あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしています。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。
「塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。
また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノが存在していましたが、「塀」同様に現存は少ないです。復元(復興)、摸擬が大半ですが、特徴のある「橋」や「廊下橋」を中心にお届けします。
また、「供侍(ともざむらい)」「馬見所」等の特殊なモノもどうぞご覧ください。
お城の「歴史」や「城主(藩主)」、「立地」や「縄張り」については、今までに掲載してきた投稿をリンクしておきますのでどうぞご覧ください。
本日は「浅尾陣屋」(岡山県総社市門田)です。
城主(藩主)については、幕末に「交替寄合」の旗本「蒔田(まきた)家」が、1863年に「京都市中見廻り」の功績から加増されて1万石となって、当地に大名としての陣屋を築きました。
しかし、1636年に3千石を分与したので、1万石を下回り大名から「交替寄合旗本」に格下げされて幕末まで続きました。
※「交替寄合旗本」とは、旗本の家格の一つ、3,000石以上の旗本のことで、江戸在住の「常府旗本」に対して、所領に陣屋を築いて居住して参勤交代を行う寄合のことです。
「浅尾陣屋」の立地・縄張りは、海抜30mの丘陵地にある「丸山古墳」を取り込み、その東下にも拡がっていています。丘陵地には「御本殿」と「お台場」が置かれ、その東下には家臣が居住する武家屋敷が並びました。そして、丘陵地の周囲は土塀で囲われていました。
陣屋跡内には「城郭建造物」はありませんが、「稲荷神社」が建ち、「硝煙櫓」の土壁の遺構が竹藪の中に残っています。
「硝煙櫓」の土壁の遺構 ↓
「その他の城郭建造物」は、幕末1864年の「禁門の変」が原因で逃げてきた長州軍の浪人達によって、1867年に「陣屋」が焼き払われた時の残骸として、周囲を取り囲んでいた「土塀」が焼き払われて崩れた状態でかなりの長さが残存します。
周囲を取り囲んでいたが崩れかけた「土塀」の遺構 ↓
崩れかけた「土塀」の遺構 ↓
崩れかけた「土塀」の遺構 ↓
崩れかけた「土塀」の遺構 ↓
また、この残る「土塀」の造り方を参考にして、狭間も付けた「土塀」を一部の箇所に復元されています。
復元「土塀」 ↓
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