辛國神社


河内国志紀郡
大阪府藤井寺市藤井寺1-19-14
(P有、境内南側の道より進入、北側にもあるとも)

■延喜式神名帳
辛國神社の比定社
[合祀社] 長野神社 鍬 の比定社

■旧社格
村社

■祭神
饒速日命
天児屋根命
素盞嗚命
[相殿] 市杵島姫命 品陀別命


藤井寺駅南すぐの市街地に鎮座、美しく整備された参道は「大阪みどりの百選」に指定されています。当地にはかつて「大和川」が流れており、交通特に船運の要衝でした。仁徳天皇の治水事業により「河内湖」(ラグーン)の水域が下がり大幅に縮小するも、それ以前は海際に近かったと思われます。
◎河内国は物部氏の痕跡が色濃く残る地域で、当社もその一つ。紀には「雄略十三年(469年)春三月 餌香長野邑(えがのながのむら)を物部目大連に賜ふ」とあり、その物部目一族が祖神の饒速日神を祀ったのが創建とされています。
目は雄略天皇十八年(474年)に伊勢の有力な豪族であった朝日郎(アサケノイラツコ)を勅命で討ったこと等で知られる人物。
◎ご祭神に見える饒速日命は前述の通り。天児屋根命は室町時代に畠山基国により、当地に社領が寄進され遷座とともに合祀。境内の「辛國池」旧跡は春日の神使である鹿が水を飲むための池であったといい、明治には周囲400mほどの広大なものであったようです(下部に写真有り)。素盞嗚命は後述しますが、合祀された「式内社 長野神社」のご祭神とのこと。
◎物部氏はその後没落していきますが、同氏の枝派である辛國連が引き継ぎ奉斎したようです。物部氏の歴史は敗者の歴史であり分からなくなっていることが多いものの、辛國連は韓国(からくに)に派遣されることが多い氏族であったのではないかというのが宮司の見解。
◎辛國連(韓国連)は「新撰姓氏録」に、河内国ではないものの「摂津国 神別 天神 物部韓国連 伊香我色雄命之後也」、「和泉国 神別 天神 韓国連 天神 神饒速日命六世孫伊香我色雄命之後也」とある氏族。呪術者の韓国広足(カラクニノヒロタリ)を輩出した氏族として知られます。広足はかつて師と仰いだ役小角との確執等の事蹟が伝わります。
◎当社の北東すぐに葛井寺(ふじいでら)という仏教施設があります。これは渡来系氏族である葛井氏(フジイシ)の氏寺と考えられているもの。葛井氏にはいくつかの同名氏族が見られます。当地に関わるのは7世紀に百済より渡来してきた白猪氏が、葛井姓を賜ったもの。「大宝律令」の作成に携わるなど、新しい文化をもたらしたことで権勢を拡大しました。当社との関連も指摘されています。
◎当社には遷座された歴史があり、旧社地は北西500mほどの辺りと推定されています。かつて藤井寺球場があった、現在は四天王寺東高校がある場所から線路を挟んだ北側辺り。現在の藤井寺市恵美坂1丁目辺りかと。かつては「神殿(こうどの)」という小字名があったようです。
そこより北方すぐの恵美坂2丁目から西隣の羽曳野市島泉にかけては、「陵東遺跡」が発見されています。場所は雄略天皇の治定墓(治定には否定的な見解が有力)の前方部裾。古墳時代前期末~中期初頭の建物跡や井戸、溝などが発見され、溝底からは3体の人物埴輪が出土。5世紀後半~6世紀初頭に製作されたものと伝わります。当社創建から間もない頃であり、関連が窺えます。
◎当社には「式内社 長野神社」が明治に合祀されています。こちらは渡来系の長野連氏が奉斎していたと考えられています。「新撰姓氏録」には「河内国 諸蕃 長野連 山田宿祢同祖 忠意之後也」とある氏族(同内容が「右京 諸蕃」にも見える)。「山田宿祢」の項には「出自魏司空王昶也」とあります。おそらくは魏より朝鮮半島を経由して渡来したのであろうと。司空王昶は河川工事の技術集団であったとされます。「陵東遺跡」の溝の施工にも携わったのでしょうか。
◎「式内社 長野神社」の元の鎮座地は葛井寺の南西の境内地周辺であったとのこと。こちらも葛井氏が奉斎していたという説もあるようです。当社の祭神の一柱である素盞嗚神を祀っていたと伝わります。

*写真は2019年2月と2022年7月、2024年6月撮影のものとが混在しています。









境内社 春日天満宮

境内社 春日稲荷社



*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。