20年程前の当時のアヤワスカ日記より⑧
ホテルに着くやいなや、急に気持ち悪くなってきた。
タイミングが悪く、まだベッドメイクをしているので、10分ほど待って欲しいと言われる。フロントにトイレはなく、腹の底からこみ上げてくる液体をなんとか押しとどめ、部屋に入った途端、トイレに直行した。紫色の液体がほとばしるように口から出た。そして、この嘔吐を皮切りに、私のトリップが始まった。
シャワールームの壁の模様が、動き始める。ただの模様が、人面の、角の生えた羊の顔に変わる。すぐにそれはもとに戻るのだが、模様はぐにゃぐにゃと動いている。急いでシャワーを浴びてベッドに寝転んだ私は、脈絡なく飛んでくるビジョンに酔っていた。
しかし、この日のビジョンは、一回目の時と異なり、非常に現実味のあるシーンばかりだった。どことは分からないが、ヨーロッパの石畳のような風景、昔の日本の田園地帯のような風景、それらを鳥になったように俯瞰しながら、自由に飛び回りながら眺めている。
未来と過去、現在は同時に存在しているという。
それならば、死者にも会えるのだろうと、私は、現地ブラジルの伝統武術、カポエイラの達人と言われた、ビゾウロ・マンガンガに会いたいと念じてみた。
しばらく街を歩いていると、黒人の男性が現れ、私に武術の手ほどきをしてくれた。インスピレーションで彼だと分かった。
彼にとっては、武術というよりも、生き抜くための喧嘩の技術、戦いの技術であって、これを習ったり教えてくれというのが不思議だったようだ。彼とは言葉ではなく、テレパシーで話をしていた。言葉は使わないのだが、なぜか通じていた。一通り色々と教えてもらうと、やがて、私は彼の体の中に入り、彼が暗殺されたときのシーンを彼の目で体験していた。背後から、左肺を貫通したナイフに倒れ、ゆっくりと空を漂う雲を見ている。流れ出る血は、なぜか紫色に脳裏に焼き付き、痛みはまったくなく、とても気持ちがよい。
死を迎えながらも心地よい、この変な感覚を味わっているうちに、アヤワスカは私の体から抜けていった。
三回目の儀式。
その日、私はビジョンを見ることをあえてしないと決めていた。つまり、目を開けてじっとアヤワスカの誘惑に耐えることにしたのだ。脈絡のないビジョンをいくら見ても、それはただ楽しいだけに過ぎない。実はこの日も、目を閉じると、小さな女の子が出てきて、虫をつまんでは私に見せてくるビジョンを見ていたのだが、そんなものをいくら見ていても意味が解読できない。(注:当時は理解ができなかったが、あれからビジョンのメタファー解釈が進み、解読はややできるようになったと思っている。またビジョンをあえて見ようとしない…というのも、今から考えれば、滑稽で無理な試みである。)
私は最初に味わったような、あの情感を揺り動かすような体験がしたかったのだ。目を閉じていると、どうしてもこの脈絡のないビジョンが続く。音に意識をやると、音楽と歌が分離していくのが分かる。そのときの音楽は、太鼓や笛の音などが混じって合奏されていた曲だったが、笛の音だけが分離して自分の耳元で演奏されているような感覚になる。
しかし、私がアヤワスカに求めているのは、幻覚や幻聴ではなかった。この日、あえて、目を見開き、儀式の最後まで耐えた。儀式も終わりに近づき、もはや何度吐いたかも覚えていないほど嘔吐を繰り返しグロッキーになっていた頃、突然、インスピレーションと淡いビジョンを得た。不思議なことに、そのビジョンは、目を開けていてもやってきた。(注:メディスンの効果が強く表われたとき、もしくは過剰に摂取したときなどに表われる「開眼幻視」という状態)
それは、「ある世界」だった。
その世界は、真っ白だった。目に痛くない淡い白さだけだった。だから、そこには時計もなければ時間も音も味もない。そして、感情すらもない世界だった。あまりにも無垢で純粋なその白い世界は、その白い色ゆえに、何ものにも染まり、何ものにもなれ、何ものでもないことを訴えていた。
ただ、完璧な可能性を秘めたその「世界」は、完璧なまでに有能な故に、虚しく暇で、非常に退屈だった。もし、この退屈な世界に放り込まれるのなら、私はまだまだ人間でいたいと思った。この完璧な白い退屈な世界に比べれば、痛みも苦しみも悩みもある、この三次元の世界の方を私は選ぶだろう。そして、この白い世界に住人はいなかった。というよりも、人格や所有格すらも存在しなかった。
人は、「私の」とか「あなたの」と言いたがるが、本来は、自分が所有しているものなど何一つなく、この白い世界には、それらすべてが包含されていた。人間の脳には、阿頼耶識と呼ばれる領域があり、そこは主語が存在しない世界だという。つまり、私はあなた、あなたは私、私のものはあなたのもの、あなたのものも私のものという世界だという。
その白い世界では、その白さと完璧さゆえに、他人も自分もその世界に所属している一部であることを知る。他人を傷つけるとき、それは他人を傷つけているようで、実は、白い世界の所有物を傷つけていることになる。すると、自分もその世界に所属している一部なので、結局は、自分を傷つけていることになる。たとえばそれは、自分の人差し指や親指が自己主張してはいても、結局は、自分の体の一部に過ぎないように、自他の境が無意味で、自己主張が虚しいものに思えてくる感覚であった。
しかしこの感覚は、極論を言えば、肉親を殺されても、犯人に対し、怒りを感じないレベルの話に思える。けれども、この世界に、人格や人間的な感情は入り込む余地はなかった。この世界に入る資格は、人々がみな同じ、「白い世界」出自の所有物に過ぎないことに気づけた人のみに許されるものなのかもしれない。
ブラジル文化に大きな影響を与えたアフリカ人たちは、白を神聖な色だと信じていた。だから彼らの一張羅は、白一色の洋服だった。虹は七色というが、実際には、白色という基調の色の上に、様々な色が乗せられていると言う人もいる。黒色の上に赤色を塗ると、赤は再現されないが、白色の上では、赤色として再現される。つまり、どんな色にも染められるのが白というわけだ。すなわち、神は無、白であるがゆえに、そこから派生した我々の魂は、黒く染めることも白く染めることも自由自在ということだ。
同時にそれは、むなしさ、退屈さ、完璧さであり、とどめのない愛情を生み出すことも、逆に、残虐な殺戮や暴力を生み出すこともできる。すなわち、平和や愛、暴力と殺戮は、同じ白、無から生まれているということもできる。つまり、正反対に見える何ものかは、同じ母親から生み出されていた。「良いも悪いもない、それを決めるのはその人自身だ」と、禅や瞑想の世界ではよく言う。これはまさに、同じルーツから生まれたものを指しており、良い、悪いも、それぞれの立場と役割を果たしているだけであって、実際には裁く、裁かれる立場にあるものは何一つないのかもしれない。
