◆ 「大神神社史」より ~19
【大神神社の鎭座 9】







ご心配おかけしましたが、
無事にインフルも収まってきました。

今回はあまり大事には至らず
発熱も39度台まで。

自力でご飯も作り
バクバク食べまくって…
ドリンク剤ガブガブ…
(風邪・インフル時ほど食べる飲む)

それでも記事の方は
1~2行書いては1~2時間休む…の繰り返し。

何とか投稿にこぎつけました。


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第五章 大神神社鎭座
(執筆/池田源太氏)


 信仰と祭祀 2

前回の記事では本書からずいぶんと離れた内容に終始しました。あまりに認識のズレがあったため。
本書が編まれたのは昭和五十年。当時はこれで良しとされていたのでしょう。個人的思量を加えつつ、大幅に補正を施してきました。今回からがこの表題の本番です。



◎三輪氏の信仰の起源

本書に於いての焦点は、三輪氏が何時の頃からどのように祭祀を行っていたのかということ。

当ブログでは個人的思量として、三輪氏の源流であるカモ族が葛城の地に遅くとも弥生時代から活動していた形跡が見られることから、「三輪山信仰」もその頃ではないかという考えを、前回の記事記しておきました。

*三輪氏の始祖 大田田根子
崇神天皇八年紀、大田田根子に「大神の神」を祀らせたというのが、文献上に見える三輪氏(三輪君)による大物主神に対しての祭祀の最初。

行方不明であった大田田根子が発見されたのは、紀の「茅渟県(ちぬのあがた)の陶邑」(和泉国大鳥郡の陶荒田神社周辺に比定)、記の「河内国美努村(みのむら・みぬむら)(河内国若江郡の御野縣主神社周辺に比定)と記述が分かれています。どちらが比定地なのかはともかく、どちらにも三輪氏の拠点があったものと池田源太氏は捉えています。ただし御野縣主神社の奉斎氏族であろう美努連氏が、三輪氏とはまったく異なる氏族であることからこちらは除外すべきではないかと考えます。

さらに神武紀に記される、陶津耳の娘、三嶋溝樴姫が居た摂津国島上郡・島下郡(溝咋神社赤大路鴨神社三島鴨神社等が奉斎社)にも拠点があったのだろうとしています。

本書には残念ながら記されていない、大和国葛上郡・葛下郡が当初の根拠地。即ち神武東征の際の大功により葛城国造となったのが剣根命。葛下郡の葛木御縣神社の地がその拠点であったとされます。また葛上郡の多太神社は大田田根子を祀り出生伝承も。鴨都波神社は大田田根子の創建とも。

池田源太氏は城上郡の古代史、郷土史が研究の中心なのでしょうが、少々お粗末。カモ氏が三輪氏の源流であるという認識が薄いのではないかと。
他に大和国宇陀郡にも剣根命を祀る社が多く見られますし、「三輪山」の裏側、つまり東側の「隠口(こもりく)」でも広くカモ氏が蟠居していたようです。


[大和国葛下郡] 葛木御縣神社




◎「三輪山」信仰の始源

あらゆる記事でこのことには触れてきましたので、今さらという感じもしないではないですが、軽く触れておきましょう。

記の大国主命の神話に、「倭の青垣 東の山の上に齋きまつれ」とあります。これが「三輪山」信仰の文献上の最初と思われます。ただし詳細な時期は語られません。
ところが神代紀には、「即ち宮を彼処に営りて 就きて居しまさしむ 此れ大三輪の神なり」とあり、神代から祀られていた可能性を否定し得ないとしています。

次いで崇神天皇八年紀に、「大田田根子を以て大神を祀らしむ」とあり、崇神記にも年代こそ記載無きものの、同様の記述があります。
これを機として三輪氏による祭祀が始まったということになります。ただし大田田根子が大物主神の子(紀)、三世孫(記)、九世孫(三輪高宮家系)とあり、大田田根子以前より祭祀が行われていたとみるべきでしょうか。

三輪の神が国家的祭祀となるのは、「神祇令」にみえる「鎮花祭(はなしづめのまつり)」が最初とされます。
「令義解(りょうのぎげ)」や「令集解(りょうのしゅうげ)」に依って復元される、「養老令」(天平宝字元年・757年施行)の扁目「神祇令」に記載されます。現存しない「大宝律令」(大宝元年・701年)からは大きな相違点が無いと考えられ、故にその時点で「鎮花祭」は記載されていたのであろうと。さらに持統天皇三年(689年)に施行された「飛鳥浄御原令」に記載があった可能性もあります(現存しないため不明)

「鎮花祭」は「令義解」のみならず、「延喜式」四時祭にも「鎮花祭二座」、即ち「大神社一座・狭井社一座」と二社で行われていたことが記されています。


さて…
本稿には記されない重要な事項があります。

三輪の神の祭祀に大きな転機が訪れました。第44代元正天皇即位二年(霊亀二年・716年)に始まる「出雲国造神賀詞」奏上。


その中に以下が記されます。

━━大穴持命の申したまはく、皇御孫命の鎮まり坐さむ大倭国と申して、己命の和魂を八咫鏡に取り託けて、倭大物主櫛嚴玉命と御名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、己命の御子、阿遅須伎高孫根命(アヂスキタカヒコネノミコト)の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、事代主命の御魂を宇奈堤(うなて)に坐せ、賀夜奈流美命(カヤナルミノミコト)の御魂を飛鳥の神奈備に坐せて、皇孫命の近き守り神と貢り置きて、八百丹杵築の宮(杵築大社、現在の出雲大社)に静まりましき━━


大穴持命が己の御魂を「倭大物主櫛嚴玉命」と御名を称えて、「大御和の神奈備」に鎮めよと。「大御和の神奈備」とは「三輪山」のこと。


「三輪の神」とは元々、事代主神であったのが、この時に大穴持命(大国主命)の和魂に替えられました。これはもちろん大国主神の神話を創作した大和朝廷の意向によるもの。即ち記紀編纂に合わせて「三輪の神」も変更がなされたのです。

その経緯と詳細は以下の記事にて。

「三輪山」






今回はここまで。

またまた刻んでしまったので
次回も引き続き「信仰と祭祀」を。



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