天田神社
(あまたじんじゃ)


河内国交野郡
大阪府交野市私市1-30-11
(境内に駐車可)

■旧社格
村社

■祭神
表筒男命
中筒男命
底筒男命
息長帯姫命


「生駒山地」河内国側山裾、「龍王山」(標高318m)の西側麓、交野市(かたのし)私市(きさいち)に鎮座する社。
◎当社の創建由緒等に関して掲げられる社頭案内は以下の通り。
━━天田神社は私市、森の氏神社で住吉四神を祀る。古代この地方は土地が良く肥えて、作物が豊かな野であったので、甘野といわれ、川は甘野川、田は甘田であった。この甘田に田の神を祀って建てた甘田宮が当天田神社の起源と言われている。
交野地方は、肩野物部氏の所領でその先祖・饒速日命が天の磐船に乗って河内の哮が峰(たけるがみね)に天降ったと「先代旧事紀」に記され、長く交野の祭神となっていた。
その肩野物部氏が西暦577年敏達天皇の皇后豊御食炊屋姫(トヨミカシキヤヒメ、後に推古天皇)にこの地を献じて、ここが私部(きさいべ)、私市部(きさいちべ)となったのである。「きさい」は皇后、「べ」はその部民のことである。
平安時代に入り、京都の宮廷貴族が遊猟に来ては盛んに和歌を詠み、七夕伝説に因んで甘野川は天の川、甘田は天田と書くようになった。
その頃、住吉信仰が流行し一方、磐船の神も海に関係があると考えられ、さらに物部氏の衰退もあって、交野の神社の祭神は、饒速日命から、海神であり和歌の神である住吉神に替わって、今日に至っている。
境内から祭祀に用いられたと思われる土師器が出土し、又物部氏のものと推定される巨大な古墳群が発見されるなど、当地の歴史の古さを偲ばせるものがあります━━
◎「私市(きさいち)」とは当社を含む南側に広がる地。一方「森」は境内を横断する小さな「三ツ又川」から北側の地。「龍王山」山頂南側まで。
◎肩野物部氏とは饒速日命降臨の際に、「兵杖を持った二十五名の部」として、「先代旧事本紀」の「天神本紀」に記される多くの随伴神の一。
「新撰姓氏録」には「左京 神別 天神 物部肩野連 伊香賀色雄男大水口宿祢之後也」、また「右京 神別 天神 肩野連 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」と記載されています。
◎饒速日命降臨の地という「河内哮ヶ峰(たけるがみね)」については伝承地がいくつか見られ、古来よりその比定地を巡り多くの議論が交わされています。
その候補地の一つ「交野山」の山頂付近に座す巨大磐座「観音岩」(未拝)は、当地より北東45度の線上。また別の候補地の一つである磐船神社(記事未作成)の巨大磐座は、当地より真南の線上。これらが意識され、当地はその祭祀場、或いは遥拝所として始まったのはないかとも考えています。
◎「京都の宮廷貴族が遊猟に…」というのは、「交野山」を桓武天皇がことさら神聖視し、しばしば行幸していたことからの流れによるもの。長岡京は「交野山」の真北に造られたのはよく知られること。この山を河内国、または摂津国や和泉国全体(つまり現在の大阪府)の鬼門と捉えていたという説もありますが。
◎当社同様に周辺では饒速日命を祀る社の多くが、住吉神を祀る社に取って変わられています。藤原氏が席巻する世の中で、貶められた物部氏の祖神を祀る社というのは存続が困難であったと想像されます。


拝殿正面の鳥居。「私市」地区からの参道。

北西の鳥居。こちらが表参道なのでしょうか。「森」地区からの参道。







境内社 川東神社。「森」地区からの参道の途上。八幡大神を祀るとされます。

境内社、玉津島姫明神(衣通姫)などが祀られています。