8月6日は、広島原爆の日。
広島平和記念公園では、毎年朝8時から、
平和記念式典が執り行われます。
今年私は、早朝6時から始まる、
原爆供養塔の慰霊祭に参加してきました。
ここで、少しだけ
原爆供養塔について説明しますね。
原爆供養塔は、平和公園の中心(慰霊碑)から
少し北西の位置にあります。
この供養塔の地下室には、原爆で亡くなられた、
身元の分からない遺骨など、約7万柱が
納められています。
「7万人」とひとまとめに
数字で表されているけれど、
その一人ひとりには、
つながる家族や、大切な人がいて、
夢や希望があって、
かけがえのない人生があったはずです。
私たちと同じように。
ここは、
名前のないまま葬られた人たちを、
忘れないための場所。
そして
遺族にとっては、
8月6日を境に、二度と会えなくなった家族を悼む場所でもあります。
平和公園の中でも、もっとも大切な場所だと、
私は思います。
普段、修学旅行生や県外からのお客様に、
平和公園の慰霊碑をガイドしていますが、
ふだんの限られた時間の中では、語りきれない、
もう一つの物語が、
この原爆供養塔にはあるのです。
実は、今の平和記念公園がある場所は、
当時の広島でも、一番の繁華街でした。
公園を東西に横切る道路は、
かつて奈良から九州・大宰府まで続いていた
西国街道
▲西国街道(赤い道路です)
この周辺には、昔は、宿場町で、商店が並び、
人々が行き交っていました。
平和公園から西に離れた場所には、
遊郭もありました。
原爆が落ちた当時、このあたりには、
商店街、
カフェ、
旅館、
呉服屋、
ビリヤード場、
映画館、
そして、たくさんの民家がひしめいていました。
この原爆供養塔がある場所は、
「慈仙寺」というお寺の広い境内でした。
そして、原爆が投下されます。
熱線で焼かれ、
爆風で吹き飛ばされ、
この一帯は、一瞬にして廃墟になりました。
人も、
家も、
街も。
そして、
平和公園の東西を囲む2本の川には、
火から逃れようと、
熱さから逃れようと、
水に飛び込んだ人々の
おびただしい数の遺体が、
浮かんでいました。
川岸では、その遺体を引き上げ、
荼毘に付す作業が、
延々と続けられていました。
そして、
元はお寺の境内だったこの場所に、
いつしか、市内中の遺骨が
集められるようになったのです。
そこに、一人のお坊さんが
通りかかります。
呉市の白蓮寺の住職だった、吉川元晴さんです。
広島市内で被爆した親戚を探すため、
たまたまこの地を訪れた吉川住職は、
性別も年齢も分からないほどに焼かれた遺体が、
次々と運ばれ、荼毘に付されていく光景を
目にします。
そして、
仏の道に生きるものとして、
その場を去ることが、
どうしてもできませんでした。
野宿同然でこの場所にとどまり、
荼毘に付された方々のためにお経をあげ、
あたり一帯に散乱していた遺骨を、
自ら拾い集めました。
8月6日を境に、
消息を絶った家族を探して、
多くの人がこの場所を訪れました。
身元の分からない膨大な遺体や遺骨を前に、
茫然と悲しみに暮れる遺族。
吉川住職は、その話に耳を傾け、お経をあげ続けました。
そして、
「ご遺骨を雨ざらしにするには忍びない」と、
宗派を超えた広島のお坊さんたちの協力を得て、散在する遺骨を集め、供養するための活動を始めます。
「広島戦災死没者供養会」を立ち上げ、
喜捨の行脚も続けられました。
そして原爆の翌年には、
木材不足の中、張りぼてではありましたが、「戦災死没者供養塔」が完成。
その後、老朽化に伴い、現在の「原爆供養塔」が建立されました。
吉川元晴住職は、
1956年に亡くなるまで、
毎月6日になると、この場所に来て読経を続けました。
元晴さんが亡くなった時、
長男の信晴さんは、まだ大学生でした。
その後、数年を経て住職になられ、
父に代わり、毎月6日にここへ通い、読経を続けるようになります。
そして、信晴さんは、
2024年、87歳で亡くなるまで、
この場所に通い続けました。
原爆供養塔前で、法話をする吉川信晴さん
(2022年7月6日 宮崎園子さん撮影)
ここに集まる、遺族関係者と共に、
霊をなぐさめ、
広島がつながる多くの祖先を
忘れないために。
そして今は、
広島市内の西應寺の副住職、平慈敬さんが、
毎月の慰霊祭を引き継いでおられます。
想像してみてください。
一面焼け野原になった広島。
(1945年11月頃 米軍撮影)
自分一人生きていくことさえ精いっぱいで、
それすらおぼつかない時代に、
身元も分からないほどに焼かれた人々を、
「忘れないために」と、
◎誰かが拾い、
◎誰かが供養し、
◎誰かが守り続けてきた。
その大切なものが、
今も受け継がれているのです。
当時、広島市には約35万人の人がいたとされ、
そのうち約14万人が、原爆投下後4か月以内に亡くなったとされています。
その約半数が、
名前さえ分からない状態で見つかっています。
そして、約7万人と言われる数の遺骨が、
今もこの原爆供養塔に眠っています。
元をたどれば、
私につながる誰かも、
ここに眠っているのかもしれません。
もう一つ。
今、緑豊かな公園になっているこの場所は、
原爆直後には、瓦礫と遺骨が残る焼け野原でした。
復興の際には、残された瓦礫をすべて撤去することはできず、
平和公園は、約1mの盛り土をして、その上につくられたました。
だから、
ここにも、
そして広島市内のあちこちにも、
今も
拾い集めることのできなかった遺骨が
眠っています。
町は、美しく復興を果たしました。
けれど、
本当の復興とは何なのだろう。
私は、そう考えます。
◎戦争のない世界。
◎核兵器など必要のない世界。
それが実現した時に、
初めて本当の意味で、
広島は復興したと言えるのではないでしょうか。
そして、この原爆供養塔には、
まだ私が知らなかった物語が残されていました。
次回は、
今年8月6日に、
この場所で聞いた一人のお坊さんの言葉について、
書いてみたいと思います。
▼続きはこちらです
(参考文献)原爆供養塔 忘れられた遺骨の70年
堀川恵子(文藝春秋)








