
河野:
ウッドクロッグは、どのくらい前から作られているんですか?
村山:
構想し始めたのは、10年くらい前なんです。
もともと私が18、19歳、高校生くらいの頃から、ビルケンシュトックとか、ドイツのラフなスタイルのサンダルが好きだったんですね。当時は、まだ日本にはあまりなかったんですけど。
音楽も、60年代や70年代のカルチャーが好きで。そういう服装には、こういう靴がすごく合うので、自分で探して履いていました。
19歳のときに、1年間だけロンドンに語学留学したんです。留学と言っても、ほとんど遊びだったんですけれども(笑)。
そのとき、キングスロードに「ナチュラルシューズストア」という靴屋さんがあって。いつもラフでナチュラルな靴を探していたので、そこに入ったんです。
そしたら、真ん中に白いクロッグがあって、それがパッと目に入ってきたんですね。
「かわいい。これください」
と言って、履き替えたんです。
タイダイのロングスカートなどに合わせて街を歩いていたら、いろんな人が「それ、かわいいね」と声をかけてくれて。特に、60年代っぽいファッションをしている、おしゃれなロンドンのお姉さんたちが。
それで、自分が営業しているみたいに、「あそこのお店にあるよ」と宣伝していたんです(笑)。
少し埋もれていたものに、また人気が出てきたのかな、時代の流れなのかな、なんて思っていました。
それから、20歳になって日本に帰ってきました。
それまでは、靴の仕事をしようなんて、全然思っていなかったんです。
でも、たまたま父の紹介で、大阪の靴メーカーがデザイナーを探していると聞いて。「あんたのところの娘、来ないか」と。
私は、もっとどこかへ、ふらふら放浪しに行きたかったんですけど。親にもだいぶお金を使ってもらったし、迷惑もかけたから、ちょっと自分で稼いで、それから行こうかなと思って。
「やりますよ」
と、軽い気持ちで答えたんです。
そしたら、もう翌日には迎えに来て、社長室に連れていかれて。私は寝巻きみたいな格好で行っていたんですけど、
「明日から来てくれる?」
と言われて。
それから23年間、その会社の社員として、靴のデザインや企画をしていました。
量産のメーカーなので、トレンドも追いかけないといけないし、非常に勉強にはなったんです。
でも、その中でも、やっぱり自分のテイストは持っていて。
会社には、1950年代くらいから70年代、80年代にかけての、日本やイタリア、ドイツの靴の資料が、どっさり置いてあったんです。
誰も見ていないような資料だったんですけど、私は夢中になって読みあさって。
「私がやりたいのは、こっちや」
と思ったんですね。
それで、自分らしいテイストを、少しずつ企画に混ぜていったんです。
そうすると、私が企画したものが売れるんですよね。会社も右肩上がりになって、成長していった。そういう時代だったというのもあるんですけど。
私は、特別にデザインの学校へ4年間通ったとか、そういうわけではないんです。
でも、小さい頃から好きだったものや、音楽、カルチャーを反映していくと、それが仕事になっていった。
自分が面白いと思うもののエッセンスを入れながら、もちろん、ある程度は売れることも意識していました。
社内では反応がなくても、売り場や数字に反応が出てくる。それが楽しくなったんです。
そうすると、社長も期待してくれて、
「ここの工場で毎月10万足作れるように、企画してな」
というようなことも任されるようになって。
「まあ、ええわ」
と思って、頑張っていました。
その代わり、働き方は割と自由にさせてもらっていて。
「今日は晩までやりたいので、明日は昼から行きます」
とか。
海外出張に行ったら、「そこで2日くらい遊んどいで」と言ってくれるような社長だったので、相性がよかったんですね。
そうやって、43歳くらいまで、二十何年間勤めていました。
ところが、会社を畳むことになったんです。
私は、それしかやってこなかったし、たぶんレジ打ちも無理やし、今から別の業界でゼロから始めるのも……と思って。当時は、お給料もそれなりにもらっていましたしね。
それで、「もう、靴で行こう」と。
振り返ると、今まで自分が本当にやりたかったことは、そんなに実現できていなかったんです。
価格帯もあれば、使う素材も決まっている。売り先のことも意識しないといけない。
そういう制約をいったん外して、自分が本当に作りたいものを作りたい、という思いがありました。
それで独立したんです。
まずは、得意分野の企画・デザインから始めました。
勤めていた会社は扱う数量が多かったので、取引先の方々も、私がデザインしていたことを知ってくださっていたんですね。
最初は、小さな会社さんから、
「企画をやってくれへん?」
という話が、自然と集まってきて。それで、しばらく仕事をさせてもらっていました。
でも、それはそれで、結局は以前と同じことをしているんですよね。
しかも、状況はより厳しくなっていた。百貨店も落ち込んでいましたし、デザイン性のある靴の需要も減って、スニーカーが広がり、服装もカジュアルになっていった。
そういう時代に、外部デザイナーとして毎月お金をいただくのは、結構プレッシャーでもあったんです。
いいものを作ったとしても、その先で採用されなかったら、結果としては駄目、という感じで。
それでは面白くないし、このままでは、企画のアシスタントもいる自分の会社を続けていくのも難しい。
やっぱり、本当にやりたいことをやろうという気持ちが出てきて、
「自分で靴を作ろうか」
と思いました。
ただ、それまではメーカーでの企画が中心で、自分で靴を作っていたわけではありません。
だから、ハンドソーンやパターンのことを、もう一度きちんと勉強しようと思ったんです。
若い頃はイタリアにも留学したかったんですけど、結局、忙しくて行けなかったので。
大阪に、プロ向けの靴学校があって、そこへ通いました。
ペーパーパターン、つまり型紙や、木型の設計などを勉強するんです。数値を計算したり、比率をかけたり、いろいろややこしくて。
自分でデザイン会社を始めてから、6年くらいは通っていたと思います。メーカーさんの息子さんたちに交じって。
靴作りもやってみたんですけど、だんだん、
「今さら、40代後半、50歳近くになって、私がハンドソーンでイタリア式の靴を作っても、そんなにやりたいわけでもないし、上手な人もいっぱいいる」
と思うようになったんです。
私は、大阪の生野区という、もともとつっかけ履きの産地だった場所にいて、ビルケンシュトックやウッドクロッグも好きだった。
だから、かっこよすぎる靴というより、さっと履けて、普遍的で、どこか憎めない。いつの時代にも、かわいく履けるようなものを作りたいと思いました。
その頃、コロナになって、取引先のメーカーさんも、軒並み業績が悪くなって。企画の仕事も減るし、会社がなくなることもあったんです。
そんなとき、自分が履いているものを見たら、クロッグみたいなものばかりだったんですね。
25年前に買ったウッドクロッグまで、まだ履いていた。
「これは捨てられへんな」
と思って。
5年に1回くらい、ふと見直しても、そのかわいさが変わらない。
時代がこんなにひっくり返って、コロナでいろんなことがぐちゃぐちゃになっても、自分にとっての価値が変わっていない。捨てられないし、おしゃれでもある。
「これは、やっぱり違うな」
と、あらためて思い始めたんです。
それで、「やっぱり、これをやりたい」と。
ウッドクロッグをいろいろ調べてみると、日本では、本格的に作っている人がほとんどいなかったんです。
量産の靴メーカーにいたので分かるんですけど、70年代ブームなどが来ると、クロッグ風の靴は企画するんですよ。
でも、北欧の伝統的なウッドクロッグというところまで、深く掘り下げるわけではない。
スタイルだけを取り入れたり、木に見える別の素材で作ったりする。
それは、私がやりたいものとは違うと思いました。
私は、こういうカルチャーが好きで、世界のいろんな靴を見てきたし、自分でも長く履き続けてきた。
音楽やファッション、ヨーロッパやアメリカの文化にも、ずっと興味を持ってきた。
靴業界にいて、靴も作れる。
「これをやるとしたら、私しかいてないんちゃうか」
と、勝手に思ったんです(笑)。
それで、「こっちにしよう。クロッグを勉強しよう」と決めました。
コロナの前から考えてはいたんですけど、本格的にリサーチして、ウッドクロッグへ舵を切ったのは、コロナになってからだったと思います。
それまでは、バレエシューズもいいな、自分でハンドメイドの靴を作るのもいいな、と迷っていました。
企画の仕事も、まだ2、3社あったので、そちらにも必死でしたし。売れにくくなっているぶん、余計に手間もかかる。そんな状態でした。
ただ、クロッグを調べても、誰も作り方を教えてくれないし、そもそも情報が表に出ていないんです。
生野で靴を作っていた人に聞いても、本格的なウッドクロッグとは違う。
リサーチ自体は、ずっと続けていました。
でも、日本でも、靴の下請けさんや職人さんが表に出てこないのと同じで、木底のサプライヤーや、作り方を教えてくれるメーカーさんが、なかなか見つからないんです。
そんな中、半分諦めかけていた頃に、ある日、ぽんと出てきたんです。
スウェーデンの方でした。
「もう、この人しかいない」
と思いました。
それで、自分の思いの丈を、長い文章にして送ったんです。
「私はこういう仕事をしていて、10代の頃からクロッグが好きでした。ずっと作りたいと思っています。日本にはまだ、そのよさが十分に伝わっていません。そのよさを伝えたい。でも、作り方も、底の入手先も分からないんです」
というようなことを書きました。
しばらく返事がなくて、駄目かなと思っていたんですけど、ある日、返事が来て。
「そんなに好きなら、教えてあげるよ」
と言ってくださったんです。
もう、「ありがとうございます!」という感じでした。
木底を送ってもらって、作り方も教えてもらいました。
当時はオンラインでしかやり取りできなかったんですけど、その方が、そういうことに結構慣れていて。
感動しましたね。
「うわあ、憧れていたクロッグの現場や」
「こうやって作るの?」
「うそ!」
みたいな(笑)。
靴工場は、日本も台湾も中国も、ヨーロッパも、いろんなところを見てきたんです。
でも、クロッグは作り方が全然違った。
初めて見たときは、思わず「キャー!」と言いましたもん。
「まさか、こんな作り方なんや」
と思って。
そこで、また面白いと思ってしまったんです。
作り方はシンプルだし、私ひとりで大きな工房を持つことは難しくても、小さく始められる。
マイクロワイナリーみたいなものがあるじゃないですか。あんな感じやな、と思ったんです。
「これやったら、自分にもできる」
と、確信しました。
それで、木底が届いて、教えてもらったとおりに作ろうとしたんですけど、機械がない。
最低限、いくつかの機械が必要なんです。最新の機械ではないんですけど、独特の機械があって。
向こうから輸入すると、すごい金額になるので、こちらで作らないといけない。
そこから、また何年か試行錯誤しました。
鉄工屋さんに相談したり。でも、そもそも誰に頼んだらいいのかも分からない。
そうして、ようやく形になり、作れるようになったときも、感動しました。
ただ、やっぱり現地へ行って、向こうの現場で見ないと分からないことがあるんです。
いろんなコツもありますし、動画では伝えきれないこともある。機械も、ミリ単位の設定が必要だったりするので。
それで、コロナが落ち着いて、まだみんなが海外へ行くかどうか迷っているくらいの時期に、スウェーデンへ行くことにしました。
スウェーデンは、比較的、制限が緩かったので。
「行こうか」
とチケットを取って、
「10日間くらい、そちらで働かせてもらえませんか」
とお願いしたんです。
河野:
すごいですね。
村山:
いや、全然すごくないです。行きたかったから。
行ったら、家にも泊めてくださって。
そこで、すべてが分かったというか……もちろん、すべてではないんですけど、
「ああ、なるほど」
と思うことがたくさんあったんです。
朝から現場に入って、いろいろ教えてもらって。肝になる部分をつかんで帰ってこられた。
あれが、作れるようになるための、一番大きなきっかけでした。
でも、それはそれで、今もまだ試行錯誤中です。
日本の気候の中で、日本で手に入る革を使って作らないといけない。向こうで使っている革とは違いますし。
いろんなところで、独自のやり方を作っていかないといけないんです。
向こうの人の感覚と、日本人が考えることにも、少し違いがあって。
向こうでは簡単に「これでいいよ」と言われても、こちらでは「全然違うやん」と思うこともある。
最近は、そういう経験が、だいぶ積み上がってきました。
「こうなったら、こう解決したらいい」
「こういう緊急事態には、こう対処できる」
ということが、少しずつ蓄積されてきて、ようやく今、という感じです。
でも、まだまだ途中です。
時々、「なんで、こんなことを始めてしまったんやろう」と思うくらいです(笑)。
河野:
そもそも、クロッグというのは、どういう意味なんですか?
村山:
「クロッグ」は英語なんです。
つっかけのような履き物の呼び名ですね。
「サボ」という言葉もありますけど、日本で使われている「サボ」は、もう少し範囲が広いんです。
かかとのないものなら、木底ではなくても、つっかけやスリッパのようなものまで、サボと呼ばれることがあります。
「サボタージュ」との関係など、語源にはいろんな説があるようなんですけど。
日本では、「ウッドクロッグ」という言葉が、まだ全然知られていなくて。
「何のことか分からない」
と言われるんです。
私は靴業界にいたので、みんな知っていると思い込んでいたんですね。
「マレットのサボって言った方が、分かりやすいんちゃう?」
と言う人もいます。
それに、途中から「クロックス」が広がったので、クロッグと言うと、クロックスをイメージされることもある。
クロックスも、おそらく、もともとの形としては、こうしたウッドクロッグがベースにあるのだと思うんですけど。
河野:
ダンスコなども、ちょっと似ていますよね。
村山:
ダンスコも、もともとはウッドクロッグがルーツにあると思います。
ただ、あちらはウレタンソールという、成型された素材の底を使って、クロッグのような形にしているんですね。
河野:
そうなんですか。
村山:
見た目は近いですよね。
ダンスコが好きな方も、結構、見に来てくださいます。
私が作っているのは、スウェーデンなど、北欧に伝わるウッドクロッグです。
オランダにも、全部が木でできた木靴がありますけど、あれとは少し違います。
革を甲に使って、履きやすい形にした「スウェーディッシュスタイル」。私は、そのスタイルのウッドクロッグを作っています。
デンマークなど、ほかの国にもあるんですけど、スウェーデンが、その中心的な国なんですね。
もともとは、何百年も前からある履き物です。
頑丈なので、湿地での作業や農作業、炭鉱などで、足先を守るためにも使われていました。
スウェーデンは、日本と同じように森林が豊かな国です。木があって、牧畜や酪農も盛んだったので、革もあったと思うんです。
そうした身近な素材を組み合わせて、自然に生まれた靴なんでしょうね。
木底の靴自体は、もっと昔からありますけど、今のような形には、300年くらい前からなってきたそうです。
教えてくれた師匠のメーカーでは、
「うちの定番の形は、160年くらい前から、あまり変わっていない」
と言っていました。
基本の形や比率ですね。
それまでに、日常で履かれながら、使いやすい形に磨かれてきた。
いわゆる「用の美」で、160年くらい前には、もう足し算も引き算もいらない形になっていたんだと思います。
私は、かわいさや存在感、ファッション的なところから入ったんですけど、靴作りを勉強していた仲間に履いてもらうと、みんなびっくりするんです。
メーカーの息子さんや、毎日、手で靴を作っているような人たちも。
河野:
スウェーデンへ行くと、今でも、みんな履いているんですか?
村山:
いえ、今は、そこまでみんなが履いているわけではないんです。
もともとは、日本のヘップサンダルやつっかけのような、日常履きだったんですね。
それが、1950年代から60年代くらいに、スウェーデンの伝統的なクロッグが、ファッションとして紹介されるようになった。
マリメッコなど、北欧のデザインに関わる人たちが、ニューヨークへ紹介したという話もあります[固有名詞・経緯は要確認]。
グリニッジ・ヴィレッジなどで紹介されて、地元のおしゃれな人たちに広がったそうなんです。
アメリカの『セブンティーン』という雑誌にも取り上げられて、かわいい女の子たちの履き物として、ポップカルチャーの中で広がっていった。
アナ・スイなどにも通じる、ああいう雰囲気ですね。
60年代、70年代のファッションには、すごく合うでしょう。
だから、今も、北米でよく売れているんです。
サンフランシスコやポートランドなど、そういう文化的な背景のある街で、選んで履かれている。
私は、クロッグは「あえて、自分で選んで履く靴」だと思っています。
スニーカーやパンプス、ローファーと同じように、必要だから履くというだけではなく、
「私は、これを選びます」
という靴なんです。
自分らしく、豊かに選ぶということですね。
「明日は、きちんとしないといけないから、黒いパンプスにしよう」
「ローファーにしよう」
「今なら、きれいに見えるスニーカーにしよう」
という選び方もありますけど、それだけではなくて。
他人の目線ではなく、
「自分が、これがいいから履く」
という、自分の目線で履いてもらいたいんです。
私自身も、そういう気持ちで靴を選んできたので、その究極がクロッグだなと感じたんですね。
心地よさも、面白さもある。どこか憎めないかわいさもある。
一辺倒のファッションにはならないんです。
今、ヨーロッパなどでは、私と同じように、クロッグの形や機能に惹かれて、小さな工房やブランドを始める人が増えています。
なぜか、女性オーナーが多いんです。
もともとデザイナーだった女性が、小さなファクトリーを始めたりしていて、すごく元気に広がっている。
でも、アジアでは、まだほとんどない。
だから、
「日本にだって、ひとつくらいあってもいいやん」
と思って、始めました。
ただ、市場がほとんどないところから始めたので、なかなか大変です。
売り先も決まっていないところから、時間もお金も体力も、先に注ぎ込んで。
一生のうちで、こんなに使うことがあるのか、と思うくらい、今もやっています。
河野:
今は、もう、この仕事一本なんですか?
村山:
はい、一本です。
もう、デザインの仕事をしている時間がなくて。今は、そちらはやっていません。
ただ、売り方もまだよく分からなくて、とりあえず作るところから始めたので。
インスタグラムをやったりしていますけど、ネットショップも、まだ十分にはできていないんです。
河野:
こちらの写真は、アトリエですか?
村山:
そうです。大した場所ではないんですけど、工房はあるんです。
もともと、私の祖母の姉妹にあたる人たち[続柄は要確認]が、文房具屋をやっていた場所なんです。
戦後すぐに、疎開先から大阪へ帰ってきたら、それまで住んでいたところが焼け野原になっていた。
それで、親戚のお寺の庭の一角を間借りして、家を建てたんですね。80年くらい前のことです。
そこで、姉妹ふたりで、文房具や手芸用品、雑貨を扱うお店を営んでいました。
その店構えを、少し再現するようにして、今の工房にしています。
写真に写っているところだけではなくて、隣にも半分、普通の住居の部分があって、そことつながっています。
こちらを広いスペースにして、2階もあります。
河野:
2階もあるんですか。
村山:
はい。その家が空いていたので、片付けて、工房にしました。
河野:
じゃあ、ここで作って、お客さんもお招きできるように。
村山:
そうです。できたら、そうしたいと思っています。
ただ、大阪の中心地ではないんです。
来られなくはない、というくらいの場所で。心斎橋などから、30分くらいだと思います。
できたら、そこへ来ていただきたいんですけど、通りすがりのお客さんは、ほぼゼロなので。
それで、去年は初めて、あちこちでポップアップをやってみようと思いました。
最初は、何がいいか悪いかも分からないので、いろんなところへ出させてもらって、1年間、走り続けた感じです。
それで、いろんな方に知っていただけたんですけど、やっぱり体力も使いますし、全部が全部というわけにもいかない。
これからは、合う場所を見極めて、無理のない範囲に収めていきたいです。
それと並行して、工房にも来てもらえるようにしたいなと思っています。
まだ考えている途中で、いろいろ不慣れなんですけど。
今は、まだ広げていきたい段階です。
ただ、単なる実用品というわけでもないですし、値段も、3万円台から4万円台くらいまでします。
ぱっと買えるものでもないので、どういう届け方がいいのか、考えています。
でも、お届けできれば、すごく合う方は、絶対にたくさんいらっしゃるような気がするんです。
先ほど、カタカナのお店も見せていただいたんですけど、日本のきちんとしたものづくりを、ぎゅっと凝縮して伝えていらっしゃる、素敵なお店だなと思いました。
そういうものづくりのファンのお客さまが、きっといらっしゃると思うので、そのあたりは合うんじゃないかなと。
事前にも拝見して、今日は来させてもらいました。
今日は、資料も持ってきました。かいつまんだものなんですけど、本当は、もっとお伝えしたいことがあって……。
打ち合わせは1時間くらいかな?
と思っていましたが、この時点でそろそろ2時間に、、、
続きはまたいつか!
本編はこちら
さがしモノの旅: ウッドクロックをもとめて大阪に
ムジパト番外編でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。

