▼前回の続きです。
平和公園の中心には、
原爆慰霊碑があります。
実は
当初、広島市は、
供養塔に納められていた遺骨を、
この慰霊碑の地下室に移すことを考えていました。
ところが、
ここで大きな壁が立ちはだかります。
それは、
都市公園の中に「墓」をつくることができない
という、法的な壁でした。
そこで、
遺骨を納める代わりに、
氏名が判明している死没者の方々の
名簿を納める形で、
国からの補助金を得て、
慰霊碑の建立が進められました。
こうして、
立派な原爆慰霊碑が建立される一方で、
遺骨が納められている供養塔は、
朽ちかけたバラックのような
状態のまま残されていました。
ここで立ち上がった、一人の男性がいました。
原爆供養塔の再建に動いたのが、
当時、広島市の建設局長だった
佐々木銑さんです。
佐々木さんは、
なんと、建設省(国)に事前に知らせることなく、
原爆供養塔の再建工事を決行しました。
そして、案の定、
工事のことで、国から呼び出されます。
その時、佐々木さんは、
原爆供養塔の再建は、
「墓の再建」ではなく、
公園用地が設定される以前から存在していた
「原爆遺跡」の保存・改修である
と説明しました。
佐々木さんには、
その「理論武装」がありました。
内務省時代に、
関東大震災後の復興事業に
携わった経験があったのです。
その中で、
東京・上野の寛永寺や芝の増上寺など、
寺院の境内が公園として
利用されている事例を知っていました。
「寺院・名所・遺跡」としての既存の権利が、
公園の中でも認められている。
その経験をもとに、
供養塔を「墓」ではなく、
原爆遺跡として保存する
という道を切り開いたのです。
そして、
昭和30年(1955年)8月、
原爆供養塔は現在の姿に再建されました。
地下には、
各地から寄せられたご遺骨を納めるのに
十分な広さの安置室も設けられました。
私は、
この方の名前を知りませんでした
ここまでの内容は、
堀川惠子さんの著書
『原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年』
(文藝春秋)を一部抜粋、要約および参考にさせていただきました。
(※昭和40年7月11日付の中国新聞記事を参考資料にあげられています。)
この本を読むまで、
佐々木銑さんというお願い名前を知りませんでした。
おそらく、
広島市民の中にも、
この名前をご存じない方は
多いのではないでしょうか。
私自身、
「原爆供養塔が、今ここにある」
ということを、
当たり前のことのように考えていました。
でも、
その背景には、
語られることのなかった
ドラマがありました。
佐々木さんは、
もともと広島の人ではありません。
復興のために、
広島に招かれた人でした。
その佐々木さんが、
ここ広島で、
原爆によって無縁仏となった人々の
遺骨を守るために、
一つの壁を乗り越えてくれた
ここには、
たくさんの遺骨が眠っているだけではありません。
その一人ひとりには、
その日まで生きてきた、
人生という物語がありました。
▲画像は、毎年8月6日に原爆ドームをのぞむ元安川で行われる、
灯ろう流しです。
家族がいて、
友人がいて、
仕事があって、
夢があって、
これからの人生もあったはずでした。
あの日までは。
その人たちの無念を、忘れない。
原爆の悲惨さを、胸に刻む。
そして、
二度と同じことを繰り返さないと、
平和を誓う。
その思いを受け継ぐ場所の一つが、
この原爆供養塔なのだと思います。
そして、
この場所を守るために、
語られることはなくとも、
尽力した人たちがいたことも、
忘れたくないと思うのです。
ここには、もう一人、
どうしても、
心にとどめておきたい男(ひと)がいました。
次回は
その方について、書かせていただきます。





