甲神社 (大淀町今木)
(かぶとじんじゃ)
大和国吉野郡
奈良県吉野郡大淀町今木367
(1台なら境内に駐車可)
■祭神
大己貴命
月讀命
素盞嗚命
保食命
「曽我川」上流部の支流「今木川」右岸沿いに鎮座する社。谷地を縫うように流れる川沿いに「今木」集落は広がっています。面積は広いもののほとんどが山であり、人口272人124世帯(令和二年国勢調査データ)の過疎地域。
◎鎮座地「今木」の由来は概ね二説。かつてこの地にあった「石室(いまき)」を由来とする説と、渡来人が木工・建築をもたらした場所や集落名との説が挙がっています。
前者は「保久良古墳」(7世紀)によるもの。当社地からは300mほど北西に築かれた円墳。第38代天智天皇と越智娘(オチノイラツメ、蘇我倉山田石川麻呂の娘)との間の子である建皇子(タケルノミコ)の治定墓。啞であったとされ、「鉄」が絡んでいるように考えています。特に第37代斉明天皇(「乙巳の変」が起こった際の帝で、後に重祚)に溺愛され、後に移葬され合葬されました。
他にも、第19代允恭天皇の第2皇子である坂合黒彦皇子の墓に比定される「ジヲウ古墳」が、当社のすぐ側にあります。坂合黒彦皇子は眉輪王(マヨワノミコ)による第20代安康天皇殺害の共犯者とされ葛城円(カツラギノツブラ、葛城襲津彦の孫)邸に逃げ込むも、雄略天皇によりまるごと焼き討ちに遭い焼死、この地に葬られたと伝わります。前者後者ともに渡来人を束ねていたとされる蘇我氏や葛城氏系の墓。
後者に就いては「今木」という各地に見られる地名の通釈。特に当地は「今来才伎(いまきのてひと)」が住み着いた地とされます(後述します)。
◎当社は蘇我入鹿の甲を祀るとされています。創建年代は不詳。「大淀町史」によると、6世紀に朝鮮半島、特に百済から織物や須恵器作り等を伝えた人たちがこの地区などに移り住み「今来才伎(いまきのてひと)」と呼ばれていたとあります。彼等が奉斎したのが当社であると。
◎「今来才伎」とは、第21代雄略天皇七年紀に「集聚百濟所貢今来才伎」(百済が貢いだ今来才伎を集め…)と見える渡来人のこと。第15代応神天皇から第16代仁徳天皇の時世に葛城襲津彦がしばしば朝鮮半島へ渡っており、百済の弓月君(ユヅキノキミ)を連れ帰ったと紀に見えます。
「弓月君」は秦氏の祖として河内国茨田郡(まむたのこほり)から山城国「太秦(うづまさ)」へ移住し本貫地としたとされる氏族。ただし正確には「弓月君が百済の120県の人民を率いて帰化した」とあり、また別に「弓月の民」という表記もあり、「弓月」が朝鮮語音訓では和語の音訓「百済」と同音・同義であることから、一氏族ではなく同郷としてひとまとめになった氏族と思われます。「弓月君」姓(後に秦氏)を名乗っていない部族もあったと考えられ、「今来才伎」もその一つではないかと。
◎5世紀は葛城氏の時代。この時に渡来して来たのでしょう。すぐに葛城氏は没落(上記の葛城円の焼死による)しますが、同族であると名乗り入れ替わるように台頭したのが蘇我氏。彼等が引き継ぎ「今来才伎」を束ねたと考えると、遺跡と伝承とが時代に整然と合致すると思います。
◎古来は「入鹿大明神」と称された、蘇我入鹿の所縁の社。入鹿が御祭神に含まれないのは憚りがあったためでしょうか。三体の御神像と入鹿の甲と鎧が御神宝とされていると伝わります。
当地からは、藤原鎌足の墓があるとされ妙楽寺(現在は談山神社)のある「多武峰(とうのみね)」の方面へは、嫁入りが無かったという逸話もあるようです。また明治までは入鹿の命日である九月二十三日に祭礼を行っていたとのこと(現在は十月第二日曜)。
◎「今木川」で起こるたびたびの洪水により社殿が流され、拾い上げて祀ったのが下流の隣村「奉膳(ぶんぜ)」の卯神社であるという伝承があります。また丹生川上神社 下社の鳥居がかつてここにあったという伝承も。
*写真は2018年9月と2025年12月撮影のものとが混在しています。
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