━━封国は偏遠にして藩を外になす。昔より祖禰(そでい)みずから甲胄を擐き(つらぬき)、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は「毛人」を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国━━
日本では古墳時代中期であり、これが最も古い文献に表される「えみし」の表記。
「上表文」ということですから、倭国が提出したものを宋国側がそれを掲載したということ。宋側が前後に合わせて補正を施している可能性はありますが。
おそらくは当時はこの表記が主であり、後に「蝦夷」という字が主流となったのではないかと思われます。
「蝦夷」の字が宛てられたのは、斉明天皇五年(659年)の遣唐使の頃ではないかという説もあるようです。
「新唐書」という中国の書が、貞観二十二年(中国の元号、648年)~長安三年(中国の元号、703年)までの間、日本(倭国)からの朝貢が止まったことになっていますが、この間を埋める記述として「北の大きな山を限りとして、その外は毛人の国なり」とあります。「北の大きな山」とはアルプス山脈でしょうか。
同じ頃の中国の「新唐書」通典に、斉明天皇五年(659年)の遣唐使に連行された「蝦蛦」が「使の鬚の長さ四尺ばかり」とあります。「蝦」の字義は「エビ」から転じて「毛深い」とのこと。記述と合致します。
◎飛鳥時代の「内附」「内属」と「饗」
飛鳥時代になると「蝦蛦」(蝦夷)の「内附」「内属」(=帰順)とそれに対しての「饗」の記述がいくつか見られます。
上記の皇極天皇元年(642年)紀は、「越邊蝦蛦數千内附」(越周辺の蝦蛦数千人が帰順)とあり、後日「饗蝦蛦於朝」(朝廷にて蝦蛦を饗応した)というもの。「内」という字を用いているということは、「外」つまり「外国」という認識であったことが窺えます。
使者「天地の徳を合わせて、自然と平安になることが出来ております」
天子「仕事を執務する卿(まへつきみ=臣下)たちも元気にしているのか?」
使者「天皇が憐憫の情を重ねていただけるので、また元気でいられるのです」
天子「国内は平穏なのか?」
使者「天地を治めており、すべての民に大事はありません」
天子「これらの蝦夷の国はどこの方にあるのか?」
使者「国は東北にあります」
天子「蝦夷は何種いるのか?」
使者「三種類あります。遠いものを都加留(ツカル=津軽)と名付けて、次のものを麁蝦夷(アラエミシ)と名付け、近いものを熟蝦夷(ニキエミシ)と名付けました。ここに連れてきたのは熟蝦夷です。本国の朝廷に入り献上品を貢いでいます」
天子「その国に五穀はあるのか?」
使者「ありません。肉を喰らって生活しています」
天子「国に屋舎(やかず)はあるのか?」
使者「ありません。深い山の中の木の根元に住んでいます」
天子「朕は蝦夷の身面が異なるのを見て驚き、喜び、不思議に思った。使者は遠くから来て辛苦を舐めたろう。退出してからは館裏に居なさい。後にまた会おう」━━(大意)
日本という国は世界的に見て大変特殊な国で、ほぼ単一民族であり、過去に外部から侵食され征服された形跡のまったく無い国。
これのおかげで言葉の行間を読むという、特殊能力を身に付けた民族となりました。「皆まで言わずとも…解るやろ」と。
確かにそうであっても千年以上も経てば、「???」となるのです。当時は当たり前のことであっても年月が過ぎれば「???」に。だから紀には「当時の当たり前」が記されません。
ところが引用した書が、他国の天子に話した内容だったのです。もちろん日本国内と同じように、「皆まで言わずとも…解るやろ」では通用しない相手。一から語っています。おかげで現代の我々が当時を知ることの出来る、大変希少な資料となったのです。
ただしこの書の記述には問題もあり…
高宗が使者の発言を懐疑的に捉えているのです。自国を良く見せるために、「蝦夷」を敢えて卑下して発言しているのではないかと疑ったのです。真相はどうなのでしょうか。これを差し引いて考えねばならないのかもしれません。


