「三輪山」







◆ 三輪山祭祀にみる神話と歴史の循環体系

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2日ほど空きましたが再開します。


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◎出雲の「復命」「復奏」

神話に於いては、出雲国造の祖である天穂日命が、高天原より葦原中国に派遣されるも大国主神に媚びて復命をしていません。そのまま出雲の国譲りが行われたため、遂に復命は成されず未完のままであるということは、第1回目の記事にて記しました。

その「未完」を「完」の状態へと補完させるために、「出雲国造神賀詞」奏上儀礼が行われるようになったと記しました。

「神賀詞」奏上儀礼の国史上の最初は、宝亀二年(716年)二月。この前後に記紀が成立しています。記紀の不復奏と「神賀詞」儀礼の復奏とは不離一帯の関係を持ち、神話と儀礼の連続性、そしてその神話成立時期が近いことを証明するとしています。

神話の不復奏を解除するためには復命・返事の儀礼が必要であると。

「神賀詞」の詞章には天穂日命の「返事」が奏されており、奏上儀礼によって復命・復奏が完了することに。「復命」「復奏」は、出雲国造の任命と神祇官による負幸物下賜儀礼の応答儀礼として成立しているとのこと。

「神賀詞」の言霊が宿る詞章では、白玉・赤玉・青玉など、「御禱神宝(みほぎのかむたから)」の献上を申し上げ、天穂日命の神孫である出雲国造が、出雲の神々(国つ神)の統治権を、天つ神・皇御孫命(すめみまのみこと)・天皇へ譲渡・移譲したことを可視的に確認する象徴的儀礼として創出されていると。出雲国造に任命されると、出雲国に帰国して齋ののち二度にわたり「神賀詞」奏上が執り行われます。


持統天皇像(奈文研 藤原京跡資料館に展示)




◎女帝三代を経て「神賀詞」奏上が完成

先ずは第37代斉明天皇。斉明紀五年(659)、杵築大社(出雲大社)の神殿創建を契機として祭祀体系が構想されたということは既に記しました。

次の女帝は第41代持統天皇(斉明天皇の孫)。「飛鳥浄御原令」の施行に基づき、持統紀四年(690年)元旦、神祇伯中臣大島が天神寿詞(ほぎごと)を奏上し、忌部色夫知(インベノシコブチ)が神璽(しんじ)の剣鏡を奉りました。これにより中臣・忌部両氏の祭祀体制が確立。
この天つ神寿詞に対応したのが、国つ神寿詞ともされる「出雲国造神賀詞」であるとしています。

持統天皇に就いては、【「真の女帝」顕彰】の企画物記事でたびたび指摘しているように、今日の基礎となるものを悉く作り上げた女帝。
こちらも一般的には繋ぎの天皇とみなされていますが、いやいやそうではなく、皇位継承を当初から企図しており、天武天皇をも掌握していたと考えています。

大宝元年(701年)に「大宝律令」が成立。翌大宝二年二月、全国諸社への班幣の際に諸国の国造が入京し儀式に参集されています。

そして三代目の女帝は第44代元正天皇(持統天皇の孫)。即位二年(霊亀二年・716年)二月、行われた国つ神寿詞儀礼は持統天皇即位儀に対応したもの。天皇位強化のための即位儀礼の一環として創始されたとしています。
この時、天つ神より派遣された天穂日命のその子孫出雲国造が、出雲国内神社の祝部たち百人以上を率いて入朝。

これは神祇官の官社制度確立のなかで創出されています。出雲の「国譲り神話」の地上的表現とし、律令祭祀制の一つの柱として、国つ神・出雲の世界が機能したことになると。

儀礼の日程は特に、8世紀の事例のほとんどが二月に集中しています。
確かに「に」と打てば「二月」の変換候補が真っ先に。確認してみると二月ばかり。二月といえば「祈年祭」。天皇即位後に於ける律令祭祀祈年祭が特化されていったとしています。
この儀礼と神話編成の核となったのが、中臣氏と忌部氏、出雲臣氏であったのは言うまでもありません。

元正天皇像(南法華寺蔵、江戸時代) *画像はWikiより



ん?第43代元明女帝は?飛ばした?
確かに繋ぎの天皇とみなされ、御世は藤原不比等が最高権力者であり、ほぼすべてが彼の思惑通りに進んだのでしょうが。
平城京遷都、「古事記」成立、「風土記」編纂の詔勅等、これはこれで大変重要な事蹟なのですがね…。そして元正天皇も同じく繋ぎの天皇として即位したのですがね…。

本題に戻りまして…

以上のように、女帝三代の皇孫を経て即位儀礼の一環として、「神賀詞」奏上の祭祀が完成をみたとしています。

また一方で天照大神を尊崇する皇祖観は、この三代の女帝在位のなかで、天皇祭祀の皇祖神化が確定していったとしています。

天照大神が本来は男性神でなければならないはずが、女性神とされたのも、この三代の女帝によるものでしょう。これは私見です。


持統天皇の和風諡号の一つは「高天原廣野姫天皇」。天照大神を意識した名であることは疑う余地がありません。また斉明天皇は、皇極時代から譲位した際に「皇祖母尊」と称されました。

ともに皇祖 天照大御神に連なる神聖な存在としての命名であろうかと思われます。「天照大神」の御霊を引き継ぐ者ということを、強烈にアピールしています。

ですが…そのような生ぬるい程度の名とは到底思えません。ともに天照大神そのものの名なのです。在位中は「天照大神の生まれ変わりだ!」などと言っていたような気がしてなりません。

天照大神 (AI作成画像)





今回はここまで。

しばらくは丹後のお社、その他祭事等の記事を記事を挟みつつ、もうしばらく続きます。



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