和江神社


丹後国加佐郡
京都府舞鶴市和江宮ノ谷122
(社前に路側帯があり、そこに駐車可)

■祭神
(天君穂耳尊 天穂日命 天津彦根命 活津彦根命
熊津久須毘命 多紀理毘売命
狭依毘売命 多紀津毘売命)


億計王(オケオウ)・弘計王(ヲケオウ)の潜伏先として伝承される社。「由良川」西岸の河口近く、穏やかな流れの畔に鎮座します。鎮座地は舞鶴市「和江(わえ)」。集落の南外れに位置しています。人口は41世帯113人(令和二年国勢調査データ)の過疎地域。
◎「和江」には国分寺があったと近世の書にはあり、小字名に「国分寺」が見えます。ところが宮津市「国分寺」より遺構が発見、現在はそちらに比定されています。国内各所への転移の可能性は大いにあるものの、当地の平地は集落のあるわずかな谷筋しか無く比定には難有り。ただしヤマト王権から丹後・但馬さらに山陰への往来ルートととしては「由良川」沿いが大いに考えられ、その河口に位置する当地は重要な拠点であった可能性も否定できません。
◎創建年代、由緒等は不詳。ネット上の管見情報によると、「和江の歴史」という書(現物未確認、公的機関の郷土史書と思われる)に、創建を朱鳥元年(680年)としているとのこと。その由緒までは示されていないようです。これに就いては当社付近数kmに渡り式内社が存在しないにもかかわらず当社がそれに該当し得ていないことから、疑いの念を抱く必要があろうかと考えます。実際の創建年代は10世紀より下るのではなかろうかとも。
億計王・弘計王に就いて。第21代雄略天皇により父の市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)を殺害された二皇子。父を始め次々と周辺人物が雄略天皇(当時は即位前の大泊瀬皇子・オオハツセノミコ)により殺害されていくことに身の危険を感じ、免れるために潜伏します。紀には丹波国(後に丹後国などが分割)に逃亡したと記され、その痕跡が多く見られます。当社もその一。
◎丹後国内に多く残る二皇子隠棲伝承から鑑みるに、当初は加佐郡「大内郷」に潜伏したようです。姉の飯豊青皇女の所縁の地である若狭国大飯郡「青」(現在の大飯郡高浜町青宮)の近く(→ 青海神社)。「大内」の地名由来は二皇子が潜伏したからとも。また同じ佐郡大内郷「安久村(あんぐむら)(現在の「舞鶴市上安」)二皇子の「行宮(あんぐう)」があったことからとも。丹後国内各所に潜伏伝承が存在するのは、発覚を恐れて転々としたのか、或いは追っ手寸前まで迫って来ていたものかもしれません。結局は播磨国で発見され、第24代仁賢天皇と第25代顕宗天皇として即位しました。
◎当社地もその潜伏先の一つと伝わっています。二皇子は酒饌(甘酒という伝承も有り)を供えて開運を祈願したとされています。
これを史実とすると、それ以前に当社地にて何らかの祭祀が行われていたということに。御祭神の五男三女神二皇子が祀った神々かどうかまでは不明。この年は天武天皇が改元した年であるものの、そのわずか2ヶ月後に崩御した年でもあり、記紀編纂に合わせて朝廷との間で何らかの擦り合わせが行われたのではないかと勘ぐるのは飛躍し過ぎでしょうか。
◎かつては背後の「宮山」中腹に鎮座していたようです。その事由は不明ながらも、当社のいわゆる「里宮」として江戸中期に遷座がなされたのでしょうか。
◎当地界隈に伝わるものとして、森鴎外の「山椒大夫」で知られる「安寿と逗子王丸」の童話があります。逗子王が逃げて匿われたとされる丹後国国分寺は、当地の北隣の村にあったとされます(実話かどうかは不明)

*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


舞鶴から宮津への途上にあり、丹後に向かえば必ず参拝する社。もう70回ほどは参拝したように思います。





御本殿を格子の隙間から。



「旧殿地」の石碑。江戸中期までは「宮山」の中腹ということなので、この場所に遷座された後に現社地に移ったと解するべきでしょうか。





社前を優雅に流れる「由良川」。当社参拝時にはこの川の流れを確認するのが慣わし。二皇子の御難に思いを馳せて…。

すぐ近くには厨子王の伝承地があります。




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