ねえねえ。
景気が良いって、どういう意味??
それはね。
景気良く全財産使い切ってしまいましょう!!
―――ってことさ。
さあて。
前回(第196話)の質問に答えよう。
経済について。
経済学について。
それはそれはきわめて当然の、いまさら言葉にするまでもない当然の前提でありながら、なぜか誰もが直視することのできない、盲点になってしまう、ある一点とは何か。
そのある一点さえ理解できれば
経済がわかると、わたしは言った。
その一点とは、何だろう?
今回のシリーズが始まる以前は、潜在意識について書いていた。(第185話まで)
潜在意識を 意のままに操ることさえできれば、あなたは自分で自分の現実を意のままに創造できる。
それは そのとおりだ。
だが、ここでいう意のままに操るとは、通常考えられているような、
「機械を操作するような感覚」
「コンピュータにプログラムを入力するような感覚」
「自分の手足を自在に動かすような感覚」
とは、だいぶ異なっていて、言ってみれば、それは、
可愛いペットを飼い馴らすようなものだ。
だから、意のままにとは言っても、あなた(顕在意識)が意のままに指令を出すというよりは、“彼”(潜在意識)が意のままに動きまわるのを、許す。という感じなのだ。
よく知られているとおり。
潜在意識というのは、きわめて従順な存在なのだが。
しかし。
だからといって、その従順さにつけ込んで、高圧的な命令を繰り返していたら、無謀な命令は、どうにかして応じようとしたあげく、潜在意識は「壊れて」しまう。
自分の現実は自分で創造している。
という話は、もはや聞かされすぎて、聞き飽きていることだろう。しかし、それにもかかわらず、あなた自身の現実が、きわめて不本意なものであるとしたら、それは、あなたの創造力が尽きたからではなく、そもそも現実創造はあなた(顕在意識)ではなく、“彼”(潜在意識)の分担である、ということを忘れてしまっていて、それどころか“彼”(潜在意識)の存在じたいを忘れてしまっているからだ。
世の中には。
不眠不休の努力を何年も重ねたあげく、何の報償も得られずに過労死してしまう、とか。
全身全霊をもって、とある教団に身も心も捧げたあげく、人生そのものが破綻する、とか。
そのような理不尽な人生の例は枚挙にいとまがない。
自分で自分の現実を創っているというのなら、
なぜそのような自滅的な事態が起こりうるのか??
それは。
その人の潜在意識が、瀕死の重傷ないしは
意識不明の重体に陥っていて、もはやその人のための現実を創りあげる力がない からだ。
潜在意識が死んでしまえば―――。
(※厳密には、潜在意識が死ねば、生命力の供給が断たれるから、顕在意識も肉体も死ぬ。だが、ここでは肉体としては生存できるていどの生命力は供給されているが、現実を創造する力はすでにない、仮死状態のようなものを想定してほしい。)
潜在意識(“彼”)が死んでしまえば、
その人のtまえに現実を創造してくれる力は、もはやどこにも存在しない。
その者自身にはまったく属さない、べつの『ナニカ』がその者の現実を勝手に創りあげることになり―――。
その状態では、いかなる理不尽も起こり得る。
歴史に記録されている この世の地獄は。
まさしく、このようにして現出する―――。
(※自分自身には属さない、べつの『ナニカ』が勝手に自分の現実を創りあげてしまう現象について、機会があれば詳定したい。『自分で自分の現実を創っている』はずなのに なぜ理不尽なことばかりが続くのか!?―――という疑問への答えが、ここにある!!)
潜在意識理論など、もはやだれだって知っている。
理論じたいが全否定されることなど、いまでは、ほとんど、ないだろう。
そのとおり。理論そのものを説明するだけなら、だれにだって、カンタンにできる。
しかし。だからといって、じゃあ、だれもが潜在意識を自由自在に使いこなして、望みどおりの現実を生きているのか、といったら、まったくそんなことはない。
では。両者のちがいは、どこにあるのだろうか。
単に説明できることと、実際に使いこなせることの、絶対的な境界線はどこ??
それがまさしく、気づきというものです。
潜在意識は存在する。だれにとっても。
顕在意識は存在する。だれにとっても。
しかし。そのことに気づいているかは、まったく別の話なのであり、
そのことが、唯一、明暗を分ける。
たしかに。
潜在意識の存在を知覚するのはむずかしく、だからこそ、
「潜在意識など存在しない!」と主張することだってできるし、その主張がまちがっているわけでもない。
ならば。
顕在意識はどうだろう?
「わたしにとって、わたしはたしかに存在している。」
「わたしが存在していることを。わたしはたしかに自覚している。」
たったのこれだけの話なのだから、まぎれもなく、だれにとっても顕在意識は存在していると言えるだろう。
だれにとっても、顕在意識は存在している。
だれにとっても、ここまでの条件は同じ。
しかし。ここからもう一歩。ほんの一歩先。
わたしにとって、わたし(顕在意識)はたしかに存在している、
ということに気づいている かどうかが、じつは大きなちがいであり。
じつに。顕在意識、ひいては潜在意識を使いこなせるかどうかの、越えるべき大きな峠は、じつは、この一点なのである。
すなわち。
わたしにとって、わたしはたしかに存在している、
ということに気づいていること―――。
さあて。
それでは話をもとに戻す。
経済学、ひいては経済というコトバで総称される事象すべてにおいて。
言うまでもない当然の前提として、あることがかならず行われ、そうでない場合などはない。
その、言うまでもない前提条件。
当然すぎて、かえって話題にする余地もない、
「わかりきったこと」とはなにか。
それは―――。
なにもかも。
この世に存在するすべてをお金(金額)に換算すること。
なにもかもを金額という数値に換算して把握すること。
金額、という単一の尺度に換算し得ないものは存在せず、したがって、なにもかもが金額という単一の尺度で比較可能だという基本命題。
ないしは最終教義(ターミナルドグマ)。
わかるだろうか?
わたしたち現代人は、この世はカネでできている、とさえ呼べるような、「経済」が徹底的に浸透し切った社会に棲んでいて、「経済」とは無関係な社会など、想定することさえ困難な世界に生きている。
そうして。お金とは、とどのつまり、金額であり、数値だ。
このことが、いったいなにを意味するか、
おわかりだろうか??
この世は「経済」でできている。
「経済」は、お金でできている。
そうして、お金は数字でできていて、
ようするに、この世のすべては、金額という数値によって、把握されうる。
いかがだろうか?
事実として。わたしたち(現代人)は、自分の人生に起こり得る諸現象を、無意識のうちに、とりあえず金額に換算して把握するという習性がいつのまにか、できあがってしまっていて、しかもそのことに無自覚だ。
そうではないか??
モノを買うなら→→→コスパ(コストパフォーマンス)は?
就職するなら?→→→生涯賃金は?
結婚するなら?→→→こいつの年収いくらだろう??
拝金主義を嗤うなかれ。
とにかく1円でも有利なほうを選択したい という姿勢は滑稽ではあるが、逆に言って、あまりにも不利な状況に陥るのを避けるためには、金額という尺度を無視するのはもはや不可能である。
「経済」が隅々まで浸透し、なにもかもがお金に換算される、この世界に生まれてしまったわたしたち(現代人)は、どうあれ、この世界観をうまくつきあっていくより、他はない。
単純に言って。
お金を得て裕福になるか/お金を得られず貧乏になるか、という選択からは、逃れられない、ということだ。
だからこそ、わたしは「支出の質」を、説いている―――。
①なにもかもがお金に換算され
②お金の有無(多寡)が、人間としての格付けまで、決めてしまう
という社会のありようは、当然のことながら、道徳的にひどい退廃をもたらす。
金銭をまったく獲得できないから、専業主婦は無価値だし、子育ては無意味。―――それを言うなら、子供は存在そのものが有害、という答えになるね。お金を稼いでこないばかりか、子育てには、いまや莫大なお金がかかるのが当然の状況だから!
その一方で、ブラック企業の社長は、売上が上がり、会社に利益が出ているかぎりは、英雄だ。このひどい矛盾!!
金銭第一主義が社会にもたらす悪しき弊害については、すでに多くの論者によって指摘されており。
したがって。わたしはこのテーマは扱わない。
このテーマに興味がおありなら、ほかの論者が書いたすぐれた論考がたくさんあるので、そちらを当たってみてほしい。
そうではなくて――――。
「経済」が優先されすぎた結果。
「経済」以外がすべての分野に弊害が出た。
そんなことを わたしは言いたいのではない。
「経済」が世の中全体に浸透し、
なにもかもをお金に換算するというありかたが
当然の前提にまで育ち、なおかつ、そのことに対してまったく無自覚になってしまったいま。
そのことがもたらす害毒は、
なによりも「経済」それ自身に及ぶだろう―――。
というのが、わたしの主張だ。
結論だけ述べれば、こういうことだ。
なにもかもがお金に換算されるのが当然になり、
なおかつ、そのことに対して完全に無自覚/無意識になってしまった以上は。
今後、景気が良くなることなど、未来永劫、二度とない―――。
読了されたら…
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