嶋満神社 (舞鶴市溝尻)

(しおみつるじんじゃ)



丹後国加佐郡

京都府舞鶴市字溝尻

(詳細住所不明、登記は本店(旧社地)「舞鶴市泉源寺1126・1127・1127-1」で登録)

(P無し、近隣停め置き不可、近隣にコインP有り)


■旧社格

村社


■祭神

誉田別尊

[相殿] 市杵島姫命



東舞鶴の東部、かつて「白糸浜(白絲濱)」と称され、さらに古くは「枯木浦」と称された海岸際に鎮座する社。「与保呂川」と「祖母谷川」河口に挟まれた地。高さ20~30の小山の山頂に社殿が設けられています。古くは高橋郷の「祖母谷」または「倉梯谷(くらはしだに)」と称された三ヶ村の一、「溝尻村(みぞしりむら)」。

◎創建年代、由緒ともに不詳。社頭案内板は以下を記しています。

━━往古当社のある小山は長谷山の岬なれど潮の干満によって、浮沈することから「浮島」と称す。この辺りは北海より渡船の要港にして度々妖族が侵入することあり、之を禳い除くため山上に宇佐大神鎮座し賜い諸人之を八幡嶋満大神と尊称す━━

◎東舞鶴は江戸中期以降に大規模な干拓が行われていますが、当地周辺がその最たる地。文久元年(1861年)前後の古地図を確認する限りは(→ambulaサイト「舞鶴鎮守府エリア」)、かつては海中の孤島であったと見受けられます。「浮島」(一名に「淵島」)と称されていたとされ、当社もかつては「浮島八幡」「淵島八幡」という名が古文献に多く見られます。

◎「丹後國風土記」殘缺には以下の記述が見られます。

━━枯木浦 本字彼來

枯木浦は往昔 [七字虫食い] 貴大神斯二柱神(少彦名神・大己貴神と思われる) 国造り坐しなさるの時に當たり 海路順次之の渚島在りし所の集合むと欲し 便ち笠松山に登りて [三字虫食い] 息の限りに号呼んで彼々來々(かれこかれこ)と曰く 即ち四嶼自ずから來て列り 故に彼來(かれき)と曰う也━━
二神が渚の打ち寄せる島が欲しいと「彼々來々(かれこかれこ)」と呼び寄せたところ、四島が自ずから来たので「彼來(かれき)(枯木)というと。その一が「淵島」(浮島)であると比定されています。他三島は消失したとのこと。甚だ信用の置けない書ではあるものの、このような伝承があったようです。

◎案内板には「貞観年中(九世紀)正二位を賜る」とあります。これはおそらく「室尾山観音寺神明帳」の記述を以てのことかと思われます。いわゆる「国内神名帳」とみなされています。ただしこの書が何時の時代のものか見当が付かず、詳細は不明。
「正二位」というのは加佐郡きっての大社である大川神社と、「手力雄社」(幸谷神社か、後ほど記事UPします)の正一位に次ぐもの。この尋常ならざる高い神階を授与されているにもかかわらず式内社足り得ないのは、この書が「延喜式神名帳」編纂以降のものと考えてよいのでは。従って9世紀ではなく10世紀後半以降に編まれたものと察します。

また案内板には「弘安四年(1281年)元寇に際し敵国降伏御加護に示現あり」とあります。これを正二位という神階授与の理由と考えることができそうです。

◎東舞鶴は明治22年に富国強兵を進める日本国が対ロシアの海岸防備として海軍基地となりました。そして軍港都市として街全体が区画整理されました。昭和十四年には当社地が海軍用地として収用され、泉源寺村小字「宮ノ奥」へ移転されました。現在の当社は戦後、昭和三十六年に復社したもの。



当日は宿泊したビジホより歩きました。





小ぶりながらも精巧に造られた御本殿。

境内社




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