宮原誠一の神社見聞牒(032)
平成29年(2017年)11月06日

No.32 林田と寺内の二つの美奈宜神社


1.二つの美奈宜神社
寺内の美奈宜神社と朝倉市には、もう一つの美奈宜神社が朝倉市林田210 に同名の神社として鎮座する。
林田の美奈宜神社も、「延喜式」神名帳の筑前国下座郡の「美奈宜神社三座」と記載されている。祭神は大己貴命(中)、素戔嗚尊(右)、事代主命(左)で主祭神は大己貴命(大国主)である。
寺内の美奈宜神社は主祭神が「天照大神」、林田の美奈宜神社は主祭神が「大己貴(大国主)」である。寺内の神社は勝者関係「天津神」を祀り、林田の神社は敗者関係「非天津神」を祀る。
美奈宜神社の社号の起源についてみてみると、羽白熊鷲戦争によって、寺内の美奈宜神社と林田の美奈宜神社は共に、大国主と羽白熊鷲が基底にあり、同じ起源を持っている。
地名からの起源は林田の「蜷城」の地名から来ている。
地名の読み方が、蜷城(になしろ) → ニナキ → ミナキ と訛っている。この「ミナキ」が漢字で「三奈木」「美奈宜」が当てられた。社伝に「蜷ミナ」を「美奈」と訓(よ)む、とあり、好字が使用されている。
「三奈木」は寺内の地名として残り、「蜷城」は林田の地名として残っている。
「美奈宜」は神社名として両神社に使用された。

「蜷城(ひなしろ)の名の由来」蜷城地区振興会 福岡県朝倉市林田
皇后、九州の悪者退治の時、潮干玉を使って川の水を枯らし、川蜷に頼んで一晩のうちに城を作り、今度は潮満玉を使って一度に水を入れ、水攻めにて滅ぼすようにと、神告を受られる。川蜷が守った里をニナシロと呼び、ニナシロがなまってヒナシロとなった、と云う。

「九州の悪者退治」とは羽白熊鷲の残党軍であろう。
「蜷」は「杭・柵」の置き換えであり、「蜷城」は「柵の城」という意味である。
残党軍との戦いの伝承が、新羅征討の時の「干珠満珠」の伝説話と似通っている。この掃討の時期は新羅征討後ととれるが、新羅征討は羽白熊鷲戦争終結以後と考えられるので、新羅征討時の干珠満珠の説話と残党軍征討の話が混合されている。
蜷城地区は筑後川近くの平坦地である。距離も寺内から約10Kmと相当に離れている。ということは、羽白熊鷲の匈奴熊襲領域は旧朝倉郡一帯となり、平野部、山間部とかなり広い領域を支配していたことになる。

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2.林田の美奈宜神社
林田の美奈宜神社の福岡県神社誌中巻の記述は9段に及ぶ。全ての記載を紹介するのは、ここでは割愛させていただき、神社の案内神社略記から紹介。

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 所在地  福岡県朝倉市林田210
      福岡県旧朝倉郡蜷城村大字林田字大蜷城
 祭 神  大己貴命(中)、素戔嗚尊(右)、事代主命(左)

由緒の前半には羽白熊鷲の件は記載されていない。その後の神功皇后の新羅征討の話しから展開している。福岡県神社誌の由来記には羽白熊鷲の件は記載されている。
神社由来記では、皇后は航海中、船中で大己貴命、素戔嗚尊、事代主命の三神に戦勝を祈願された。海上つつがなく船は新羅に着き・・(中略)・・勝利を収め高橋の津に凱旋された。その後、戦争に勝利を祈られた三神を祭られた。その神が美奈宜神社の三神である。

この林田の美奈宜神社の由緒では、新羅征討軍船は勝利し、有明海廻りで一時、肥前武雄の高橋の津に寄港している。新羅征討軍船は有明海に入り、武雄の高橋に寄り、ここで軍卒の傷病の温泉湯治を行っている。その後、大川の後の風浪宮がある榎津に上陸。その後、大善寺に戻っている。
注目すべきは、神社由緒で、新羅征討軍船が有明海に帰ってきた、ということだ。香椎宮のある博多湾ではないのだ。このような由緒を具体的に記述した神社は、林田の美奈宜神社のみであろう。(風浪宮、大善寺玉垂宮の寄港・帰港は別にして)

戦勝を祈願された三神が、大己貴命、素戔嗚尊、事代主命であること。大己貴・事代主と素戔嗚尊の組み合わせは相性が良くない。大己貴と事代主の二神であれば匈奴熊襲の祖神と納得するのだが、素戔嗚尊は神功皇后の祖先神でもあるということに起因しているのであろう。
林田蜷城は風浪宮、大善寺玉垂宮から筑後川を上流にはるか上った所にあり、更に、神功皇后を祀っている柳瀬・玉垂神社の4Km上流にある。その離れた神社に神功皇后と新羅征討の由緒が残っていると云うことは、林田の美奈宜神社に風浪宮・大善寺玉垂宮・高良玉垂宮の神官が由緒を伝承したのではなかろうか。
「蜷 にな」の付く地名は新羅征討後の神功皇后に関係したことが多い。
福岡県田主丸町の旧蜷川村には、神功皇后を祀る黒島神社があり、その東隣の旧三井郡大橋町の蜷川村には、創起566年の片淵神社(荒霊宮)と八幡神社がある。八幡神社の古宮は玉垂神社であり、玉垂命、若宮・大鷦鷯尊を祀り、皇后ゆかりの神社とみる。そして、ここ旧下座郡蜷城村の美奈宜神社である。「蜷」の付く地名を見かけたら、新羅征討後の神功皇后がからんでいると見たほうがよい。

次に、福岡県神社誌中巻の林田の美奈宜神社の由緒記述は9段に及ぶが、私なりに解釈省略した略記を紹介。

神功皇后摂政二年(202)下座郡官郷林田の宮地に新祠を創る。
神功皇后、新羅を征し給う時、三神(大己貴命、素戔嗚尊、事代主命)の宣助あり。凱旋の後、三神を蜷城大明神と称して祀り給う。
「蜷」の訓みを「美奈」とす。故に、美奈宜とするは蜷城の和称なり。
皇后の御船、肥前国の高橋に着き給う時、三神垂迹の地を定める。下座郡宗廟として祭祀す。

皇后、新羅征討の折、船中にて、三神に将軍の治要を祈られ、異族を討平げ、肥前杵島郡高橋の津に上陸の時、三神の宣助により、山中に薬湯を見出し給い、軍兵の創傷を癒し疲れを直したり。

宗像神社縁起、文安元年副本に曰く。皇后、熊襲討殺は筑前蜷城と申す所、これなり。

神庫に蔵める美奈宜神社考証に曰く。
下座郡林田村に祀る神、中殿・大己貴命、東殿・素戔嗚尊、西殿・事代主命なり。
同郡荷原村に栗尾大明神社あり。その祭る神、神功皇后、住吉大神、武内宿禰なり。あるいは、春日大明神、天照大神なり。

皇后、蜷を集めて城となし、熊襲を城誘い、熊襲を討つ故、蜷城の和称なり。

末永虚船著、筑前早鑑に述ぶ。栗尾社を式内美奈宜神とするは偶々失考せるものなり。

明治の初期、三奈木喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更せり。


「皇后、蜷を集めて城となし、熊襲を城誘い、熊襲を討つ故、蜷城の和称なり。」とあり、羽白熊鷲の残党軍と戦い、掃討したことが記されている。

また、「末永虚船著、筑前早鑑に述ぶ。栗尾社を式内美奈宜神とするは偶々失考せるものなり。」「明治の初期、三奈木喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更せり。」とあり、栗尾神社を式内美奈宜神社とするは失考だと言っている。そして、三奈木の喰那尾神社の社号を美奈宜神社と変更したのは明治の初期とも言ってる。

しかし、寺内の美奈宜神社「延喜式」神名帳には筑前国下座郡の「美奈宜神社三座」と記載されていて、神社名は喰那尾神社あるいは栗尾神社とも書かれていなくて、美奈宜神社と記載されている。
時間の流れが合っていない。明治の初期に「延喜式」神名帳を書き換えたとでもいうのであろうか。

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式内社
延喜式神名帳に記載された神社、「延喜式の内に記載された神社」の意味で延喜式内社、または単に式内社(しきないしゃ)といい、一種の社格となっている。朝廷から官社として認識されていた神社をいう。また、延喜式神名帳には祭神名や由緒などの記載はない。
神名帳に記載がない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や独自性を持った神社(大国主、素戔嗚系、熊襲系など)が多い。
その他に、「式内社を受け継いでいる可能性がある神社」という意味での「論社」がある。


3.大国主の神霊流を遮断する寺内の美奈宜神社
馬見山→羽白熊鷲の墓(水の文化村)→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社が、地図上でラインがつながっている。(伊藤まさ子管理人「地図を楽しむ・古代史の謎」の「12羽白熊鷲と古処山」2011-10-03)
寺内の美奈宜神社は主祭神が「天照大神」、林田の美奈宜神社は主祭神が「大己貴(大国主)」で、寺内の神社は勝者関係「天津神」を祀り、林田の神社は敗者関係「非天津神」を祀る。そして、寺内の神社は戦勝記念神社の性格を持つ。林田の神社は匈奴熊襲、熊鷲の鎮魂の神社の性格を持つ。そして、新羅征討後の皇后関係に重点を置く。
林田の神社と馬見山(大国主)の間に建つのが、寺内の美奈宜神社である。間に立ち入って、大国主の神霊流を遮断している。と言って、「いじわる」と取られそうだが、寺内の美奈宜神社が良くないという訳ではない。そういう位置にあるというだけの解釈。
そもそも、神社がどうして、その位置に建つのか、深く考えたことがない。歴史的出来事があり、その近辺に建立されるのは理解できる。しかし、最終的に、その狭い範囲の位置に選定される経緯がわからない。

神社を見て、すぐに気づく場合もある。例えば、福岡県北野町石崎区の日吉神社の参道は本殿からみて、鳥居を通り、高良山の高良大社の神殿に向っている。これにより、古宮は玉垂神社であることが想定できる。石崎の氏子さん達は高良大社と結びつく過去の経緯があり、高良大社の50年越しの御神幸祭の行列には、要員として手伝いを要請されるという。(もともと50年に1度、御神幸祭が開催されていたが「継承が困難」との理由で規模を短縮。前回は20年ぶりに2012年10月に開催された。改修工事が終わり、改修記念として来年2018年10月14日に開催が決定されている)

寺内の美奈宜神社の場合、3回の遷座で、現在の社殿がある。当初は「池辺」、次に「喰那尾山」、次に「大宮谷」と移り、現在の荷原字寺屋敷2421に位置する。そして、ライン上に乗る。偶然とは思われない。何か強い意図が働いていると思う。

余談になるが、九州の式内社(しきないしゃ)の性格として(全ての式内社を指すものではないが)、式内社は式外社間の神霊流を遮断する隠れた役目がある、と聞いたことがある。寺内の美奈宜神社はその関係にあるのであろうか。
馬見山→寺内の美奈宜神社→林田の美奈宜神社が、地図上でラインがつながっている。
余りにも乗りすぎである。
ただし、平面地図は球面座標の位置を変換して作られる。よって、平面地図上のラインと地球面上のラインはきれいに一致しないことに注意。

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平面地図の作成方式
平面地図は球面座標の位置を変換して作られる。今使用している国土地理院の地図はUTM座標変換である。UTM変換は距離の正確さに重点が置かれる。よって、平面地図上の直線と地球面上の直線はきれいに一致しない。
その他に、海図に使用され、方位の正確さに重点を置くメルカトール変換地図。
天気図等に使用され、図形の正確さに重点を置くステレオ変換地図が有名である。