前回記事の続きです。

今回は、原爆供養塔シリーズ最終章となります。

 

「原爆供養塔」には、

約7万人の身元不明の遺骨が眠っています。

 

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その供養塔に、

38年間、ほぼ毎日のように通い続けた女性がいました。

 

佐伯敏子さん(1919~2017)

 



※原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年 

堀川恵子著(文藝春秋)P165の画像をお借りしています。

 

そこには、8月6日の壮絶な体験がありました。

 

「お母ちゃんの声なら、わかる」

 

原爆が投下された日、

佐伯さんは広島市内で被爆しました。

 

その後、母親を探して、

焼け野原になった街を歩き続けます。


救護所となっていた小学校の体育館と教室には、

何百・何千もの負傷者がひしめき合っていました。

 

 

 


顔は火傷で、誰が誰だか、わかりませんでした。

 

探すすべもなく途方にくれていた時、

 

「お母ちゃんの声なら、わかる」

そう思ったのです。

 

そして、

靴を履いたまま、ぎゅっと

負傷所の足先を踏みながら、

 

「痛い!」と、叫ぶ声を聞きながら、

母親を探し続けたのです。

 

けれど、

 

結局、母親は見つかりませんでした。


そして、

 

後日、佐伯さんのもとに戻ってきたのは、

半分やけた母親の頭の部分だけでした。

 

 

佐伯さんは、原爆で

13人もの家族・親類縁者を失いました。

 

 

一瞬にして、死に目にも会えず、

あるいは、目の前で苦しみもがき、

亡くなっていったのです。

 

 

それらの経験が

佐伯さんのその後の人生を

大きく動かしていきます。

 


「あの人たちは、どこへ行ったんだろう」


 

原爆で亡くなった人たちの中には、

 

家族に引き取られることのないまま、

身元もわからない遺骨になった人が、

 

たくさんいました。

 

その遺骨が集められた場所が、

現在の原爆供養塔です。

 


佐伯さんは、

この場所に通い、

供養塔の掃除を始めました。

 


焼け焦げた頭だけが戻ってきた、

母の残りの身体。


行方の分からなくなった夫の両親

 

そして、あの日、自分に踏みつけられて、

叫び声をあげて、亡くなって言った人達

 


みな、この土饅頭の下に眠っているかもしれない。


そう思うと、

なんかせずにはいられなくなったとあります。

 

そこから、

ほぼ毎日のように、38年間

 

佐伯さん自身も命は助かったものの、

 

次々と原爆症に襲われて、

全身に手術のメスの跡が残り、


28歳の時には、自分の歯も

すべて失われていました。

 

そんな中で、活動を続けられたのは。

 

そこに眠る人たちを、

 

「誰かが覚えていてあげなければ」

という強い思いもあったのではと、

 

私は思うのです。

 

供養だけでは終わらなかった

 

佐伯さんがしたことは、

掃除や供養だけではありません。

 

供養塔に収められている遺骨の中には、

ごく一部、身元がわかっている人もいました。

 




佐伯さんは、

その2000余りの名前や情報を、

一つひとつノートに書き写していきます。

 

電話番号や住所など、

手がかりが残っているものについては、

実際にその場所を訪ね、

 

遺族を探しました。

 

その結果、

わずか半年ほどの間に、

10人の遺骨を、

家族のもとへ返すことができたのです。

 

たった一人の女性が始めた活動でした。

 

しかし、

その姿を見て、

 

広島市も動き始めます。

 

遺骨の名簿や情報を、

全国の市町村役場に送り、

遺族を探す活動が続けられるようになりました。

 

その活動は現在まで続いていて、

2026年現在、

原爆供養塔に残されている遺骨は、

813人とされています。

 

毎年7月に広島市が発表する

「原爆供養塔納骨者名簿」



その背景には、

こうした一人の女性の、

地道な活動があったのです。

 

「平和公園」と呼びたくなかった

そして、

私がもう一つ、

 

佐伯さんの物語で心に残ったのが、

「平和公園」という言葉への思いです。

 

佐伯さんは、

この場所を「平和公園」と呼ぶことを、

嫌がっていたといいます。

 

なぜなら

ここは、


大切な人を亡くした人にとって、

「平和」という言葉だけでは

語れない場所だったから。

 

ここには、

名前のないまま眠る人がいて、

 

家族が、最後まで

見つけることのできなかった人がいる。

 

そして、

佐伯さん自身も、

13人の親類縁者を失い、


母親の最期も看取ることもできなかった。

 

だから、

ここは「平和公園」という言葉だけで、

とうてい表現できる場所ではなく、

 

亡くなった人たちと、

残された家族の哀しみが、

今も残る場所だと、言われていたのです。

 

「ここは、ソオっと歩かにゃいけんよ。まだ大勢の人が眠っておられる場所なんじゃから」

 

佐伯さんはいつも

「ごめんなさい。ごめんなさい。」と

つぶやくように、繰り返しながら、


平和公園の中を

そっと歩かれていたそうです。




1980年代に入り、

全国の学校が、広島への修学旅行に

力を入れるようになるにつれ、

 

 

佐伯さんは、

子供達に語り継ぐ活動に

尽力されました。

 

 


私は、その平和公園で

ガイドをしています。

 

毎年、

たくさんの修学旅行生や観光客をご案内します。

 


「平和」という言葉を

子どもたちに伝えることも、

私の大切な役割です。

 

でも、

 

佐伯さんの物語を知って、

改めて思いました。

 

「平和」を語る前に、

 

ここで、

一人ひとりの人生が失われたことを、

忘れてはいけない。

 

7万人という数字の向こう側には、

 

家族がいて、

友人がいて、

それぞれの人生があった。


そして、

その人たちを


探し続けた家族がいたのですから。

 




受け継がれていくもの

 

佐伯さんが、

38年間続けた供養塔の掃除。

 

その思いは、

今も受け継がれています。

 

現在も、毎月6日の月命日。

 

早朝から、

原爆供養塔を掃除している方がいます。

 

私の碑めぐりガイドの大先輩、

渡部和子さん達です。

 

80代になられた今も、

毎月、この場所に通われています。

 

 

 

※画像左が渡部さん。右は、吉川信晴住職(2024年9月に87歳で急逝されるまで、原爆供養塔の月命日の供養を続けられました)

 

 

「ここを大切に語り継ぎたい」

という思いは、

 

確かに次の人へと受け継がれています。

 

 

ここに眠っているのは、

「7万人の遺骨」ではなく、

 

7万人の、

一人ひとりの人生なのだと。

 

だから私は、

 

この場所で語られる物語を、

忘れないでいたいのです。

 

そして、

 

私もまた、

次の誰かに、

伝えていくことができたらと、

胸に刻んでいます。

 

 

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↑  

ここまでの平和を考える①~⑤のシリーズは、

広島生まれのジャーナリスト 

堀江惠子さんの著書を読んで、深く感銘を受け、

そして、周りのガイドの先輩達の話を聞いて、

ことさら、身近に感じることが出来て、

書かせていただきました。

 

 

もうひとつのヒロシマの物語。

一人でも多くの方に読んでいただきたいです。

 

 

▼関連記事①~④は、コチラです。