狂躁亭日乘・明治天皇と西郷隆盛1805281200 | おととひの世界

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  『  私には
  たくさんの臣がおりますが

  もっとも親身に私を心配してくれたのは
    西郷隆盛であったと思います 』

西南戦争後しばらくの間
西郷さんは逆賊だったわけです
で名誉回復され
あの上野の銅像が立った時

明治天皇が
自分を最も案じてくれていた臣として
紹介されたうえで涙ぐまれたと

これ多くの外交文書に
残っている話なんで
当時日本に大使館があった国
作り話ではないんでしょうね

さらにその場で
   『  西郷には息子がおったはずだが
       今どうしておるのだ?』
とお側近くに

父親の戦争に従軍して
片足を失ったうえ
現在鹿児島で蟄居していると
すると明治天皇その場で

『  すぐ謹慎を解いて呼び戻し
   あらためて京都市長に任命するように 』

明治天皇直々の人事だった
京都で西郷が大変尊敬されていること
もちろんよくご存知でした

現在奄美大島
流人として行った先で結婚し
息子をもうけるところまで
NHK大河ドラマ話が進んでますけど

あの時奄美大島で生まれた子

この人が3代目の京都市長になります
明治の初めにアメリカに留学し
土木建設技術について
学んできた技術者

彼が山県有朋などの協力を得て
平清盛や織田信長以来

長年天下人の夢であった
琵琶湖の水を直接京都に引くという
大事業を成し遂げます

琵琶湖疏水です
東山をくり抜くんですからね
京都始まって以来の大事業ですよ

多くの外交官が見守る中
明治天皇自らこの人事を発令

 『  こうでもしておかなければ
       わたくしは死してのち
     西郷にあわす顔がありません 』

そう言われたという
考えてみると明治天皇にとって
最も長いこと接しておられた
明治の元勲が

西郷隆盛だったでしょうからね
岩倉遣欧使節団に伴って
多くの元勲は外国に

東京政府の留守番役は
完全に西郷隆盛ひとりに任されていた

あの時西郷隆盛がいなかったら
東京政府はどうなっていたか?

兵制改革を進める山県有朋
贈収賄がらみの金銭スキャンダルの噂が
絶えない人物だった

これに桐野利秋ら
薩摩近衛軍が反発

何度も
山県有朋を殺そうという動きが起きた

しかし西郷隆盛は山県有朋を
もっとも陸軍兵制に携わっていた
時間が長くしかも留学経験ある

余人をもって代え難い人物であることを
よく理解していた

もはや我慢ができぬと
いきり立つ薩摩系実行部隊

これを抑えて騒擾未然に抑止できる
力を持っていたのは

西郷隆盛ただ1人でした
最後には西郷隆盛の
自邸にまで押しかけてきた

その押し入れには
山県有朋がかくまわれていた
と言われている

実際あの頃山県有朋
西郷隆盛がいなければ
殺されていたでしょうね

東京政府は不安定
しかも財政難でカネがない

普通は誰だってカリカリします

しかも地方には不平士族の不満が渦巻く
明治6年の政変で西郷が下野するまで

いつ大反乱が起きて
明治政府がつぶれるか?
わからない状態だった
しかし西郷隆盛はいつも泰然自若

下宿先で世話になっていた
元旗本士族の娘さんに作ってもらっている
手弁当しか食べなかったと言う

大隈重信は学識あるエリート
大久保利通が海外にいる間
その代わりを務めていた

政府庁舎内で松花堂弁当を食べている
弁当が贅沢だと西郷隆盛に怒られる

新政府内にあって
田夫野人然として貧乏くさいと
あの西郷という男何とかならんかと

大隈重信は常に文句を言っていた

大隈は西郷が苦手
そして西郷隆盛もホンネでは
大隈重信が大嫌いです

しかし政府を預かる最高責任者ですから
いちいち決裁をとらねばなりません

朝方西郷隆盛を囲んでミーティングがある
そこで今日こういう決済が
ありますからよろしくと

一番頼みごとが多いのが
立場上は大隈重信だった
ある日遅れてやってきた西郷隆盛

学生の早弁じゃないが
弁当を広げだした
そこへ大隈重信が来た

  『  大隈サァ  忙しかろう!
     迷惑をかけてばっかりですまん!
   オハンがいちバン仕事しとるんじゃっで
      
      今日のように
      オイが遅れたら大変じゃ
    オハンが思うように使うたらよか! 』

なんと高官い並ぶ前で
大隈重信に自分の実印を渡してしまう
ポ~ンと預けちゃったわけで

それを後から聞いた
司法卿の江藤新平
西郷が実印を預けたことに驚愕
そりゃそうですよ

『  もともと魯鈍ナリなと思ってはいたが
     西郷という男  本物のバカかもしれん   』

実印を預けたと言ってもね
みんなが見ている前で預けているわけで
しかも預けられた先はわかっています

何かおかしなことがあれば
そいつの責任になりますよね

ある意味うまいやり方ですよ
効率的でね
こんなものをもらった以上
使うだけ使ってやろうじゃないかと

大隈重信と江藤新平
猛烈に仕事をしました
西郷さんは万事この調子ですから
下で仕事をするには
とてもやりやすかったと言います

いくら泰然自若といっても
不安定な政府ですからね
心労はたいへんなもの

西郷隆盛は手紙で
当時の自分の立場を
『破裂弾中の昼寝』と自嘲している
どこで爆発するかわからない
そういう自覚はあった

おそらく肥満による高脂血症で
西郷は何度か心不全を起こしている

これを明治天皇は心配された
外国人の 侍医をよこし
西郷の治療にあたらす

まず肥満解消をしなければという診断
治療薬として西郷隆盛
『ひまし油』を処方されます
ヒマという毒草からとる油
『下剤』です

西郷隆盛が海外の大久保に
書送っていた手紙によると

大変ありがたいことであるが
20分から30分に一度
トイレに立たなければならず大変であると
なかなか下半身に力が入らずと

まあそれでも
急死することはなかったんですから
効果はあったんでしょう

明治六年の政変
いわゆる『征韓論』で揉めて
西郷が下野したあの事件ね

あの時東京
明日にもクーデターが起こると
騒然となったんですよ

桐野利秋、篠原國幹以下
薩摩近衛軍は全員西郷心酔者ですから
彼らが動き出したら
東京警察の力ではどうにもならない

西郷隆盛はそれがよくわかっています

直ちに船で
鹿児島に引き返しました
薩摩士族は全員引き返さざるを得ない

『  オイは陸軍大将のままじゃ
     そいじゃでオイの許可なく
     たとえ一兵たりとも動かしたなら
    オイはオハンらを逆賊として
      討たねばならんでなァ
         忘れたらいかんぞ  』

大西郷からこうケジメをつけられ
血の気の多い薩摩士族も
動くことができなかった

西南戦争で反乱を起こす気が
本気であったら

あの時点で東京でやっていた
おそらく東京クーデターは
一日であっさり成功したはずですよ

あくまで西郷隆盛
そんなことをやる気はなかったんですよ
明治六年の政変で
鹿児島に帰ることになった

明治天皇へのご挨拶
当時二十歳を過ぎておられる
体格が大きくなり相撲が得意
もはや侍従では相手にならない

そこで最後だからと
西郷隆盛が相撲を取ることになった
明治天皇を殴りつけ
ボコボコにしたと言われている

当然天皇も反発します
何度も反撃を試みるものの
相手は西郷です

へとへとになるまで
地べたに叩きつけられる
最後に西郷は天皇の土を払い

『しっかり気張りやんせ!』
それが西郷隆盛にかけてもらった
最後の言葉になったと言うんですが

この話山岡鉄舟ではないか?
という説もあって
はっきりしません

山岡鉄舟も大男で相撲が強かった
人の上に立つ人は
こういうトレーナーが必要ですね