倭姫命の船による巡幸イメージ画像
(AIによる生成画像)






◆ 「阿蘇ピンク石」 ~海を渡った棺~ (32)







もともと難解なこのテーマ。

さらに厄介な氏族にアプローチしようと、
無謀にも首を突っ込んでしまいました。

「船木氏」です。

何度も何度も挑んでは跳ね返され、
体調が芳しくない日もあったり…とで

記事を完成させるのに
大変な日数がかかってしまいました。

決して机上の敬神活動を疎かにしていたわけではなく、
ただひたすら格闘を繰り返していたのみです。



■ 船木氏を再び

既に第19回目の記事にて、船木氏が「阿蘇ピンク石製」石棺のとりわけ水運に大きく寄与したであろうことを書きました。

ところがもう少々、船木氏に就いて書いておきたいという思いが沸々と…。

これはこの後、記していくとある氏族との関連も踏まえて…ということでもあるのですが。

なるべく本テーマ「阿蘇ピンク石製」石棺に関わることを中心にするよう心がけるつもりではいますが、少々風呂敷を広げて…。



◎「船木氏」の始源

「船木氏」とひとくちに言っても、全国に分布しており、そのすべてが元々一氏族が移住、分岐したものであるのか?或いは同名を名乗る氏族が多くあるのか?そしてそれが混乱に乗じて同じ氏族だと謳っているのか?等々…多くの課題が山積。

「船木氏」という氏族の典拠と成り得る資料が致命的に枯渇しているため、この氏族を紐解くのは甚だ困難なのです。それでも先達による丁寧な作業が実を結び、あらゆる議論がなされる土俵には上がっているように思えます。

この記事を以て、この氏族に対する自身の現状の一応の到達点としたいと思います。もちろんこの程度で終えようなどとは微塵も感じておりませんが。


[摂津国住吉郡] 住吉大社



さて…「船木氏」という氏族に対して、依拠でき得る最大かつ貴重、希有な資料は「住吉大社神代記」。

先ずこの資料にどれほどの信憑性があるのかという問題に就いてを記しておかねばなりません。
成立時期は天平三年(731年)としていますが、これが事実ではないと武田祐吉氏等が論破しており、実際はおそらく9世紀末~10世紀末頃に成立したとみられています。或いはその頃に大幅に改変や追記がなされたものかと。

内容は住吉大社の神官である津守氏が、住吉大社の縁起を記したもの。神祇官に言上げした解文(公文書)。記紀神話を採用しつつも、他にはない独自の伝承をも盛り込んでいます。

解文である以上は一定の信用を以て受け入れられる書として捉えてよいのではないかと。もちろん記紀神話そのものが「神話」という創作物。しかも不整合と思われる点も多々見受けられるのですが。

該当箇所の原文を取り上げておくことにしましょうか(半角スペースのみ当方にて追加)。「膽駒神南備山本記」(一部)と「船木等本記」(全文)の二つの項に表されています。

*「膽駒神南備山本記」(必要箇所のみ抜粋)
━━大八嶋國天下奉出日神者 船木遠祖大田田神也 以此神造作船二艘 [一艘木作 一艘石作] 為後代驗 納置膽駒山長屋墓 石船 白木坂三枝墓 木船矣━━

「大八嶋國天下奉出日神者」というところを訳しておかねば、あらぬ方向へと話が進みかねない?ま…「杞憂」なのか?

(「杞憂」という言葉を生まれて初めて使ってみた…)


「大八嶋國天下」とはもちろん天照大神のこと。「奉出日神」とは「日出づる神(天照大神)を奉るのは…大田田神」ということ。

先にも記したように神祇官へ提出した「公文書」。自家の大祖をそのようにご報告差し上げるのは、ゴマゴマすりすり~。


大田田神が船木氏の遠祖であると記されています。そして多くは大田田神は大田田根子のことであろうと。これは「船木等本記」のところで触れます。


大田田神が二艘作ったうちの一艘は「木製」、もう一艘は「石製」。
「木製」は腐敗で現存しないのでしょう。およそ2千年を経て残像するのは奇跡中の奇跡としか言いようがありません。
「石製」はもちろん残るでしょうが、それでも移動・加工・流用等の憂き目に遇うことがしばしば。古代そのままに場所を変えず、方法も変えずに現存するのは、奇跡中の奇跡中の奇跡…とでも言うべきでしょうか。

「膽駒神南備山(いこまのかむなひやま)」を何処に比定するのかは、なかなか厄介な問題。多くの研究者、或いは現地の地理等を詳びらかに熟知する郷土史研究家等から、幾つかの見解がもっともらしく提示されています。


「膽」とは「肝」のこと。身体の意義でも、心の意義でもあると思います。回りくどい言い方をしましたが、「肝要」と言えばご理解賜れますでしょうか。

もちろん「駒」は「馬」のこと。古墳時代に日本へ流入したとするのが定説。既に私自身には弥生時代に伝来している伝承を幾つか保有しています。何処とは公にはできかねますが。甚だ身勝手ながらも当ブログに於いては、既に弥生時代には流入していたとの前提で進めております。余談となりました。


大田田神が造ったという石製の船が、後代に「長屋墓」に納め置かれたとあります。これは平群郡の長屋王墓のこと。石室材として使われたのでしょうか。


長屋王は妃の吉備内親王とともに「生駒山」に葬られたと、続紀の神亀六年(729年)条にあります。

江戸時代の文献や伝承等から、平群の梨本にある円墳2基が各々長屋王墓吉備内親王墓に治定されました。山とは言えず、なだらかな丘陵地といったところ。しかも今で言う「生駒山」とはずいぶん離れた地(現在は生駒郡平群町)。おそらく「生駒山」という固有名詞ではなく、「生駒の山」と解釈すれば当地も含まれます。


長屋王の墓がなぜ「平群(へぐり)」に築かれたのか、直接的な所縁はありません。この地域を支配していたのは平群氏。それと平群氏と祖を同じくするという紀氏(紀朝臣系)
平城京内の長屋王邸跡から出土した木簡に、平群氏が出仕していたことを示唆するものがあるようです。


*「船木等本記」(全文)

━━右 昔奉出日神宇麻呂 鼠緒 弓手等遠祖大田田命 兒神 田田命奉出日神 即所領此杣山也 而氣長足姬神功皇后時 誅伏熊襲國 并新羅國征時 大田田命 神田田命 伐取己所領山岑樹 而造船三艘 本造舩者 乘皇后并大神臣八腹 次中腹赤造舩者 乘日御子等 次末造舩 御子等并大田田命 神田田命 共乘渡征 即有大幸 祈禱天神地祇在驗 大幸還上賜  其御舩 令奉齋祀武內宿禰 志麻社 靜火社 伊達社 此三前神也 即大田田命子 神田田命子 神背都比古命 此神者 天賣移乃命兒 富止比女乃命娶生兒 先者 伊瀨川比古乃命 此神者 伊瀨玉移比古女乃命娶坐 此伊西國(*1)舩木在 又次子 坐木西川比古命 此神 葛城阿佐川麻之 伊刀比女乃命娶坐生兒 田田根足尼命 此神 古斯國君坐 兒止移奈比女乃命娶 坐生兒 乎川女乃命 又次馬手乃命 又次口以乃命 此三柱者 古斯乃國君等在 牟賀足尼命 此神者 嶋東乃片加加奈比女乎 娶坐弖生兒 先兒女郎女 次田乃古乃連 次野乃古連 次尾乃連 次草古乃連 兄在兒女郎女者 神直腹娶入 次田乃古連 和加倭根子意保比比乃命乃王子 彥太忍信命兒 葛木乃 志志見乃 與利木田乃 忍海部乃刀自乎娶坐弖生兒 古利比女 次久比古 次野乃古連此者 高乃小道奈比女娶岐 更田田根足尼乃命乃時 仁大波 富不利相久波利支 息長帶比女乃御時 爾大八嶋國乎事定了 彼時奉齋大禰宜 賜汗麻比止內足尼命 又津守遠祖 折羽足尼子手瑳足尼命 又船木遠祖田田根足尼命 此三柱相交矣

自巻向玉木宮大八嶋知食御世 至于巻向日代宮(*2)大八嶋食知氣長足姬比古御世 二世者 意彌那宜多命乃兒 意富彌多足尼仕奉 [津守宿禰遠祖也] 於是舩司 津司任賜 又處處舩木連被賜 [但波國 粟國 伊勢國 針間國 周芳國] 右五箇國 從爾時 舩津官名負仕奉 穴戶豐浦宮(*3)大八嶋國所知食氣長帶比古皇后御世 熊襲二國乎平賜支 斯時仁 筑紫國橿日宮天皇(*4)坐弖 水波方國乎平賜 氣長足比女乃命 此二所天皇御世 折羽足尼乃兒 多毛彌足尼仕奉支 於是 住吉坐大御神之前乎 任而祭治來在支 自其時 大神乃前乎 隨神之御願令忌 一帶須比女乃命 住吉大神舩邊坐奉弖 辛國仁渡坐弖 方定進退鎭給弖 辛嶋恵我須須己里乎召弖 即還行幸坐 自筑紫難波長柄仁依坐弖 大神御言以宣波久 吾者玉野國有大垂海 小垂海等仁祀所拜禮牟止宣弖 膽駒乃嶺仁結行支 即是乃人等 令奉仕給弖 奉於大御社者也 此者 彌麻歸入日子之命止者 大日日命御子也

志貴御豆垣宮御宇天皇(*5) [六十八年 以戊寅年崩 葬山邊上陵] 此御時 天都社 國都社定始賜 山乃石門開香乃東曰縱 南曰橫 男乃御調 女乃手末御調乎定賜 而初國所知食之天皇(*6)也 活目入彥命(*7)者  彌麻歸天皇(*8)子 巻向玉木宮大八嶋國御宇五十三年辛未崩 葬菅原伏美野中陵 天社者 伊勢大神 住吉大神━━


(*1) 伊西國 … 伊勢国

(*2) 巻向日代宮 … 第12代景行天皇の宮

(*3) 穴戶豐浦宮 … 穴戸(穴門)国(後の長門国、現在の下関市)にあった第14代仲哀天皇の行宮

(*4) 橿日宮天皇 … 仲哀天皇

(*5) 志貴御豆垣宮御宇天皇 … 第10代崇神天皇

(*6) 初國所知食之天皇 … 崇神天皇

(*7) 活目入彥命 … 第11代垂仁天皇

(*8) 彌麻歸天皇 … 御間城天皇=崇神天皇


系譜が詳細に記されているのが出色。中身は少々問題もあるのですが…此処では取り上げません。

「大田田命」とは初代大神神社の神主であり、三輪氏(神氏、大神氏)の祖である「大田田根子」のこととされるのを多く見ます。

「粟鹿大神元記」(「一古代氏族の系譜」田中卓の論文内に所収)という書には、三輪君の祖として、「神田田根子命」「大田田祢古命」の名が記載され、父子関係にあるとしています。「住吉大社神代記」の父子関係は入れ替わっているものの、この神名の類似を以て「大田田命=大田田根子」の可能性があると考える説があるようです。
これは「住吉大社神代記」にも「又船木遠祖田田根足尼命…」とあることを合わせた考え。

ところが時代がまったく合わないのです。記紀に於いて大田田根子は周知の通り、崇神天皇により大神神社の初代神主に任命されたことが記されます。しかしながら「住吉大社神代記」では、神功皇后の熊襲や新羅の征討時に三艘を造ったとし、三艘目に乗り込んだとも書いているのです。乗り込んだというのは怪しいものの…崇神天皇と神功皇后との間には、100年前後の違いがあります。また遠祖というのなら、もっと遡った時代でないとおかしい。

また別に大田命(太田命)とみるものもあるようですが、専ら神名が類似するのみで何ら接点が見出だせません。大田命は宇治土公(ウヂトコ、ウヂドコウ)の祖である猿田彦神のこと。

船木氏の遠祖である大田田神は、大田田根子でもなく猿田彦神でもないと考えます。

伊瀨川比古乃命が大田田命の子の神田田命の子、即ち大田田命の孫であるとし、伊勢国舩木に坐す神として登場しています。

「伊賀国風土記」逸文に神武天皇東征時に伊勢の国譲りをした伊勢津彦神と同一人物ではないかとみるものも。伊勢の「安志社(あなしのやしろ)」の社に祀られ、出雲の神の子である出雲建子命、別名は伊勢津彦神或いは天櫛玉命と記載されています。

伊勢津彦神を饒速日命と同神とみる見解も見受けられますが、こちらも時代が合わないし、俄には信じ難いもの。


*記の記述
神武天皇と伊須氣余理比賣命(姫蹈鞴五十鈴媛命)との間の子に、日子八井命・神八井耳命・神沼河耳命(第2代綏靖天皇)の三柱が生まれる。
━━神八井耳命者 意富臣 小子部連 坂合部連 火君 大分君 阿蘇君 筑紫三家連 雀部臣 雀部造 小長谷造 都祁直 伊余國造 科野國造 道奧石城國造 常道仲國造 長狹國造 伊勢船木直 尾張丹羽臣 嶋田臣等之祖也━━


神八井耳命を祖とする全19氏族が挙げられていますが、「伊勢船木直」もそのうちの一氏族。これ等氏族はすべて「意富臣」(後に「多朝臣」)氏と同族。

結局のところ、「伊勢船木直」は「多朝臣」と同族とみなしてよいかと思われます。




◎「船木連」と「伊勢船木直」


よく注意してみると…「住吉大社神代記」は「船木連」と記し、「古事記」では「伊勢船木直」とあります。

これは異なる氏族とみなければなりません。ところがネット上などでは、ひとくくりに「船木氏」として安易に語られています。これにはメスを要れる必要があるでしょう。


ヤマト王権に於いて、「連」姓を名乗る氏族は、主として中央の有力豪族でした。一方で「直」姓を名乗る氏族は、主として国造家等の地方豪族。一部の渡来系氏族にもみられます。


天武天皇十三年(684年)に「八色の姓」制定の詔があり、大幅な改姓が行われました。従来の「臣」「連」の中から皇族に近しい氏族を抽出し、「真人」「朝臣」「宿禰」を賜姓し、「臣」「連」の上に置きました。これは天武天皇が強力に進めた皇親政治の一環のもの。紀には改姓した全氏族が記載されていますが、もちろんこの時に「船木連」の改姓はありません。


祖を同じくするのであれば、同族とみなすことも可能。また冠位を除き同じ氏族名でもあるなら、血縁関係もあるのかもしれません。問題は「船木氏」と、ひとくくりにでき得るほどの近しい関係であったのかどうか。


非常に好例とも言えるのが、この阿蘇ピンク石」石棺「のシリーズ記事でもお馴染みの「紀氏」。「紀直」(紀伊国造家)と「紀朝臣」があり、ともに紀伊国名草郡に本拠地を置いていたと思われます。ところが祖神はまったく異なるため、これはまったくの異なる氏族であり、赤の他人レベルのもの。


ですが…もう一度「ところが」という接続詞を用います。「紀朝臣」系の屋主忍男武雄心命(ヤヌシオシオノタケヲゴコロノミコト)が、「紀直」系の影媛を娶り武内宿禰が生まれました。以降、管見し得る系図に於いては両氏族が入り交じり、嫡子不在の場合はもう一方から補充するといった間柄になっていたと考えられます。


同族以上に同族であった…などと言うと語弊が起きてしまうでしょうか。一方の後裔は中央で華々しく活躍し(武内宿禰、葛城襲津彦等)、一方は専ら当主が代々日前神宮・國懸神宮の神官を担う氏族(紀伊国造家)となったのです。正反対の道を歩んだなどと言ってしまっては過ぎるでしょうか。従って「紀朝臣」系の紀氏と、「紀臣」系の紀氏との間柄は、同族でありながらも異なる氏族として一般的に捉えられているように思います。


此方の両者の関係を追うことに就いては、比較的資料が存在しているように思います。ところが「船木氏」に就いては致命的に資料が枯渇しているのです。ですからいかようにも解釈してしまうのは非常に危険であると考えます。




◎「船木氏」の本貫地


伊勢国朝明郡に、近年まで「伊勢船木直」の末裔が社家を継いでいたという耳常神社(未参拝)があります。


*耳常神社(四日市市下之宮町)

「伊勢式内神社検録」で御巫清直は、当社に就いて以下を記しています。

━━船木氏人上古広永下之宮二村建置シテ其地二往、祖神、広永村耳利神号、通俗ニハ上社或上之宮、下之宮村耳常神社、通俗ニハ下社或下之宮━━

また船木氏の分家である西脇氏が、「船木大明神」と称して代々社家を務めたと伝わります。


「後拾遺往生伝」(保延三年・1137年)という書に於いては、船木氏の朝明郡に存在する記述が確認できるようです(國學院大學 「古典文化学」事業より)


赤のポイントが耳常神社。


また國學院大學 「古典文化学」事業は以下も示しています。

━━「大日本古文書」正倉院編年文書之三・天平二十年(748年)四月二十五日付写書所解の条に、朝明郡芦田郷に居住していた船木東君は臣姓を称しており、これが伊勢船木直の後裔氏族のひとつである可能性は高い━━


さらに「続拾遺往生伝」という書には、垂坂山観音寺という仏教施設は、船木良見が帰依して良源となり建立したとあるようです。


*多気郡「船木」

伊勢国多気郡に「船木」という地名が残ります(現在の「大紀町船木」)。ネット上では此方こそが「船木氏」の本貫地であるとする情報が飛び交っています。私自身もそれを鵜呑みにしていました。


ところがこれはおそらく間違いであることを最近になって知りました。此の事が此の記事を上げる最大の理由となったのですが。


ネット上やユーチューブ上の素人がもっともらしく語っているのは、非常に危険であることをあらためて思い知らされました。もちろん非常に有益な情報も多いため、自身で確認を取ることが重要。それを怠っておりました。


この地は下に示した地図のように、近くに瀧原宮が鎮座します。伊勢神宮の「別宮」であり、天照大神の御霊が鎮められ、後に現在の地へ遷座されたとも言われます。「宮川」を下っていた倭姫命が、急流で踏みとどまっていたところに真名胡神が現れ助けたという「三瀬の渡し」があり、真名胡神への御礼に建てたという御瀬社(現在の多岐原神社)も近くにあります。

ともに倭姫命の巡幸の船による説話を伴っており、船木氏が関わっていたのではないかとも思えるもの。これが早合点した理由の一つ。


ところが「舟木氏系図」(慶長八年・1603年)に拠ると、多気郡「船木」の地名は貞治二年(1363年)に南朝方の舟木頼尚が入植したことに由来するとされています。後代の史料ではあるのですが。


赤の破線で囲まれたところが「船木」。
舩木神社も鎮座しています。


[伊勢国度会郡] 三瀬の渡し



*伊勢国多岐郡仁田「佐那」
伊勢国多岐郡仁田の「佐那」(現在の多岐郡多岐町「仁田」)という地を、船木氏の根拠地とするものもネットにはあります。

どうやら船木氏の祖を天手力男神とみなし、所縁の地を探ったのでしょうか。この地は記の天孫降臨段に「手力男神者 坐佐那那縣也」とあるその比定地。天手力男神を祀る佐那神社が鎮座します。この社に就いては、日子坐王の孫である曙立王を祖とする佐那造が祖神を祀っていたものとみられます。後から天手力男神を祀る氏族が入植したのでしょうか。先住していたとは考えにくいですが、明確ではありません。
また船木氏が水銀採掘の職掌を持つという可能性を添えての見方のようです。ただしそれ以上の根拠は示されていません。

船木氏の祖は天手力男神でないことは明白。紀朝臣氏や大伴氏、久米氏等が遠祖と崇める神であり、これはまったく頂けないもの。


[伊勢国多岐郡] 佐那神社


*伊賀国阿拜郡「穴石」
「伊賀国風土記」逸文にみえる伊勢津彦神を、大田田命の孫とされる伊瀬川比古乃命とみなすものがあると先に記しました。同書には「伊勢の安志社(あなしのやしろ)に坐す」と記されています。
伊賀はかつて伊勢国の一部だったものが分離独立しています。「伊勢の安志社(あなしのやしろ)」に比定されるのは、伊賀国阿拜郡の穴石神社

此方もネット上では何の疑いもなく船木氏の根拠地であるかの如く語られていますが、先に示したように此方も受け入れ難いもの。


[伊賀国阿拜郡] 穴石神社



◎倭姫命と「船木氏」


上記のように倭姫命巡幸の際に、大いに貢献したと思われるのが「船木氏」。大和を経ち険しい山中の宇陀、伊賀国を越えて近江国入り。琵琶湖の畔の「坂田宮」辺りから以降は平地へと巡幸先が一転します。この辺りで「船木氏」が欠かせないパートナーとなったのではないかと思うのです。


以降は美濃国、尾張国を経て南下。伊勢国の朝明郡等を経て瀧原宮に鎮まりました。

ルートから鑑みて「伊勢船木直」がそのパートナーとなったのではないかと考えます。


ところで渟名城入姫命の時代には、「奈久佐浜宮」「名方浜宮」といった紀伊国名草郡へ巡幸しています(「名方浜宮」は備州に比定する説あり)。この時は「船木連」がパートナーとなったのかもしれません。



[近江国坂田郡] 元伊勢 坂田神明宮




◎「船木氏」の展開


実は「伊勢船木直の後裔氏族」を追うのが甚だ困難なのです。「住吉大社神代記」には「船木氏」の系譜は詳細に記されているものの(系譜そのものも怪しい箇所が所々見受けられる)、その展開先が詳かに記されていません。

全文を原文にて紹介したのはこれがその理由。私情を挟まないようにしました。


本貫地であろうと思われる伊勢国朝明郡には、上記のように代々社家を務めた…と有力な資料はあるものの、展開先、即ち移住先や分岐氏族等の資料に甚だ乏しい状況。それを丹念に研究されている情報を追っても、その後の足取りは乏しくて…衰退していったのか?


この氏族が最も輝いたであろう時というのは…天照大神の御杖代を奉戴して最適な鎮座地を求めた倭姫命の巡幸。次いで神功皇后による熊襲征討や三韓征伐等の出航。随一の造船技術のアドバンテージを遺憾なく発揮したのであろうことは容易に想像されます。

この氏族の進展地等を鑑みると、「水銀採掘」をも職掌としていたようにも見受けられます。「造船」技術と「水銀朱」採掘という、当時の最先端のハイテク事業を担う最大氏族が急速に衰微することは考えにくく、何かあったんか?何かやらかしたんか?と勘繰りたくもなるものです。


「住吉大社神代記」に戻ります。
先ず田田根足尼命・次馬手乃命・次口以乃命の三柱が古斯國(越国・高志国)にいたと記しています。越国(高志国)は越前・越中・越後からなる国であり、広範囲に及んでいるため探索は困難。今のところ「船木」なる地名は見付けられていません。


神功皇后の御世(大八嶋食知氣長足姬比古御世)に、「於是舩司 津司任賜 又處處舩木連被賜 [但波國 粟國 伊勢國 針間國 周芳國] 右五箇國 從爾時 舩津官名負仕奉…」とあります。

意訳すると「船司」「津司」という役職を賜り、また「船木連」という姓を賜り、丹波国・阿波国・伊勢国・ 播磨国・ 周防国に奉仕した…と。

丹波国は丹後国のことでしょうか。既にこの時代には丹波国より分離独立していますが。丹後国竹野郡と丹波郡との境(郡境が曖昧であるためか混同が多い)に「船木」という地名が残ります。その隣に位置するのが奈具神社。「ナグ」は「ナキ」からの転訛かもしません。眼前の「奈具岡遺跡」からは1世紀からの玉類の大工房跡と鍛冶工房跡が発見されています。案外、「伊勢船木連」は此方を経由して伊勢国へと移り住んだ可能性もあるように思います。或いは別系統の船木氏なのか。なお比較的近い場所には名木神社も鎮座しています。


[丹後国竹野郡] 奈具神社



阿波国は不明。

伊勢国がここに含まれています。これを信用するなら、他の何処から伊勢国へ移住したということになります。前後の記述から察するに、「住吉大社神代記」は津守氏が船木氏に配慮して同士だとでも言いたいのでしょうか。

播磨国に就いては、明石郡に「船木村」の他「黒田村」「辟田村」に「船木連」が封戸や田を献上した旨の記載が各所に見られます。
現在の何処に当たるのかざっと見た所では不明。「船上」という地名はあるものの、そもそもは港町であり、此れを以てその名残とはし難いところ。治暦二年(1066年)に因幡国在庁官人の船木範保という者が、住吉大神宮下司職に補任され、魚住庄「江井」等の三村を賜ったとあります(「えいがしま 歴史まちあるき」江井ヶ島文化遺産冊子作成委員会より)。現在の明石市大久保町「江井島」であり、海に面した場所。

また内陸部を見ると、賀茂郡に「船木」という地名が見え、住吉神社(酒見住吉神社)が鎮座しています。由緒は不詳としつつも示されていますが、船木氏との明確な接点は見出だせないもの。

明確な資料としては見当たらないものの、古墳時代に「宝殿山」から伐り出された「竜山石」から多くの石棺が造られましたが、その水運を担ったのが船木氏とみてよいかと思われます。
世界遺産の「古市・百舌鳥古墳群」を始め、想像を絶するほどの膨大な数の古墳が築造されました。これはひとえに船木氏の水運に依拠したものと考えます。

もちろん「阿蘇ピンク石」製石棺を遥々肥国の「宇土」から畿内へ運び込むのは、船木氏に拠るもの。
察するに、造船から航海までを手掛けていたことは、この上ないことではないかと。肥国からの数ヶ月に渡る航海ともなると、「大時化(しけ)」等もあったでしょうし、また予期せぬ転覆の危機などもあったかもしれません。船の構造と特性を熟知し、時には速やかに補修等も行うことができ得る船木氏が携わった故に成り立ったものでしょう。もちろんこの事は倭姫命の巡幸や、神功皇后の三韓征伐・熊襲征討等々に於いて実証済みであったことが重要であったかと思います。

周防国に就いては不明。周防国との境界近くに位置する長門国厚狭郡「船木」(現在の宇部市「船木」)がそれに該当するのでしょうか。

これ等の五ヶ国へ移り住んだ者たちがいたということを「住吉大社神代記」は伝えています。他に検証でき得る資料は無いため、一先ずは史実であろうとします。ただし別系統の「船木氏」が存在すると考えるなら、移住(皆が移り住んだわけではない)ではない可能性も否定はしません。

Wikiでは他に「船木村」として以下を挙げています。

*下総国海上郡(現在の銚子市)
*美濃国本巣郡(現在の瑞穂市)

*備後国沼田郡(現在の三原市船木)

*伊豫国新居郡(現在の新居浜市)


その他よく知られる地としては、淡路国津名郡の舟木石上神社。「太陽の道」上に鎮座していること等から、一躍知名度が上がりました。

磐座そのものを御神体とし、また今もなお女人禁制を貫くという、古代の祭祀形態を残す社。「舟木遺跡」が1世紀前半~3世紀前半のものとみられていることから、その頃から船木氏が住んでいた可能性もありそうです。そうすると大田田命よりも遥かに古い時代のこととなります。或いは別系統の「船木氏」なのでしょうか。



[淡路国津名郡] 舟木石上神社



以上の甚だ不十分な憶測から、「船木連」と「伊勢船木直」とは異なる氏族であると考えます。ただし祖を同じくする同族の可能性は残されるものと。また互いに同じ造船を職掌であったことから、例えば紀氏のような関係であったのかもしれません。



◎「船木氏」と水銀採掘

此方も特にネット上などでよく言われていることですが、その確証が取れるほどの資料やデータが揃っているわけではありません。

「住吉大社神代記」に「其御舩 令奉齋祀武內宿禰 志麻社 靜火社 伊達社 此三前神也」とあります。これは神功皇后による熊襲征討、三韓征伐の際に大田田命と神田田命が三艘の船を造り、遠征にも従軍。成功を収めたことから、武内宿禰に三艘の船を奉斎させたが、それが志麻社靜火社伊達社という三前の神であるというもの。


[紀伊国名草郡] 伊達神社



この三社は紀伊国名草郡に鎮座しています。その地は紀氏が治めていました。紀氏の裔である武内宿禰に奉斎させたので、この地を選んだのは至極当然のこと。
名草郡は「紀ノ川」沿いに栄えましたが、遡上した那賀郡に鎮座するのが三船神社。此方はおそらく「船木連」でしょう、彼等が用材を伐り出す地の一つであったのではないかと考えています。


[紀伊国那賀郡] 三船神社


「紀ノ川」といえば「中央構造線」上にあり、水銀(丹砂)が多く産出されます。さらに遡上した地では水銀の女王とでも言うべき丹生都比賣も祀られます。丹生都比賣神社を始め、支流の「丹生川」沿いには夥しい数の丹生都比賣を祀る神社が鎮座します。これは紀臣(紀伊国造家)と分岐した丹生氏によるもの。
「船木氏」がその船運を担っていたのは間違いないでしょうが、播磨国や美濃国での事例も考慮すると、彼等も水銀採掘に携わっていた可能性もあるかと考えます。


[大和国宇智郡] 丹生神社(伊都郡高野町西富貴)

「富貴(ふき)」という地名は「船木」からの転訛が連想される




少々強引ながらも、まとめに入りましょうか。

「阿蘇ピンク石製」石棺に就いては、紀伊国名草郡を中心に治めていた、大伴氏、久米氏、紀臣(紀伊国造家)、紀伊忌部氏、丹生氏といった祖を同じくする氏族たちが大いに関与したと考えますが、ここに「船木連」を主要メンバーとして加えたいと思います。




今回はここまで。

いやいやいや~
ずいぶんと日数がかかったものです。

記事を作り終えて
少々呆ける時間が欲しいかも(笑)



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