坐摩神社
(いかすりじんじゃ)
摂津国西成郡
大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺3号
(境内に駐車可)
■延喜式神名帳
坐摩神社 大
■社格等
摂津国一宮
[旧社格] 官弊中社
[現在] 別表神社
■祭神
坐摩神
(生井神 福井神 綱長井神 波比岐神 阿須波神の総称)
大阪市内都心部にビル群に囲まれて鎮座する社。「三門形式」などと呼ばれる独特な形の鳥居が目を引きます。
◎元々は「ヰかしり」神社と称されていたようです。「土地または居住地を守る」という意味の「居所知(いかしり)」からの転訛であるとのこと。
一方、志賀剛氏は上町台地の斜面に鎮座していた旧社地で清水が湧き出ていて、当社がその「井頭(ヰがしり)」であったとしています。
◎ご祭神は社伝によると、坐摩神(生井神・福井神・綱長井神・波比岐神・阿須波神の総称)。神名帳では一座であるため、以上五座の総称である「坐摩神」をもって一座に。社名由来にもあるように「土地または居住地の守護神」としているのが当社の見解です。
◎この坐摩神は宮中神三十六座のうちの「坐摩巫祭神五座 並大 月次新嘗」と同じもの。
◎五柱のうち生井神(イクヰノカミ)・福井神(サクヰノカミ)・綱長井神(ツナガヰノカミ)の三柱は文字通り御井神。生井神は「生き生きとした井」、福井神は「栄える井」、綱長井神は「生命の長い井」であるとも。
波比岐神・阿須波神については未だ明らかにはされていません。記には大歳神と天知迦流美豆比売神との間に生まれた御子神とあります。波比岐神は「境界の神」で、阿須波神は「(足元の)基盤の神」とも考えられています。つまりこの二柱は屋敷神であると。
宮中で祀られていたということを考えると、以上の説がしっくりとくるように思います。「古語拾遺」や足羽神社(越前国足羽郡、未参拝)には、この五柱を「大宮地の霊」としています。
◎延喜式 臨時祭の御巫条・坐摩巫条には坐摩巫だけは都下国造一族の七歳以上の童女から選ぶという規定があります(他の御巫は庶民から選んでもいい)。
都下国(つげのくに)は大和国の都祁(つげ、奈良市の東部山間地域)のこと。この一族の元の拠点が当社の旧社地(当社より北東1.5kmほど淀川支流大川沿いの「行宮」、未参拝)だったのではないかと考えられています。
この「都下」に関して興味深いものがあります。それは「三国遺事」という1200~1300年頃に記されたとされる高麗の史書。この中の「迎日」伝説と、「都祈野」という言葉。ーーー西暦157年に新羅国にある夫婦がいたが夫は海藻を採っていると大岩を見付け、岩ごと日本に飛ばされた。日本ではただ者ではないと国王となった。この時新羅国では日月の光がなくなった。原因は日月の精が日本へ行ったためと。そして生絹を捧げ天に祈ると日月は戻ったと(皆既日食か)。この祈った地が「迎日県」または「都祈野」というーーー大和岩雄氏は当社の旧社地が「菟餓野」と称されていたことに着目。東方にある日祀りの対象となった霊峰「高安山」に対して、日祀りが行われた地の一つが当地であったというもの。冬至に山頂より朝日が昇るようです。まさに「迎日」。この祭祀を行っていたのが都下国造一族の童女である御巫。「難波(なにわ)」は古代朝鮮語で「日の庭」とも言われています。時代は下り宮中でも行われていたことかと。なお都下国造一族は現在の都祁に移住した後も、雄山雌山を霊峰として同様に祭祀を続けていたとされます。
◎創祀に関しては、神功皇后が三韓征伐を終え帰国、凱旋の途に当地(旧社地)で休息を取った場所であるというもの。旧社地には休んだ磐が座しているようです。
※写真等の情報は2017年1月のものです。

