お城や陣屋を構成する「城郭建造物」の中に建つ「蔵」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしています。
お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。
元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)
しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。
このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。
今回は、「高鍋城」(宮崎県児湯郡高鍋町)の「城郭内の蔵」をお届けします。
平安末期に「土持家」が築いた「財部(たからべ)城」は、1450年頃に「伊東家」の支配下に入りました。
安土桃山時代になると、「財部城」は「島津家」の支配下に組み込まれましたが、「豊臣秀吉」の九州征伐で「島津家」は大幅な所領没収を受けた影響で、「島津家」の傘下で筑前・筑後・豊前が勢力範囲であった「秋月家」は、「秀吉」に名器の茶壷「楢柴(ならしば)」を贈って許しを請い、大幅な所領削減はあったものの財部3万石に国替えとなりました。
「関ケ原の合戦」では、「秋月種長」は当初西軍でしたが途中で東軍に替わることで領土が安堵されました。
その後「財部城」を整備して、名前も「高鍋城」と名称変更を行いました。その後当城は「秋月家」の居城として幕末・維新まで続きます。
「高鍋城」の立地と縄張りは、山城であった中世財部城の中腹に「本丸」を築き、「奥御殿」などの御殿部分を置きました。そして、「岩峰門」から下った一段下には「二の丸」を置き、中央に「岩坂門」を据えています。
お城の縄張り図(現地に掲出) ↓
「高鍋城」内にあった「籾(もみ)蔵」が、元家老宅で民家「黒水家」の敷地内に移築されています。
明治時代になり1977年の「西南戦争」時には、薩摩軍に好意的でない9人をこの「籾蔵」に閉じ込め、牢獄替りとして使用されていたそうです。
屋根は「寄棟造り」で「桟瓦葺き」で、2階建て住居風の大きな建物です。内部は小屋組で土壁ですが畳敷きの部屋がありますので、牢屋として9人を収納した際に改修されたのではないかと思います。
民家「黒水家」の敷地内に移築されている「籾(もみ)蔵」 ↓
民家「黒水家」の敷地内に移築されている「籾(もみ)蔵」 ↓
民家「黒水家」の敷地内に移築されている「籾(もみ)蔵」(寄棟造り) ↓
「籾蔵」内部の壁は「土壁」 ↓
「籾蔵」の天井は「小屋組」 ↓
「籾蔵」の中に「畳敷き」の部屋もある ↓
「籾蔵」内の障子と白壁 ↓
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