一昨日から、お城や陣屋を構成する「城郭建造物の中に建つ」(全国「城郭内の蔵」を巡るシリーズ)を採り上げてお届けしています。

 

お城(陣屋や代官所含む)には、「天守」「櫓」「御殿(能舞台や茶室等含む)」「門」「番所」の他に、戦闘に使用する武器類、生活を維持していく為のお金等の財産、命を繋ぐ米などの食物類、その他生活に必要な物品等々を保管しておく「蔵」や「納屋」が必ず設けられていました。

 

元々は、そのようなモノを保管しておく「蔵・納屋」が独自に築かれていましたが、江戸時代に入り平和な時代になってくると、戦闘用や監視用として築かれていた「櫓」がその目的から外され、蔵的な利用に切り替えられるお城が多くなりました。(鉄砲櫓、槍櫓、弓櫓、米櫓、塩櫓、麦櫓、干飯櫓、荒和布櫓など)

 

しかし今回は、そのような蔵的利用された「櫓」は割愛して、元々から「蔵・納屋」として築かれ名称も「〇〇蔵、○○庫、○○倉庫」と称する建造物を集めました。

 

このシリーズでは、現存、復元、復興、模擬のモノを紹介していきますが、「蔵」は殆どが現存のモノが多いです。

 

今回は、盛岡城」(岩手県盛岡市内丸)の「城郭内の蔵」をお届けします。「日本100名城」の選定されています。

 

「豊臣秀吉」小田原遠征による天下統一の少し前、「南部信直」が豊臣政権に巧く取り入ったことから、東北地方の北東部分を抑えることができました。

 

更に、「大浦家」が統治していた「津軽」をも手に入れようと「秀吉」に望んだのですが、「弘前城」の「大浦家」は小田原に参戦していて領地を安堵されていたので、「南部家」の望みがかなえられなかったようです。息子の「南部利直」は、「秀吉」の寵臣であった「蒲生氏郷」の養女を妻にして、一層豊臣政権に近づき、「盛岡城」はこの頃から修築を始め居城としました。

 

「関ケ原の合戦」では、「利直」は徳川方について、「上杉景勝」を攻めるべく山形に出陣しました。このことで、本領を安堵されるようになります。「盛岡城」は、この後も修築を進め1633年に完成し、「南部家」は幕末・維新まで続きます。

 

盛岡城」の立地と縄張りですが、当地は石材となる花崗岩が産出する丘陵地に造られたことから、石が豊富にあり東北地方では珍しい石垣造りのお城となっています。

 

西側に流れる「北上川」に沿って、「本丸」「腰曲輪」から「二の丸」「三の丸」にかけての面は長大な石垣が続き、特に「二の丸」西面の高石垣は立派で、積み方も「打込接」でありますが、殆ど隙間もなく「切込接」に近い積み方になっています。

 

「本丸」-「二の丸」-「三の丸」が縦に並ぶ「連郭式」の曲輪で、「本丸」は約70m四方の小さな形でしたが、南東角には三層で屋根が赤瓦で葺かれた「天守」が築かれ、北西角と南西角には二重櫓(納戸櫓、二階櫓)が置かれました。

 

縄張り絵図(赤丸は下記「彦御蔵」が建つ位置、絵図は城内に掲出) ↓

 

城内の「本丸」跡下に設けられた「腰曲輪」跡内の米内蔵跡に、城内唯一の城郭建造物「彦御蔵」が移築されています。

 

屋根は「切妻造り」で野地板に土塗りでその上に木造屋根組の二重という構造になっています。一重ですが土蔵造り内部は二階建て、外壁は白漆喰で塗籠められています。

 

妻側には庇付きの銅製の「窓」が四カ所あり、桁側は庇はないですが銅製「窓」が2箇所あります。

 

米内蔵跡に移築されている「彦御蔵」 ↓

米内蔵跡に移築されている「彦御蔵」 ↓

米内蔵跡に移築されている「彦御蔵」 (独特な屋根構造) ↓

 

また、城下にある1638年創業の小間物屋で、現在は文具事務・オフィス用品を扱う「木津屋本店」の土蔵群には、「盛岡城」から移築された「蔵」があるということですが、どれがその蔵なのかが判りませんでした。

 

「盛岡城」から移築された「蔵」があるという「木津屋本店」の土蔵群 ↓

「盛岡城」から移築された「蔵」があるという「木津屋本店」の土蔵群 ↓

 

 

 

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