろぎ)を建て、戦勝を奉告したとあり、この池辺の神籬が喰那尾神社の起源であり、後の明治期に美奈宜神社と社名が変更されます。
No.28 神功皇后が戦勝祈願した筑穂内野の大根地神社 平成29年(2017年)10月23日
No.29 第1次羽白熊鷲戦争と小郡市の御勢大霊石神社 平成29年(2017年)10月26日
No.30 大分八幡宮と神功皇后と開化天皇 平成29年(2017年)10月30日
No.31 羽白熊鷲の終焉と寺内の美奈宜神社 平成29年(2017年)11月05日
No.32 林田と寺内の二つの美奈宜神社 平成29年(2017年)11月06日
羽白熊鷲の残党戦が行われた所が、筑後川北岸の林田蜷城(ひなしろ)であり、そこにも美奈宜神社が鎮座です。寺内の美奈宜神社と祭神も創立由緒も異なります。
寺内の美奈宜神社 福岡県朝倉市荷原2421
「No.31 羽白熊鷲の終焉と寺内の美奈宜神社」平成29年(2017年)11月5日
https://hama-sush-jp.pro/kenbuncho2017/entry-12325468000.html
今の秋月カントリークラブの南の小高い山・喰那尾山(くいなをやま)山頂の皇軍陣跡に大宝元年(751)喰那尾神社が「池辺」から遷宮し、現在の美奈宜神社の古宮(上宮)となっています。
秋月カントリークラブのゲートの正面に鳥居が新設され、階段を登って、左に登り進むと上宮の社殿に出ます。鳥居の扁額には「喰那尾大明神」と書かれています。
上宮の喰那尾神社
境内神社由緒板によると、創立由緒には「羽白熊鷲討伐は三神の助である」と書かれていますが、「三神の助」は林田の美奈宜神社の由緒と重なります。
林田の美奈宜神社の三神とは素戔嗚尊(中)、大己貴命(大国主 右)、事代主命(左)となっていて寺内の美奈宜神社と異なります。元々創立由緒が異なるので祭神も異なると思うのですが。
寺内の美奈宜神社の祭神は神社由緒板によると、
天照皇大神(中) 住吉大神(左) 春日大神(右)
相殿に神功皇后・武内宿禰を併せ祭る
とあります。
最後の羽白熊鷲討伐は開化天皇・神功皇后軍ですから、祭神・武内宿禰は開化天皇の置き換えでしょう。
開化天皇・神功皇后は本殿右の上宮の宮地嶽神社に祀られています。
福岡県神社誌による祭神は、天照大神(中) 住吉神(左) 春日大神(右)となっています。
これが本来の寺内の美奈宜神社の三神でしょうか?
本殿の屋根の外削ぎの千木と鰹木五本は、主祭神が男神であることを示します。
主祭神の天照大神と合いません。
女神の天照大神は羽白熊鷲と関係ありませんし、羽白熊鷲討伐とも関係ありません。
すると、主祭神の男神とは、どの神様を言うのでしょうか?
寺内の美奈宜神社の古宮は喰那尾神社です。
神社は3回の遷座があり、当初は「池辺」、次に「喰那尾山」、次に「大宮谷」と移り、現在の荷原字寺屋敷2421に遷座しました。
そして、明治の初期、喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更しました。
林田の美奈宜神社の由緒略記
神庫に蔵める美奈宜神社考証に曰く。
下座郡林田村に祀る神、中殿・大己貴命、東殿・素戔嗚尊、西殿・事代主命なり。
同郡荷原村に栗尾大明神社あり。その祭る神、神功皇后、住吉大神、武内宿禰なり。あるいは、春日大明神、天照大神なり。
皇后、蜷を集めて城となし、熊襲を城誘い、熊襲を討つ故、蜷城の和称なり。
末永虚船著、筑前早鑑に述ぶ。栗尾社を式内美奈宜神とするは偶々失考せるものなり。
明治の初期、三奈木喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更せり。
喰那尾の名称の意味ですが、喰(くい)とは杭であり、柵を意味し、新羅征討の折の開化天皇・神功皇后軍の討伐に関係します。それで、開化天皇・神功皇后を祀ることになります。
那尾(なお)は正八幡大幡主の名称に関係してきます。長尾、中尾等も関係します。
また、羽白熊鷲の先祖様は正八幡大幡主です。
拝殿の向拝には、立派な龍の彫刻です。主祭神は海神です。
また、神社が鎮座する「荷原 いないばる」の意味ですが、「いないばる」は伊奈(委奴)の神がいます小高い山という意味で、「伊奈(委奴)の神」は大幡主です。
「三奈木 みなき」という地名も関係する響きがあります。
「奈」に因み「奈良」の異表記として
異表記として那羅・平城・寧楽などがある(読みは全て「なら」)
平城(高貴な城)、平原(ひらばる)は高貴な岡という意味です。
那良(古事記)、
那羅・儺羅(日本書紀)、 「羅」とは縦横規格されたという意味
寧、寧楽
がありますが、これらは大幡主に因む言葉です。
伊奈は伊国(倭国)の御柱、倭の大国魂神=正八幡大幡主、
安寧天皇は正八幡大幡主で、大幡主の諱(いみな)は磯城津彦(しきつひこ)です。
以上からすると、本来の寺内の美奈宜神社の三神は、主祭神・大幡主、開化天皇・神功皇后(左右)と推察します。
参考 ブログ「まにまに」 奈多宮 2020年12月25日
https://hama-sush-jp.pro/may-199704/entry-12642423848.html
『奈』は「からなし」とゆう果樹を意味する漢字です。「からなし」は漢字で「唐梨」と書き、バラ科のカリンの別名とされ、古くはベニリンゴを表す名称としても使われます。
『奈』は本来、「木」と「示」をくっ付けて出来た、「だい」という文字でした。
「示」はお祈りなどの神事で使われる文字で、「大(木)」は大地を覆う大きい木を表すことから、「神事に用いられる果樹」を意味するようになりました。
福岡市奈多の地名の由来は、「波が常に立ち、波がたちやすい国」ということから、「奈多」になったと考えられています。
※奈多宮の祭神も正八幡大幡主です
寺内の美奈宜神社の本殿
寺内の美奈宜神社本殿右横の境内社
左から天満神社、大神宮、宮地嶽神社
寺内の美奈宜神社の社紋(神紋) 笹竜胆紋
■笹竜胆紋は五三桐紋の隠し紋か?
大幡主(国常立神)の紋章は亀甲、五三桐、竹、笹、桔梗、篭目紋、五弁唐花紋 等ですが、五弁唐花紋・桔梗紋は五芒星の隠し紋、六弁唐花紋は六芒星の隠し紋となります。
私の実家の福岡県田主丸町柳瀬村の
柳瀬家は正八幡大幡主を奉斎する桔梗紋です。
永松家も正八幡大幡主を奉斎する二重亀甲紋です。
寺内の美奈宜神社の主祭神が正八幡大幡主であれば、神紋は「五三桐」紋か「二重亀甲に五三桐」紋となります。
寺内の美奈宜神社の社紋神紋は笹竜胆紋(ささりんどうもん)です。
この神社を訪問するたびに??神紋はおかしいと思ったのですが、笹竜胆紋が五三桐紋の隠し紋と想定すれば納得がいくのです。
実際に主祭神・大幡主は隠されています。表向きの主祭神は天照大神です。天照大神で祭神表示は無難ですが、天照大神は本殿右横に境内社として祀られていますが、寺内と羽白熊鷲には関係ありません。羽白熊鷲と系統的関係があるのは大幡主と大国主です。
また、笹竜胆紋は源頼朝の源氏の紋ですが、源頼朝が鶴岡八幡宮を祀ることと関連がありそうです。鶴岡八幡宮の祭神は応神帝八幡神ではありません。
※鶴岡八幡宮から想定されることは、
男山八幡宮祭神は正八幡大幡主、豊玉彦八幡神となります
美奈宜神社に関係する神様は神功皇后で、神紋は五三桐紋ですが、神功皇后は本殿右横の上宮摂社として宮地嶽神社に祀られています。
本殿の屋根の外削ぎの千木と鰹木五本は、主祭神が男神であることを示します。
よって、五三桐紋=笹竜胆紋は正八幡大幡主の神紋でしょう。
馬見山-羽白熊鷲墓-林田美奈宜神社の祭祀線
■林田の美奈宜神社と馬見山を結ぶ祭祀線
馬見山-羽白熊鷲墓-林田の美奈宜神社は祭祀線上にあり、大幡主と大国主が関係します。 この祭祀線は大国主の祭祀線とみています。
林田の美奈宜神社の創立由緒は、新羅征討の折、「船中にて、三神に将軍の治要を祈られ、異族を討平げ、肥前杵島郡高橋の津に上陸の時、三神の宣助により、山中に薬湯を見出し給い、軍兵の創傷を癒し疲れを直したり。」とあります。この三神を祀った神社が林田の美奈宜神社です。
「No. 32 林田と寺内の二つの美奈宜神社」平成29年(2017年)11月6日
https://hama-sush-jp.pro/kenbuncho2017/entry-12325751223.html
林田の美奈宜神社 福岡県朝倉市林田210
祭神 大己貴命(大国主 中) 素戔嗚尊 (右) 事代主命(左)
その三神が素戔嗚尊、大己貴命(大国主)、事代主命ですが、大己貴・事代主と素戔嗚尊の組み合わせは相性が良くありません。大己貴と事代主の二神は熊襲の祖神であり、素戔嗚尊は神功皇后の祖先神ということになりますが、長髄彦の倭国大乱では敵味方の関係になります。
この神社でも大幡主の祭神隠しが行われたとみています。大幡主が素戔嗚尊に取って変られたのでした。
船中で航海安全戦勝等を祈願するのは、航海の神様、海神・大幡主ファミリーです。
祭神・素戔嗚尊を大幡主と入れ替えると納得がいきます。
林田の美奈宜神社の祭神は大幡主・大国主・事代主と大幡主ファミリーだったのです。
※大国主の神紋について
大国主の神紋は「二重亀甲に剣花菱」紋です。剣花菱紋は九州王朝第二期の護衛家系が使用されます。その護衛隊長が大国主でした。紋周りの二重亀甲は大幡主ファミリーを意味します。大国主は豊玉彦(大幡主の嫡男)の姫君・田心姫(たごりひめ 豊玉姫)の入り婿で大幡主家系を継がれました。二重亀甲剣花菱紋は、これらの意味が込められています。
林田の美奈宜神社の社紋は九枚笹紋で、筑後川流域では大幡主家系が使用される紋です。
また、現在、筑後川を隔てた左岸(南)には正八幡大幡主を祀る恵利八幡神社が田主丸町恵利に鎮座です。(No.152 恵利八幡神社(福岡県田主丸町)とクマモトさん 2020年9月14日)
古代、筑後川は恵利の南を通っており(現在の古川)、林田の美奈宜神社とは地続きでした。そのため古社は美奈宜神社と行き来があり、美奈宜神社と関連神社でした。恵利八幡神社の獅子舞は林田の美奈宜神社と同じ様式です。
大幡主の関連神紋
大幡主の副神紋と云うべき竹に関する紋
寺内の美奈宜神社境内の金明孟宗竹
境内の金明孟宗竹も正八幡大幡主に因みます2020-05-17
金明孟宗竹
黄金竹とも呼ばれる。生育地は福岡県、他に高知県に一部ある以外、他の地では見られない。この竹は珍しい品種で天然記念物として指定されている。
金明孟宗竹は、安曇磯良が守り神である久留米市の高良大社にも成育しています。安曇磯良の曾祖父が正八幡大幡主です。
久留米市の高良大社参道南横の金明孟宗竹 2018-05-03
■参考資料 美奈宜神社(寺内) 境内神社由緒板
福岡県朝倉市荷原2421
式内 美奈宜神社
祭神 天照皇大神(中) 住吉大明神(左) 春日大明神(右)
相殿 神功皇后 武内宿禰 を併せ祭る
由緒
第14代仲哀天皇は白髪山(しらがみやま 古処山)を本城とする敵「羽白熊鷲」を討つため軍を進められていたが、途中病気で急逝、しかし、神功皇后は喪を秘して武内宿禰らを従えて喰那尾(くいなお)山頂(ここから北西200m)の地で陣を敷き謀議の末、賊を討たれた。
これはお告げをうけた三神の助であるとして美奈宜川上「池辺」(ここから東へ300m)の地で戦勝奉告をされた。
後に仁徳天皇(神功皇后の孫 嫡男)の勅願により「池辺」にこの神を祭るようになった。(西暦312年頃)後世ここを「本宮」という。
遷宮
1.大宝元年旧9月22日(西暦751年)喰那尾山頂の陣跡へ
2.元弘3年(西暦1333年)大宮谷(ここから100m上)へ
3.天正2年11月(西暦1574年)領主秋月種実の頃現在地へ
神領50町。神官・僧侶36人仕えていた
社格
貞観元年正月27日(西暦859年)「従五位上」という位を給う。これは「三代実録」の文中に見える。また延喜式10巻神名帳(西暦920年頃の書)に「筑前国下座郡美奈宜神社三座」名神大と記載あり。
祭礼 十月二十二日の「おくんち」には獅子、羽熊等お供約200人の御神幸行列が
今なお行はれている。
福岡県神社誌 美奈宜神社(寺内)




















