等彌神社
(とみじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市桜井1109
(P有)

■延喜式神名帳
等彌神社の比定社

■旧社格
県社

■祭神
[上津尾社] 天照皇大神
[下津尾社] (右殿 八幡社) 磐余明神 品陀和気命 (左殿 春日社) 高皇産霊神 天児屋根命


桜井市「桜井」の霊峰「鳥見山」(標高245m)西麓に鎮座する社。当社より概ね西側の橿原市東部にかかる一帯は「磐余(いわれ)」と称され、神武天皇所縁の地。「神名帳」編纂時(延長五年・927年)には城上郡に属していたものの、遅くとも明治以降は「十市郡桜井村」となっており、何時の頃からか十市郡に編入されています。
【創祀・創建】
◎創建年代は不詳ながら、神武天皇紀四年春二月に「鳥見山」山頂に皇祖天神を祀り、「大孝」を述べたという、「霊畤(れいじ・まつりのにわ)」を始めとするとされています。紀の記述は以下の通り。
━━四年春二月二十三日、神武天皇は詔して「我が皇祖の霊が天より降り来て我が身を助けた。今諸々の敵を平げて、天下は無事である。そこで天つ神を祀り大孝を申し上げたい」と。 「鳥見山」山中に「霊畤(まつりのにわ)」を立て、そこを「上小野榛原(かみつおののはりはら)」・「下小野榛原(しもつおののはりはら)」と名付け、高皇産霊尊を祀った━━(大意)

これは天皇即以後に皇祖天神を祀るという、一代一度限りの「大嘗祭」が、当地で史上初めて行われたものと解されます。

◎ただしこの「鳥見霊畤」については、他に候補地が2ヶ所存在しています。一つは宇陀市の「鳥見山」山中霊畤跡、もう一つは東吉野村「下小野榛原」の「鳥見霊畤」
地理・伝承いずれの観点からも妥当性があり、当社地を含めた3ヶ所のうちからいずれかを決するのは困難かと思われます。神武天皇の故地として、3ヶ所すべてで行なわれた可能性すらもあるのではないかとも。

◎「鳥見山」は神武東征の砌、最終決戦が行われたとされる地。神武即位前紀の記述は以下の通り。
━━十二月四日、皇軍は遂に長髄彦(ナガスネヒコ)を討つことになった。戦いを重ねるもなかなか勝つことができない。そのとき忽然と空が陰り雨氷が降ってきた。そこへ金色の不思議な鵄(とび)が飛び来て、天皇の弭(はず、=弓先)に止まった。その鵄は光り輝き雷光のようであった。このため長髄彦の軍は皆、眩惑され戦えなくなった。「長髄」はもと邑の名であり、それを人名とした。皇軍が鵄の瑞兆を得たことから、当時の人たちは「鵄邑(とびのむら)」と名づけた。現在「鳥見(とみ)」というのは、これが訛ったものである━━(大意)

◎同音社名の登彌神社が添下郡に鎮座します。饒速日命六世孫である伊香色乎命(イカガシコオノミコト)の後裔である登美連(トミノムラジ)が祖神を祀ったものと思われます。
そちらは饒速日命の勢力範囲内であったとされます。饒速日命の故地はこれまで大和盆地内の伝承地を悉く訪れた結果、盆地北西部から生駒山地内、それを越えた河内国内に集中しており、それ以外は皆無に近い状態。従って饒速日命の勢力範囲は当社地までは及んでいなかったと推測。一方で長髄彦の故地は、唐古・鍵遺跡を核として盆地内のあらゆる所に及んでいます。従って長髄彦は盆地内を広く勢力範囲にしていたものと考えており、「鳥見山」が皇軍を迎え撃つ地となったのではないかと推察。
◎上総国には「鳥見神社」と称される社が20社余り集中しています。御祭神は悉く饒速日命。これは物部氏の東遷によるものと思われます。
ところが当社は天照皇大神を上津尾社で祀り、また宇陀市の鳥見神社は主座を皇祖天神(高皇産霊尊か)としています。これについては始源は饒速日命を祀っていたものの、神武天皇が「大孝」を述べた地ということから、現在の御祭神へと替わったものと考えられます。
【上津尾社の遷座】
◎往古は上津尾社は「鳥見山」山中の「霊畤拝所」の場所に鎮座していたとされます。ところが上天永三年(1112年)に社殿が雨で流され谷に落ちたとのこと。疫病の広がりも鑑みて現在の場所に遷座したと社記にあるようです。

江戸時代には「能登宮」と称されていたようです。その頃は「鳥見山」も「能登山」とも称されていたという資料も。

なお「鳥見山」山頂には式内大社 宗像神社が鎮座していたようです。そちらは高市皇子を祀る社。天武天皇が創建に関わったと思われます。現在は「鳥見山」北側麓にひっそりと鎮まっています。
【下津尾社】
◎下津尾社についても創建年代は不明。創祀は下記に示す「剣池」の偶神像のことから、神武天皇の時代ではないかとも考えられます。創建は中世から近世に勧請してきた可能性もありそうです。なお御祭神にみえる「磐余明神」とは神武天皇(神日本磐余彦)のことと解してよいかと思います。
【能登宮】
◎当社はかつて「能登宮」とも称されました。これは崇神天皇の御代、四道将軍の一人として北陸へ派遣された大彦命がこれを平定。支配下となった能登の住人が当地へ大量移住したことによると伝わっています。
【謎の偶神像】
◎下津尾社の御本殿背後にはかつて「剣池」があり、畔に松の切り株があったとのこと。そこから謎の偶神像が出土しています(下部にレプリカの写真有り)。宇宙人などの愚説も一部に流布するほどの奇妙な姿をしたもの。
桜井市教育委員会の鑑定では二千年近く前のものであるとの結果が出たようです。  口の部分が尖っており、黒いことから「八咫烏の神像」と宮司が命名。神像の腹部にはベルトの大きなバックル状のものがみえます。神武天皇の武者人形には必ずといってもみられるものということから、また鑑定結果と時代が符号することから、神武天皇の神像ではないかと宮司はみています。またそのバックル状のものは八咫鏡ではないかと。
「剣池」は現在も下津尾社の社地内に見られ、移設されたのではないかと思われます。

なお同時に刀剣も出土し、そちらは古墳時代のものであるとのこと。

【「鳥見山」その他】
◎「鳥見山麓遺跡」が当社参道から南にかけて、標高100mの扇状台地にあるとのこと。縄文式土器、弥生式土器、土師器、須恵器、埴輪片が出土しているようです。

◎山麓には東西南北に渡り、「ナマガシラ(生首)の池」「方示ヶ坂」「シメヶ辻」「メグリ」「矢弭の松と注連掛の歌」「伏拝の芝」といった神武天皇所縁の史跡がずらりと並びます。これらは後世に附会されたものもあるかと思われますが、古来よりこの山が、神武東征所縁の地であり、「大孝」を述べた伝説の地であると認識されていたことが窺えるもの。

◎参照記事

鳥見山・多武峰 郷土史 15

鳥見山・多武峰 郷土史 16

(*鳥見山・多武峰郷土史 1~21)

◎「鳥見山」北裾の「金ヶ崎古墳」からは画文帯神獣鏡が出土しているとのこと。古墳は既に消滅し現存しませんが茶臼山古墳に近接していたようです。
また当社には神宝として勾玉(7.4cmもある巨大なもの)があり、「三種神器」が揃っています。

【当社の寳物】
古鏡(1面)・八坂邇勾玉・古代土鈴・神鏡臺(「台」のことか)・木製御酒瓶・東光寺古瓦・萬年茸(1個)・神鏡(3面、盗難にあっているので、代わりのものとして明治に奉納)・御剱(明治に奉納)

◎「桜井」は明治時代より木材の集積地として大いに栄え、財を成した者も多く住んでいました。その町の拠り所として篤く崇敬されたのが当社。およそ160基余りとも言われる寄進された石灯籠がずりと並ぶ参道は圧巻。


◎*神の庭*(境内写真集)
◎献灯祭ライトアップ
◎春期大祭

◎神の森アート


*写真は過去数年に渡る参拝時のものが混在しています。


一の鳥居

同上


二の鳥居

以下は下津尾社。



例祭時には開扉。扉には「金鵄」の彫刻が施されています。



以下は上津尾社。





祓殿石


猿田彦大神を祀る石座。

「鳥見山霊畤」への登拝口。


かつて上津尾社が鎮座していたという「霊畤拝所」。


こちらが「鳥見山霊畤」


「神武大孝」のモニュメント


下津尾社の社殿背後から発見されたという謎の偶神像(レプリカ)


秋の「献灯祭ライトアップ」時の境内。





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