[陸奥国白河郡] 一ノ宮 都々古別神社(八槻)

日本武尊が「八溝山」の東夷を討った際、尊を守護した三神が「建鉾山」に隠れたので、東方に箭を放ち箭の着いた地に創建したと伝わる。 *画像はWikiより







◆ 土蜘蛛 三十五顧 (「蝦夷」編 ~2)





「蝦夷」編の第2回目。

これまで深く学んだことのなかった「蝦夷」。

いろいろな資料や研究書、論文等を学びながら記事を作成していますが、なかなか面白いものです。

学び立てホヤホヤの知識を満載にして
揚々と記事を上げたいと思います(笑)


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■「蝦夷」編 ~2

「えみし」関係の表記は神武東征紀の「愛瀰詩(えみし)」から始まりました。次に景行天皇紀の武内宿禰による東国巡察の後に、「東夷の中に…蝦夷という」と報告した会話に見られるのが「蝦夷」の初見。他に「毛人」という字も宛てられていました。



◎「毛人」

「宋書」倭国伝に「毛人(えみし)」という字が見えます。これは中国の昇明二年(478年)に、倭国から南朝・宋の順帝に差し出された、倭王武(雄略天皇とされる)の上表文に、ヤマト王権の版図を示したもの。

━━封国は偏遠にして藩を外になす。昔より祖禰(そでい)みずから甲胄を擐き(つらぬき)、山川を跋渉し、寧処に遑(いとま)あらず。東は「毛人」を征すること五十五国、西に衆夷を服すること六十六国、渡りて海北を平ぐること九十五国━━


日本では古墳時代中期であり、これが最も古い文献に表される「えみし」の表記。

「上表文」ということですから、倭国が提出したものを宋国側がそれを掲載したということ。宋側が前後に合わせて補正を施している可能性はありますが。


おそらくは当時はこの表記が主であり、後に「蝦夷」という字が主流となったのではないかと思われます。

「蝦夷」の字が宛てられたのは、斉明天皇五年(659年)の遣唐使の頃ではないかという説もあるようです。


「新唐書」という中国の書が、貞観二十二年(中国の元号、648年)~長安三年(中国の元号、703年)までの間、日本(倭国)からの朝貢が止まったことになっていますが、この間を埋める記述として「北の大きな山を限りとして、その外は毛人の国なり」とあります。「北の大きな山」とはアルプス山脈でしょうか。


中国では「体毛の濃い人たち」を「毛人」「毛民」としており、よく使われていた字。倭国がこれを流用したものと思われます。



◎「蝦夷」「毛人」の字義

中国では蔑称であった「蝦夷」「毛人」ですが、倭国(日本)では「勇敢な」という義で好んで人名に用いられていたようです。蘇我蝦夷や佐伯宿禰今毛人(サエキノスクネイマエミシ)、小野毛人 等の名が代表的。なお蘇我蝦夷は「上宮聖徳法王帝説」に於いては、「蘇我豊浦毛人」と表記されています。



◎「蝦蛦」

「蝦夷」と表記される前に、一時期「蝦蛦」という表記があったようです。皇極天皇元年(642年)紀に「蝦蛦」という表記がみられます。同時に蘇我蝦夷も登場しており、明確に使い分けがなされています。この表記は持統天皇の時代まで続いています。
これはおそらく資料元の表記が「蝦蛦」であったからであろうかと思われます。

なお上記の「佐伯今毛人」が「佐伯今蝦蛦」と表記される例もあります。

同じ頃の中国の「新唐書」通典に、斉明天皇五年(659年)の遣唐使に連行された「蝦蛦」が「使の鬚の長さ四尺ばかり」とあります。「蝦」の字義は「エビ」から転じて「毛深い」とのこと。記述と合致します。




◎飛鳥時代の「内附」「内属」と「饗」


飛鳥時代になると「蝦蛦」(蝦夷)の「内附」「内属」(=帰順)とそれに対しての「饗」の記述がいくつか見られます。

上記の皇極天皇元年(642年)紀は、「越邊蝦蛦數千内附」(越周辺の蝦蛦数千人が帰順)とあり、後日「饗蝦蛦於朝」(朝廷にて蝦蛦を饗応した)というもの。「内」という字を用いているということは、「外」つまり「外国」という認識であったことが窺えます。




◎飛鳥時代の「蝦夷」観

斉明天皇五年(659年)紀に、「伊吉連博徳書」という書が引用されています。紀には他所でも数回引用があり、何れも鮮明に描かれており、当時の様子を知る上で貴重なもの。
ここでは「蝦夷」の男女2人を引き連れ、遣唐使として唐の天子に示し見せた時の様子が記されています。
使者が天子(唐の皇帝 高宗)に謁見した場面より。

━━天子「日本国の天皇は平安にしているのか?」

使者「天地の徳を合わせて、自然と平安になることが出来ております」
天子「仕事を執務する卿(まへつきみ=臣下)たちも元気にしているのか?」
使者「天皇が憐憫の情を重ねていただけるので、また元気でいられるのです」
天子「国内は平穏なのか?」
使者「天地を治めており、すべての民に大事はありません」
天子「これらの蝦夷の国はどこの方にあるのか?」
使者「国は東北にあります」
天子「蝦夷は何種いるのか?」
使者「三種類あります。遠いものを都加留(ツカル=津軽)と名付けて、次のものを麁蝦夷(アラエミシ)と名付け、近いものを熟蝦夷(ニキエミシ)と名付けました。ここに連れてきたのは熟蝦夷です。本国の朝廷に入り献上品を貢いでいます」

天子「その国に五穀はあるのか?」
使者「ありません肉を喰らって生活しています」
天子「国に屋舎(やかず)はあるのか?」
使者「ありません深い山の中の木の根元に住んでいます」
天子「朕は蝦夷の身面が異なるのを見て驚き、喜び、不思議に思った。使者は遠くから来て辛苦を舐めたろう。退出してからは館裏に居なさい。後にまた会おう」━━(大意)


簡潔かつ的確な説明であるため、余計な補足をせずとも、ご覧頂いただけでおおよその意味はご理解頂けたかと思います。

日本という国は世界的に見て大変特殊な国で、ほぼ単一民族であり、過去に外部から侵食され征服された形跡のまったく無い国。

これのおかげで言葉の行間を読むという、特殊能力を身に付けた民族となりました。「皆まで言わずとも…解るやろ」と。


確かにそうであっても千年以上も経てば、「???」となるのです。当時は当たり前のことであっても年月が過ぎれば「???」に。だから紀には「当時の当たり前」が記されません。


ところが引用した書が、他国の天子に話した内容だったのです。もちろん日本国内と同じように、「皆まで言わずとも…解るやろ」では通用しない相手。一から語っています。おかげで現代の我々が当時を知ることの出来る、大変希少な資料となったのです。


ただしこの書の記述には問題もあり…

高宗が使者の発言を懐疑的に捉えているのです。自国を良く見せるために、「蝦夷」を敢えて卑下して発言しているのではないかと疑ったのです。真相はどうなのでしょうか。これを差し引いて考えねばならないのかもしれません。


紀は続けて「難波吉士男人書」を引用しています。
━━大唐に向かった大使は、島に座礁して船がひっくり返りました。副使は自ら天子に会って、蝦夷を見せました。蝦夷は白鹿の皮一・弓三・箭(矢)八十を天子に献上した━━

中国の「会要」倭国伝には以下の記述が見られます。
━━蝦夷 海の島の中の小国である。そこの使者は鬚の長さ四尺。最も弓射に練達している。首の後ろに矢を挿し、人に戴瓠を載せて立たせ、数十歩の先からこれを射る。的中さぜるはなし━━

どうやら「蝦夷」は「弓箭」の練達した使い手であったようです。



次回も飛鳥時代頃の内容となります。


[陸奥国白河郡] 一ノ宮 都々古別神社(馬場)
日本武尊が「都々古山」に鉾を立て味耜高彦根命を祀ったのを最初とする。 *画像はWikiより





今回はここまで。

論文でもないし、文章ばかり続くのもどうかと思うのでこういった記事には写真を多用することを心がけていますが…

なかなか良いのが見付からず、
前回の写真をそのまま流用しました。

しかも飛鳥時代のことを書いているのに
日本武尊ゆかりのお社の写真を…

次回は対策を練らねば。



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