阿麻美許曽神社
(あまみこそじんじゃ)
河内国丹比郡
大阪市東住吉区矢田7-6-18
(境内に駐車可、進入口が分かりづらいので要注意)
■延喜式神名帳
阿麻美許曾神社 靫鍬 の比定社
■旧社格
郷社
■祭神
素盞嗚尊
天児屋根命 事代主命
「大和川」を背にして南向きに鎮座する市街地内の社。
◎大阪市東住吉区の東端、そのすぐ東側は松原市「天美(あまみ)」地区。かつて「大和川」が付け替えされる際に当地「矢田村」を分断、鎮座地が「大和川」南岸に切り離される事態に。当社周辺が「天美村」に編入されるものの、当社近辺のみ「矢田村」に残されました。「天美村」は後に松原市に、「矢田村」は大阪市東住吉区矢田となっています。
◎氏子地区は現社地が鎮座する「矢田村」、隣の「天美村」。そのことから「七郷の宮」と称されていたとか。また俗に「阿麻岐志宮」と称されているとのこと。なお鎮座地は「天美丘」と称されたようです。隣の地名「天美」は当社由来によるものとされます。
◎社伝によると創建は大同年間(806~809年)であるとのこと。創建由緒は不明。ところがそれよりも古いとの見方があるようです。
◎ご祭神は素盞嗚尊を主祭神とした三座。神名帳においては一座、原初は一座であったかと思われます。その原初のご祭神についてはさまざまに論じられています。
◆阿摩比古命(アマノヒコノミコト)
この神名について事績等を表す資料は見当たりませんが、大小橋命(オオバセノミコト)の子であるとのこと。大小橋命は中臣氏の祖とされ、鎌足の九世祖父。摂津国東成郡の比売許曽神社(記事未作成)や、その旧社地に鎮座する産湯稲荷神社(未参拝)にて祀られます。その産湯稲荷神社の社伝では天児屋根命十三世後胤とあるようです。
この説を推すのは「神名帳考証」。中臣須牟地神社(未参拝)や須牟地寺といった中臣氏所縁の神社等が近くであることが理由。それらは「大和川」対岸の北東700~800mほどにあります。
◆彦己蘓根命(ヒコミソネノミコト、=彦己曽保理命)
この説を推すのは「河内国式神私考」。「先代旧事本紀」に、彦己曽保理命が神武朝期に河内国造に任命されたとあります。そして「春原政包日記」というものに、彦己曽保理命が河内国造の祖で丹比の天美丘に葬られたとあるようです。
彦己曽保理命は凡河内氏(オホシコウチノウジ)の祖とされ、天津彦根命の三世孫と「先代旧事本紀」の「国造本紀」にあります。凡河内氏は上代の凡河内国(河内国・摂津国・和泉国)に広く国造氏族として勢力を持っていたとされます。
◆当社を物部氏系の神社と捉える
その彦己曽保理命を祖とする凡河内氏を物部氏系と捉え、物部氏が滅びた後に中臣氏がこの地を占拠、ご祭神を阿摩比古命に入れ替えた可能性があるとのこと。
凡河内氏を物部氏系と捉える向きもあるようですが、あくまでも一つの説に過ぎないかと。
◆素祢志夜麻美之君
当地は依羅氏(依網我孫「ヨサミノアビコ」)が拠点としたエリアに含まれると考えられます。依羅氏「新撰姓氏録」においても出自等が多岐に渡っており、実態把握が困難な氏族ですが、「河内国諸蕃 百済 依羅連 出自百済国人素祢志夜麻美之君」というのが見られます。この「夜麻美」が「天美」と通ずるのではないかとも。
◆新羅系渡来氏族が奉斎した神
社名の「許曽」については、新羅系渡来人が用いた言葉とするのが有力な見方。上記依羅氏が百済系であるのに対しての新羅系渡来人。同じく社名に「許曽」とあるのが上述の比売許曽神社。ご祭神は下照比売命。関連のある社として上げられる赤留比売命神社(記事未作成)の赤留比売命と同神とする見方も。
当社においても下照比売命、或いは同神ともされる赤留比売命ではないかとも考えられます。












