[陸奥国白河郡] 一ノ宮 都々古別神社(馬場)
日本武尊が「都々古山」に鉾を立て味耜高彦根命を祀ったのを最初とする。 *画像はWikiより







◆ 土蜘蛛 三十四顧 (「蝦夷」編 ~1)






前回の記事をリリースしたのは
令和六年一月七日のこと。

まる二年も放置しておりました。

久々に復活させたいと思います。



あまりに久しぶりなので
先ずは企画物「土蜘蛛」記事の主旨を。

記紀、その他文献や伝承等には、神武東征時及びヤマト王権に対して「まつろわぬ者」たちが多く登場します。もちろんそれらを成敗したのですが…。

彼ら(彼女ら)は「土蜘蛛」という呼び方をされています。たまたま敗者となったに過ぎず、それらを顧みて顕彰しようという企画物。

先ずは「土蜘蛛」及び、またはそれらしき者たちを抽出。一通り抽出が終われば、そこから考察を施していこうかと考えています。


記紀から、各国風土記から、
「土蜘蛛」またはそれらしきものを既に一通り取り上げました。

そしてさらに特筆事項として
「吉備の鬼」を取り上げたところで中断していました。

今回より「蝦夷」を取り上げ、
数回に渡り記事を上げていきます。


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■「蝦夷」編 ~1

記紀等に多く見られる「蝦夷(えみし)」。それが「土蜘蛛」であるとの記述は知り得る限り見当たりません。また「土蜘蛛」と定義できるとも明確には言えません。ここでは「土蜘蛛らしき者」として取り上げたいと思います。

先ずは記紀の記述からみていきます。



◎神武天皇即位前紀

東征の終盤、八十梟軍を撃破したものの、「忍坂」に残党が多くいることを知り進軍、それらに勝利した際の「來目歌」にて。
━━愛瀰詩(えみし)を一人で百人分の強さと言うが、我が軍には抵抗すらしてこない━━(大意)

「來目歌」とは戦勝を祝う歌で、従軍した來目部たちが歌いました。ここでは歌ですから当て字で「愛瀰詩(えみし)」と記載されています。これが文献に見える初めてのもの。


「蝦夷」は概して本州東部やそれ以北に居住した人々とされますが、この場面では皇軍に帰順しない大和の先住勢力として描かれています。




◎景行天皇二十七年紀

二十五年秋七月三日に東国視察に派遣された武内宿禰が帰って来た。
━━景行天皇二十七年春二月十二日、武内宿禰は「東夷(ひがしのひな)の中に日高見国が有り、その国では男女ともに髪を椎に結い、刺青があって勇ましくて恐い、これらを蝦夷(えみし)と言います。土地は肥沃で広い、撃って取るべきです」と奏上した━━(大意)

武内宿禰は天皇に、東の「夷(ひな)」の中の日高見国の人を「蝦夷」と言うと報告しています。これが「蝦夷」という呼称、表記の文献上の最初。攻めて土地を奪うべきだと進言しています。



◎景行天皇四十年紀

━━景行天皇六十年夏六月、東夷が多く叛き辺境が騒がしくなった。
七月十六日、天皇は群卿(まへつきみ)に詔した。「今、東国は安らかではなく荒ぶる神が多く、また蝦夷は悉く叛き人民から略奪をしている。誰を遣わせて乱れを平らけようか」と。…(群臣たちが悩んでいたところ、日本武尊は兄の大碓命を推すが怖じ気付き逃げ隠れたので美濃国に封じられた)… 日本武尊は雄叫びを上げ、「熊襲を平定して幾年も経たないうちにさらに東夷が叛いた。疲れてはいますが、いつの日にか討伐に向かいましょう」と言った。天皇は斧と鉞(まさかり)を日本武尊に授け、「朕が聞くところでは、東夷は凶暴で強いらしい。強姦を行っている。村には長がいないし、邑には首がいない。境界を奪っている。また山には邪神がいて、野には姦しい鬼がいて衢を塞ぐので苦しめられる人が多い。東夷の中でも蝦夷は特に強く、男女が入り乱れて住み、父子の区別も無い。冬は穴に宿り、夏は巣に住む。毛皮を衣にして血を飲み、兄弟で疑い合う。山に登れば飛ぶ鳥の如く、野に行けば獣の如く走る。恩を受けてもすぐに忘れ、怨みがあると必ず報復する。矢は束ねた髪に隠し、刀は懐に佩く。ある時はつるんで境界を侵し、田畑の様子を伺い略奪する。弓を撃つと草に隠れ、追うと山に入る。故に往古以来、王に従ったことがない。今、朕が察するに汝(日本武尊)は背も高く、容姿は端正、力も強く、雷電の如く猛々しい。向かうところ敵は無く、攻めれば必ず勝つ。形の上では我が子であっても実のところ神人であると知る。天が叡知の足りなくて且つ国を平らけられない朕を憐れみ、天下を治める業を行わせ、宗廟を絶えないようにさせているのだ。この天下は即ち汝の天下だ。願わくは深謀遠慮し、悪心を探り変化を伺い威を示し、懐く者には徳を以て兵力を使わずに自ずから従わせよ。言葉を巧みに暴れる神を調伏し、武を振るい姦しい鬼を追い払え」━━

「蝦夷」が散々な言われよう。300~400年も前のことを書いているわけで、これほどこと細かく伝聞されているはずもなく、作為的な内容であろうと思われます。「正史」としてはここまで記す必要性もありませんから。

天皇は日本武尊が「神人」であるとし、あたかも皇位を継承したかの如く称えています。ここでは主題から逸れるため深掘りはしませんが…。

日本武尊は再び十月に出発し、焼津や相模、上総等へと進軍して行き、遂に陸奥国へと向かいました。

━━日本武尊は陸奥国へ入った。…(中略)… 蝦夷との境に至った。蝦夷の首領の嶋津神や国津神等は竹水門に駐屯し、行く手を拒もうとした。しかし遠くより王船を見て、その威勢に怖れて心中では勝てないことを悟り、悉く弓矢を捨て、日本武尊を拝んで言うには「貴方の容姿を仰ぎ見るに、人倫に秀でてまるで神の子のようです。姓名を教えて頂きたい」と。王(日本武尊)は答えた。「吾は現人神(あらひとがみ、=天皇)の子である」と。すると蝦夷は皆恐れ、衣裳を脱いで波をかき分け、王船を助けて着岸させた。服従する態度を見せたので罪を免じた。それで首領を俘囚(ふしゅう)として従者にした━━

「蝦夷」は陸奥国内に居たことになっています。東国に広く居たとの見解もありますが、紀の記述を追う限り、日本武尊が陸奥国入りしてから「蝦夷」が居るところの境で対峙したとあることから、陸奥国内のどこかに居たとみて良いかと思われます。

長がいないと言っていたのに、ここでは嶋津神が首領であるとしています。
戦わずして蝦夷が服従したことになっていますが、これはあらゆる日本武尊の戦が、刀で斬らない、弓矢を放たないの一点張りになっているものの一例。どうしても「神の子」として神聖視させたかったのでしょうか。

「俘囚(ふしゅう)」とは、蝦夷のうち大和朝廷(ヤマト王権)に隷属することになった人たちのこと。後には蝦夷以外にも用いられる言葉となりました。


[陸奥国白河郡] 一ノ宮 都々古別神社(八槻)

日本武尊が「八溝山」の東夷を討った際、尊を守護した三神が「建鉾山」に隠れたので、東方に箭を放ち箭の着いた地に創建したと伝わる。 *画像はWikiより







今回はここまで。

次回は飛鳥時代以降の「蝦夷」へと進みます。



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。