前回からの続きです。

 

広島市平和記念公園の北西にある、

原爆供養塔。

 

▲昨年公開された供養塔の内部の様子。

 

ここには、約7万人の身元不明の方々の

遺骨が収められています。

 

1952年、公園の中央に

原爆慰霊碑が完成した後も、

 

遺骨の収められた「供養塔」は、
朽ちかけた状態のままでした。

 

「公園内に墓は作れない」

 

そんな法の壁を乗り越えた男(ひと)がいました。

 

▼これは、前回のブログ記事に書きました。

 

そして、もう一つ、
 

供養塔の再建を阻んだのが、

 

「財源」

という壁でした。

 

 

退職金40万円を、供養塔のために

 

 

1950年、

広島市の助役だった森澤雄三さんは、

退職金、当時40万円を一円も受け取らず、

 

「供養塔再建」のための財源として寄付しました。

 

森澤さんは、戦後、初代の漁業組合長を経て、
その後、県会議員にトップ当選。

 

政界にも太いパイプを持つ人物として、
市長に請われて助役になった経緯があります。

 

その期待に応え、

 

広島県出身の池田勇人通産大臣や、
さらには吉田茂総理大臣にも面会し、

 

広島復興のために貢献しました。

 

そんな「剛腕」ともいえる

森澤さんの胸の奥には、

 

二人の娘さんを原爆で亡くした、
深い悲しみがありました。

 

二人の娘を原爆で失った

 

その日、長女も次女も広島市内で、

仕事や学徒動員の作業にあたっていました。

 

次女は避難先で発見されましたが、

全身に大やけどを負い、
変わり果てた姿になっていました。

 

そして、自宅に連れ戻った翌日、
うわごとを言いながら亡くなったのです。

 

そして長女は、

被爆直後から行方不明に。

森澤さんは、それから2か月間、

来る日も来る日も、
娘を探し歩きました。

けれど、とうとう見つけることはできませんでした。

 

33年間、誰にも話さなかったこと

 

森澤さんは、家の中では一切、
原爆について語ろうとしなかったそうです。

 

その森澤さんが、
たった一度だけ

 

心の内を打ち明けた相手がいました。

次女の同級生で、作家の関千枝子さんです。

 

関さんは、

8月6日に動員作業を休んでいたため、
奇跡的に助かりました。

 

その後、旧友たちの最期を知るために、
関係者から話を聞き、
その記録を著書に残したのです。

 

関千恵子著

『広島第二県女二年西組』より、一部抜粋

 

「あのころ、わしはよう眠れんのですわ。 

 

 毎朝、3時に目がさめてしまう。

 

 暗いうちに起きて、井ノ口(当時の海岸)まで

 歩いて行ったもんです。

 

 海岸で1時間ほどぼんやり休んで……

 

 海に向かっておらぶ(叫ぶ)んです。

 テルエー、タエコー、テルエー、タエコー

 

 それで気持ちをやっと鎮めて、

 家に帰るんですよ。(略)

 

 三十三年間……わしはこんな話をしたのは、

 はじめてじゃ。

 

 子供にもゆうておらん話じゃった。

 

 今も、話をするのが辛い。

 

 話しとうないんじゃ……」

 

 

33年間。

誰にも語ることができなかった、
娘への思いが、そこに滲んでいました。

 

 

原爆供養塔は、長女のお墓だった

 

 

森澤さんは、生涯、原爆供養塔に参ることを

欠かさなかったそうです。

 

息子の紘三さんは、こう語られたそうです。

「父にとって原爆供養塔は、
最期を看取ることが叶わなかった、
長女のお墓だったのでしょう。」

 

そして、

 

森澤さんだけではありません。

 

 

あの日を境に、
大切な家族と生き別れになってしまった
多くの人にとって、

 

 

原爆供養塔は、
「身元不明の遺骨が眠る場所」ではなく、

大切な人が眠っている場所だったのです。

 

 

私も、さかのぼれば、
縁のある人々がここに

眠っていることでしょう。

 

 

知らなかった、広島の物語

 

 

私は、被爆者の父を持ち、
広島に住み、
平和公園のガイドもしています。

 

それなのに、

森澤さんのことを知りませんでした。

 

この本を読むまでは、

 

 

堀川惠子さんの著書

『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』

(文藝春秋)を一部抜粋、要約および参考にさせていただきました。

 

 

歴史の表舞台では語られることのない、
一人ひとりの悲しみや願い

 

その思いに支えられて、

原爆供養塔は再建され、

今も、ここにあります。

 

私は、原爆供養塔の前に立つたびに、

 

歴史の事実を忘れないでいたい。

 

犠牲になった人たちや、
残された家族の悲しみと痛みを、
忘れないでいたい。

 

そして、

 

その思いに応えるために、

「私は、何ができるのだろう?」

と、問い続けていたい。

 

そう思うのです。

 

 

次回は、
原爆供養塔シリーズの最終章です。

 

 

【平和を考える⑤】
38年間、原爆供養塔に通い続けた女(ひと)

――佐伯敏子さん