[信濃国諏訪郡] 諏訪大社 上社 本宮
建御名方命等を祀る *写真は2011年8月撮影のもの







【古事記神話】本文
 (~その97 国譲り編 13)






今回は「建御名方神」が登場。

建御名方神と言えば…諏訪大社。

諏訪大社へ参拝をしたのは、
平成十九~二十年(2007~2008年)頃と平成二十三年(2011年)の2回のみ。

また参拝をして
記事を上げようと思いつつ…
かれこれ十五年も経ってしまいました。

(上社 本宮のみ辛うじて写真を探し出し記事UPしています)

果たして再び信濃へ向かう日が来るのか…。



【読み下し文】

故爾に其の大國主神に問ひ給はく 今汝が子 事代主神に此如く白しぬ 亦た白す可く子有りや 是に於て亦た白さく 亦た我が子 建御名方神有り 此の者を除きて無き也
此如く白し給ふ間に 其の建御名方神 千引石を手末に擎げ來て言へり 誰そ我國に來て忍び忍び此如く物言ふは 然るに力競べを爲すことを欲す 故我先づ其の御手を取らむ 故其の手を取らしむれば 即ち立氷に取り成し 亦た劔刄に取り成しつ 故爾に懼り而して退き居り 爾に其の建御名方神の手を取らむと 乞ひ歸し而して取れば 若葦を取るが如く 搤み㧗ぎて投げ離ちしかば 即ち逃げ去にき 故追ひ往きて 而して科野國の州波の海に迫め到りて 將に殺さむとし給ふ時 建御名方神曰く 恐 我を殺し給ふ莫れ 此地を除きて他處へ行かじ 亦た我が父 大國主命に違はじ 八重事代主神の言に違はじ 此の葦原中國は天つ神の御子の命の隨に獻らむ 


【大意】
そこで大國主神に尋ねました。「汝の子は事代主神と言ったが、他にはいないのか」と。すると「建御名方神という子がいます。他にはおりません」と答えました。
答えている間に建御名方神は巨石を手先でもてあそびながら現れ、「誰だ、我が国に来てこそこそと内緒話をしているのは。力競べをしてやろうではないか。我が先にそなたの手を掴むぞ」と言いました。いざその手を掴んでみると、手は氷や剣の刃のように変化しました。驚き引き下がったが、逆に手を取られ、引きちぎられて投げ飛ばされたので、慌てて逃げました。ところが追いかけられ、科野国(信濃国)の「州波海」(諏訪湖)でとうとう追い着かれ、殺される寸前で、「恐れ入りました。どうか殺さないで下さいませ。決して他所へは行かず此処に居ります。父の大国主神の申す通りに。事代主神の言葉にも従います。葦原中国は天つ神の御子の仰せにお任せして献上致します」と申し上げました。


千引岩を持ち上げ現れる建御名方神。
*画像はWikiより



【補足】
建御名方神は力自慢で武甕槌神を威嚇するも、圧倒的格差で返り討ちに遭いました。出雲国から科野国(信濃国)まで逃走を図りますが、追い着かれてしまい敢えなく撃沈。

下世話な言葉で言えば、建御名方神は「超~雑魚キャラ」。此処まで酷いと、逆に憐れみの感情すら抱きます。

幾つかの論点があり、それが原因で建御名方神の実態に就いては古来より様々に語られ、なかなか定説を見ません。
斯く言う私自身も、未だ「諏訪の古代」に就いて腰据えて学んだことはなく、甚だ疎い状態。

建御名方神を中心に取り上げておくに留めたいと思います。


諏訪大社 下社 秋宮 *画像はWikiより



◎紀の対応箇所が存在しない

実はこの記の記述に対応する紀の記述が存在しないのです。しかも子孫や系譜等を載せるのが大好きな記に、大国主神の系譜には子の建御名方神が記されていないのです。
本居宣長大先生は「(紀が)省き棄てるとは何事ぞ!!!」などと、大変にお怒りのご様子…。

記の神話のみに記載されたという事は、正史では取り上げる必要のない伝承であった…記のみに無理矢理捩じ込ませた伝承であった…このいずれかでしょう。



◎建御名方神は大和の神なのか?

確証はまったく無いものの、ある事がきっかけでその可能性が高いように感じています。

「上社 前宮」を参拝した際に、宮司の朝拝と重なり、大変有難いことにお連れの総代とともに三人並んで神前に上がる機会を得ました。拝し終えた後に宮司と軽く会話を行ったのですが、素人然を装っていた故、宮司はうっかりと漏らしてしまいました。「此方の神は貴方が来られたのと同じ大和の神ですよ」と。後で宮司は漏らしたことを大変後悔なされました。

時既に遅し。当時は私もまだ若かった為、容赦ない有無を言わさない質問を幾つか浴びせて、おおよその答えを導き出させました(「人として」の思いから100%は詰めていません)。宮司は漏らしてはいけない相手に漏らしてしまったと気付かれたのか、表情はみるみると青ざめ涙目に。そしてその正体をおそらく知ることとなったのですが、これ以上は伏せておきましょう。


勿論、宮司の見解が正解だとは言い切れませんが、少なくとも大社側には、諏訪氏の裔である現宮司にはそのように伝世されていることを知ることとなりました。

この件はここまでに留め置きます。建御名方神に就いてはまた後で。



◎金刺氏の関与

古来より諸説出されているも、近年は専ら「金刺氏の関与」を謳う説が他説を押し退けているように思います。

金刺氏とは神武天皇第二皇子である神八井耳命(カムヤイミミノミコト)を始祖とする皇別氏族。
科野国造の科野直氏から分岐した氏族であり、記には二代目武五百建命(タケイホタケノミコト・タケイホタツノミコト)を祖とします(初代国造は神八井耳命としている)。一方で「先代旧事本紀」国造本紀には、崇神朝に神八井耳命の孫である建五百建命が科野国の初代国造になったと記されます。
ただし初代神武天皇の皇子の孫が、第10代崇神天皇の時世に国造となるには世代が合いません。世代を合わせるのであれば、神八井耳命四~五世孫あたりとなるでしょうか。

神八井耳命を始祖とする大元的な存在であったのが多氏。全国に広がりをみせていましたが、本貫地は大和国十市郡にあり、氏神は多坐弥志理都比古神社

金刺氏の根拠地は科野国の更級郡・埴科郡とされ、伊那・諏訪・筑摩・水内・小県の各郡司を務め、科野国の広範囲を支配したもよう。
姓は君→直→連→宿禰と変化しています。

二代目武五百建命の後に、金刺舎人氏・金刺氏・他田直氏(ヲサダノアタヒウジ)・他田舎人氏の分岐がみられます。


「金刺」「他田」というのは、科野国造氏が欽明天皇の「磯城嶋金刺宮」(しきしまのかなさしのみや)に、敏達天皇の「別語田(他田)幸玉宮」(おさださきたまのみや)から各々出仕を求められ、派遣していたことによるもの。ヤマト王権、後の大和朝廷とはこのように深い繋がりがありました。


話は戻り、建御名方神の国譲り神話は記にのみ記され、紀には記されないと上述しました。

記の編纂事業に大きく携わったのは太安万侶(オホノヤスマロ)。神八井耳命を始祖とする多氏の末裔。科野国造家であった金刺氏もまた神八井耳命の後裔氏族であり、多氏とは同族。そして金刺氏は大和朝廷との繋がりは深いとなると…


太安万侶に頼んで、建御名方神の神話を創出して、それを「古事記に載せといてもらわれへんかの~」と。


だから多氏が直接関わった記には載せられ、直接関わっていない紀には載せられていない。…こういうことです。

これは「諏訪市史」も同じ見解。



[大和国十市郡] 多坐弥志理都比古神社




◎建御名方神国譲り神話


ところで建御名方神とはどういう神なのか?

回りくどい書き方をどうしてもしてしまう私には珍しく、結論から先にいっときましょう。


「建御名方神 = 弟磯城 = 天日方奇日方命


このように考えています。確証などはありません。ただし傍証となるものなら数多あるのですが。ここでは触れずに、またいずれの記事にて…。
この件に就いては反論も多くあるでしょう。承知の上で進めていきます。

弟磯城(オトシキ)は兄磯城(エシキ)とともに神武東征軍の前に現れました。兄磯城は抵抗し敗北、弟磯城は帰順しました。弟磯城は神武の大和平定後は論功行賞により磯城県主となりました。以降はヤマト王権に后妃を輩出する有力氏族に。

出自は北九州から出雲を経由、大和入りしたのでしょうか。父は事代主神(=大物主神と概ね見てよいかと思われる)。神武天皇皇后となった姫蹈鞴五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)は事代主神の娘(大物主神の娘)。つまり弟磯城(=天日方奇日方命=建御名方神)の妹が神武天皇皇后になったということ。

磯城県主は大和盆地のちょうど真ん中、「唐古・鍵遺跡」を本拠地としていたと考えます。東には「三輪山」が聳えており、信仰の対象でした。つまり磯城郡(城下郡・城上郡)が支配地。後の三輪氏(神氏)であり、裔の大田田根子が大神神社の初代神主となりました。

磯城県主に就いて記したので、ついでに記しておくと…
事代主神の弟が長髄彦。大和一帯を治める大王であったものの、本拠地は大和盆地の北西部(添下郡)「鳥見郷」であり、その地は神武より先に大和入りした饒速日命に委ねています。

長年の懸案事項であった磯城県主と長髄彦との関係。長髄彦を事代主神の弟に据えることで一気に解決しました。それはいろいろと波及し、大和の弥生時代の姿がかなり見えてきたと感じています。

これに気付いたのは実に最近のこと。これまでの記事では磯城県主と長髄彦との関係は曖昧にしてきたので、修正していかねばならないですね…。

なお阿波国には式内社である多祁御奈刀弥神社が鎮座しており、建御名方神を祀っています。これを以て建御名方神が阿波国出身であるなどという愚説がありますが、これはもちろんでたらめ。
当時の国司が大和の神々を一斉に勧請した名残の一つであり、邪馬台国までをも阿波だ…などとするのは、近世以降にでっち上げられたもの。行政までもが加担するという愚かなことをしていますが…弥生時代の地形を考えれば、平地がまったく存在しない阿波に大国が存在するはずもないのに。
ま…大和も桜井市纏向が邪馬台国などと言ってるので、似たようなものか…。
そろそろええ加減にちゃんとした古代史を広めて頂きたいものです。これほど考古学が進展し、あらゆることが分かってきているので。

余談となりました。


[大和国城下郡] 「唐古・鍵遺跡」




◎多氏と磯城県主

神武天皇の第二皇子である神八井耳命を祖とする多氏は、大和国十市郡を根拠地とし、多坐弥志理都比古神社が氏神。一方で磯城県主は大和国の磯城郡(城下郡・城上郡)を根拠地とし、「唐古・鍵遺跡」に居住していました。

多坐弥志理都比古神社「唐古・鍵遺跡」との距離はわずか4~5kmほど。現状判明している「唐古・鍵遺跡」の南西端から多坐弥志理都比古神社まではすぐ近く、隣同士くらいのもの。


磯城県主は後の三輪氏(神氏)となり「三輪山」を御神体として奉斎しましたが、多坐弥志理都比古神社が「三輪山」の真西に鎮座し太陽祭祀を行っていたことは明白。


磯城県主は神別氏族であるも、大王に后妃を多く送り込み皇室とは非常に近しい存在。多氏は皇別氏族ですが、両氏族は密な関係であったと想像されます。




◎神氏と科野国

建御名方神の後裔と称し、本姓を「神氏(ミワウジ)」であると言う諏訪氏。神氏(三輪氏)と同族、または金刺氏の支流という見解も。

諏訪市の北側の塩尻市や松本市(ともに筑摩郡)には神氏がいたとされます。また諏訪郡には「美和郷」が見えます。

おそらくは弥生時代に、神氏(三輪氏)や金刺氏の祖先が大和より移住していたと考えられます。それを裏付けるのは三遠式銅鐸の出土。その分布から東海地方へ渡り、「天竜川」を遡上していったのでしょう。



◎まとめ

おそらく北九州に端を発し出雲を経由して大和入りした事代主神・長髄彦の兄弟。事代主の子である建御名方神、或いはこの神を奉戴した部族(神氏や金刺氏の祖先)が科野国へと移住しました。
時代は下り、欽明朝・敏達朝に出仕を命じられ、大和朝廷とはより親密な繋がりを持ちました。そして「古事記」編纂事業がスタートし、懇意にしている多氏の末裔である太安万侶が携わることとなり、ちゃっかりと建御名方神による国譲り神話を挿入することに成功した…といったところでしょうか。


「三輪山」






今回はここまで。

壮大なスケールのお話となりました。
覚悟はしていたのですが。

記事作成に相当な時間を費やしたために、投稿予約記事は完全に枯渇。

最低1日おきには記事を上げるよう心がけていますが、少々滞るかもしれません。



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